作家と作品の関係
私なりの考察を一つ。
作品は子供、作家の一部、関係性なく、作家は作家、作品は作品単品として価値がなければいけない…etc 様々な意見が飛び交う。
私は「作品は、もちろん単品での技量、素晴らしさも重要だが、作家の思考、嗜好、人間性、etc
その作家の、”みている”ものを表す媒体である。」
と考えている。
元来私が”みている”もの、とは、形や言葉を持たない。
”人間関係とはそういうものだ”と思っている。
対象が、そのグループにおいてどのような関係性を持っているか、”その人はどんな視野でどんな世界をみているのか”、どのような関係性を築いているのか、”どう接触しているのか”、その美しさ(魅力)とは何なのか、そして、私にとっての魅力、なぜ惹かれているのか、さらには、なぜその価値を本人が、周囲が、気付いていないのか、『私がその魅力を探求することで、その人を、空間を、場を、プロデュースすることはできないのか。』
これに限る。
そして私は、評論家になるつもりはない。
”当事者”で、居続けたい。
そして、私は他人を探求し、時には真似、学びとることで、生きている。
それを知識として、体感し、体現する。ともに生き、ともに学ぶ。そういう、生き方なのである。
それこそ私の「人間らしい」と言われる所以であろう。
作家とは、形なきもの、言葉なきものを実体化し、時に問題を提示し、時に体験させ、観客に非日常(いわゆるイベント)でありながら、新しい発見や感動、道筋をそっと伝える。
作品は、言葉や態度で示すには、あまりに安っぽいが作家にとって価値のあるものをよりクリアに、より精密に練り上げることができる、最も精度の高い言語であり、最も最古のコミュニケーションツールである。
人を束ね、何かを執り行うこと、それこそイベントである。
他者に自分の関心のあるもの、視点、何かを伝えることとは、芸術の一端である。
自分自身が追求し、方針を探り、クオリティを引き上げるのもまた、芸術である。
『人が生きる、とは、すなわち、芸術なのだ』と私は思う。
人がよく口にする「芸術がわからない」とは、「自分の生き方がわからない」と類義語であったりもする。深く知ろうと、見ようと、そんな世界があることすら、知らないのだろうと思うのだ。
誰にでも、あるはずなのだ、大口開けて待っている、あなたの中の”心の口”、というものが。
それこそ、 肌で感じる、トキメキ、魅了される、ということであり、時には、圧倒される、恐怖、とすら表されるかもしれない。胸が脈打つ、血が騒ぐ、意味もわからないが取り憑かれたように引き寄せられるものとは、待っているだけでは来てくれない。知らねばならない。それこそが、その人にとっての芸術の入り口である。