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日本男声合唱史研究室

Orphéons(オルフェオン)について

2018.10.29 07:37

「Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNLLE”の研究」の補足として


ブログでは「Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNLLE”の研究」の補足編として続きに書いたのだけど,ホームページでは長くなりすぎるので,記事の補足編として独立させます。

 さて,デュオウパのミサはオルフェオンというフランスの国民的合唱運動のために作曲されたと書いた*。ドイツのリーダーターフェルに比べ知られていないようなので,ここではもう少し詳しいことをまとめる。私もあまり知らなかったので自分の勉強として調べてみると,実は意外な形で日本の合唱活動と関わってくることが分かった。

* 井上さつき先生が引用する 『19 世紀フランス音楽事典』 によれば, 「19世紀フランスの合唱および器楽音楽のアマチュアのアンサンブルの大半を示すために固有の意味および総称的な意味の双方で用いられる名称」とある 。


 男声合唱として,編曲ではないオリジナルのフランスの曲を歌うことは多くはない*。私が知る限り,サン・サーンスの何曲かとプーランクの「アッシジの聖フランシスコの四つの小さな祈り」「パドヴァの聖アントニウス賛歌」ぐらいではないか(最近,音楽之友社から島信愛氏による「プーランク男声合唱曲集」が出版された)。宗教曲に広げても,デュオウパのミサ,グノーのミサ(主として第2ミサ),ケルビーニのレクイエムがある程度と思う(ケルビーニはイタリア人だけど活躍の舞台がフランスだったので)。混声や女声になると幅が広がるけれど,こういう状況ではオルフェオンに対する理解が少ないこともやむをえまい。

2018/10/9追記

「フランスの曲」と書くつもりで「フランス語曲」と書き,「せき」様から「「パドヴァの聖アントニウス」はラテン語です」と指摘いただいた。表記の形に修正します。

 同氏からは「フランス語の男声合唱曲だと他に,ルネサンスものですが,ジョスカン・デ・プレ作曲「3つのシャンソン」が意外と取り上げられてます。」とご教示いただいた。感謝。

 確かに,ジョスカン・デ・プレは宗教曲が有名だけど,フランス語のシャンソンやイタリア語の世俗曲も創作活動の中心においた。シャンソンで有名なのは恋人を失った悲しみを歌った「Mille regrets,はかりしれぬ悲しさ(千々の悲しみ)」で,「皇帝の歌」とも言われ,皆川達夫氏は天正遣欧少年使節が帰国した際に豊臣秀吉の前で演奏したのはおそらくこの歌であろう,と考察している。


 これは日本側とフランス側の双方に理由があるのだけど,その話の前にもまずオルフェオンについて調べたことをまとめる。オルフェオンについて日本語で読めるまとまった解説は,今谷和徳・井上 さつき「フランス音楽史」(春秋社)所収の「民衆と音楽 -アマチュア音楽活動の発展-」,および,井上さつき先生の論文*,遡っても1948年(昭和23年)に「合唱の友」(Vol.1,no.2)に清水脩が書いた「オルフェオンについて」ぐらいだと思う**。

* 愛知県立芸術大学リポジトリ https://ai-arts.repo.nii.ac.jp/ で何件か読むことができる。

  パリ万博「音楽展」における「オルフェオン」

  フランス人が見たドイツ合唱同盟祭 (1865年)

  小松耕輔と第1回合唱競演大音楽祭(1927)

2018/10/9追記

** 安藤龍明さまから「ご存じかも知れませんが、浅井香織『音楽の<現代>が始まったとき』(中公新書)のなかで、「オルフェオン・ド・パリ(パリ男声合唱協会)」が8ページにわたり扱われています」とご教示いただきました。感謝。


 ここから,主として井上の本や論文を参考にオルフェオンについてまとめていくが,フランスとドイツの合唱運動は相互に影響を与えあいながら発展しており*,フランス単独で記述するよりドイツについても記したほうが分かりやすい。そこで,ドイツの運動については井上の論文以外に,以前ローレライの項で引用した櫻井雅人他「仰げば尊し」中のヘルマン・ゴチェフスキ「『小学唱歌集』の起源はプロイセンの教育用民謡か」を主に参照した。

* Melvin. P. Unger「Historical Dictionary of Choral Music」では,オルフェオンもリーダーターフェルも独立した項目はなく,Singing Societies (Choral Societies)としてまとめて説明されている。

 

 よく知られているように,中世のカトリック教会ではミサなど宗教行為はラテン語で行われていたが,16世紀にルターが宗教改革を始めると,プロテスタント地域では聖書・礼拝・賛美歌をドイツ語で行うようになった。カトリックでは歌うのは専門の聖歌隊なのに対し,プロテスタントでは参加者が歌うことが理想とされたためだ。そのため,以後賛美歌はドイツ語文化圏の発展に大きな役割を果たすことになる。また,ドイツの合唱レベルを民衆レベルで引き上げることに繋がった。

 注意すべき事は,教会でドイツ語で歌う経験が普段の生活にも浸透,世俗合唱の起源になったのではないことである。宗教(教会)音楽が特別なもので日常には世俗音楽の世界があったという誤解してしまうが,金剛正剛「キリスト教と音楽」(音楽之友社)によれば,当時の民衆にとって気軽に無料で音楽を聴けるの場所は教会であり,世俗音楽は貴族や上流階級の館でないと聴けなかった。つまり,日常的に主流の音楽とは教会音楽のことであり,世俗音楽はめったに聴けない高嶺の花だった。金剛の本はカトリックについて述べたものだけど,プロテスタントでも状況は変わらなかっただろう。つまり,日常生活に世俗合唱などなく,賛美歌すなわち日々の合唱だった。実際,後にドイツで男声合唱運動が起こった際も,当初は歌われるものは賛美歌がほとんどだったと記録されている。

 フランスでは,16世紀初めにクレマン・ジャヌカンが「鳥の歌」などがフランス語の合唱曲(シャンソン)を作曲し,上流階級には歌われていた。一方,フランスではカトリックが強く,プロテスタントはユグノーと呼ばれ迫害され,ドイツやオランダに逃亡した。そのため現在でもフランスのプロテスタント比率は2%程度と低い。おそらく,その頃もドイツのように自国語で賛美歌を合唱することはなかったと思われる。17世紀ブルボン朝では王や貴族はオペラやバレーに熱中し,独唱曲が盛んになったため,上流階級でも合唱は下火になった。

 一方,政治的には17-18世紀のヨーロッパではフランス王が第一の権力者であったため,国際公用語はそれまでのラテン語からフランス語に替わりつつあった。ドイツでは,公用語がフランス語化するなか,上流階級は日常的にフランス語を使うようになり,フランスへの「憧れ」と「憎しみ(ドイツ文化が飲み込まれる恐れ)」が併存するという微妙な状態となった。市民階級は,1789年のフランス革命に大きな思想的影響受けた。

 フランスでは革命の際,ラ・マルセイエーズなど闘争歌がフランス民衆を動員し,革命をなしとげる原動力の一つとなり,国民による軍隊が生まれた。ナポレオンが覇権を握ると,統一されたフランスに対しヨーロッパの人々は危機感を覚え,ドイツ語圏でも愛国運動が起こった。フランスと比べ統一が遅れたドイツでは,それは「まだ存在していない遠い未来の国家への理想主義的な思想」であり,実現のためには国民の意識を高める必要があり,歌が重要な手段となった。ラ・マルセイエーズに対し「ドイツ人の祖国はなんだろう」という闘争歌が歌われ,また編曲された民謡やドイツ語の合唱曲がたくさん作られ,歌われるようになった。

  ベルリンでは1791年にジング・アカデミー(Sing-Akademie)が創立され,1808年にカール・ツェルター(Carl Zelter (1758-1832))によりリーダーターフェル(Liedertafel)と改名された*。その後,ドイツにはエリート的で閉鎖的なリーダーターフェル運動と,スイス人ネーゲリ(Hans Georg Nägeli(1733-1836))により南ドイツに広がった庶民的・開放的なリーダークランツ(Liederkranz)運動が存在した。男声合唱運動を牽引したのはリーダークランツの潮流で、その活動は南から中部ドイツへと広がり1840年代には全ドイツに普及した。南ドイツで始まった合唱祭も1830年代以降北ドイツ各地でも聞かれるようになり,さまざまな合唱同盟が成立した。当時のドイツでは,統一を望むのは市民階級で,貴族階級は統一に否定的だったため運動への熱意に差があったのかもしれない。しかし,リーダーターフェルも次第に開放的なものになり,ドイツの男声合唱運動といえばリーダーターフェルと言われるようになった。

2018/10/9追記

* このように書いてある資料が多いのだが,関口博子「近代ドイツ語圏の学校音楽教育と合唱運動」(風間書房)によれば,ジングアカデミーとリーダーターフェルは別の団体。

 ジングアカデミーは公の場で演奏を行うことを目的とし,メンバーも音楽の準備教育を受けていれば男性も女性も参加でき,人数制限はなかった。

 一方,リーダーターフェルは1808年のジングアカデミーのメンバー送別会で,居合わせた男性会員がテーブルを囲んで歌ったことが発端となり設立された。公の場で歌うことは目的ではなく,メンバーも24名に制限された。また,「メンバーは,詩人か,歌い手か,作曲家でなければなりません」とされていた(松本彰「十九世紀ドイツにおける男声合唱運動」(近代ヨーロッパの探求11「ジェンダー」ミネルヴァ書房刊)所収)。

Guillaume Louis Bocquillon Wilhem


 フランスでは,革命歌や賛歌が消え去り,19世紀初頭は合唱活動が低調だったが,リーダーターフェルの影響を受け,次第に盛んになっていった。オルフェオンは,音楽教育で名を上げたギョーム ・ルイ・ヴィレム(Guillaume Louis Bocquillon Wilhem (1781-1842))が1833年にパリで彼の生徒たちのために合唱団を結成,オルフェオンと名付けたのが始まりとなる*。1835年には労働者階級も参加できるようになり,翌年には児童と成人男性のための初めての公的な組織として「パリ市オルフェオン協会」へと昇格した。ヴィレムの死後もシャルル・グノーを監督に迎え,名声は更に高まり,1830年台はパリ市オルフェオン協会以外にも合唱団体も増え,1850-1860年代にかけオルフェオンは全国に広がり,総称名称として使われるようになっただけでなく,吹奏楽団にも用いられるようになり,アラスにも1845年にオルフェオンが創立された(デュオウパは1854年から指揮者だった。Orphéonistes d'Arrasは現在も混声合唱団として存続している)。

* オルフェオンとは,ギリシャ神話に登場するオルフェウス(フランス語ではオルフィーOrphée)に由来する。彼が歌えばどなな猛獣も足元にひれ伏し聞き惚れたという。妻が死んだ際,冥界まで連れ戻しに行き,その音楽で冥界の王ハーデスの説得に成功するが,「地上に着くまで振り返ってはいけない」の言いつけを守れず失敗したという話が有名。


 1855年には合唱オルフェオン300と器楽オルフェオンが400を数え,1860年にグノーが指揮していた頃には,3200団体約15万人が参加しており,1870年にはフランス全土で7000団体まで増加した。 合唱や声楽の授業も活発になり,パリのコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽・舞踊学校)でも声楽家の生徒はみな合唱の講義に出る決まりとなった。オルフェオンの雑誌も続々創刊され,1855年「オルフェオン」,1861年「エコ・デ・オルフェオン」「フランス・コラール」,1883年週刊「ラ・モンド・オルフェオニック」などがあった。

 リオンで開催された1869年の合唱コンクールに参加したオルフェオンについて,団員たちの職業を調査した記録が残っている。それによると「労働者3068名,農民920名,従業員896名,実業家・商人756名,地主・金利生活者394名,教授・教師・芸術家312名,・・・公爵1名,羊飼い1名,上院議員1名」と様々な階層の人が参加しており,特に従来音楽活動とはあまり縁がなかった社会の低い階層に集中していた(井上さつき「音楽を展示する パリ万博1855-1900」(法政大学出版局)より)。

 オルフェオン団体の,毎年の目標はコンクールやフェスティバルでよい成績を収めることにあり,主催者側も様々なメダルや賞金を出しモチベーションを高めた。ローラン・ド・リエ(Laurent de Rillé (1828-1915)),グノー,サン・サーンスもオルフェオンのために曲を書いた。井上の本や論文には,知られていないたくさんの男声合唱曲が記されている*。

* フェリックス・ロージェル「合唱」(文庫クセジュ)に,「ローラン・ド・リエが作ったオルフェオン用の合唱曲はおおいにもてはやされた」とあり,清水脩によれば100以上の男声合唱曲を書いたらしい。井上の論文から,彼の合唱曲として「サ ン・ユベール La Saint-Hubert 」「退却 La Retraite 」「村の婚礼 La Noce de Village」「エ ジプトの息子たち les Fils d’'Egipte」「アヘン吸引者たち Les Fumeurs d'opium 」などが拾い出せる。


 前述のように,メンバーが音楽の「素人」である以上,上位を目指すには音楽の専門家が指揮者を務める必要がある。デュオウパがアラスのオルフェオンの指揮者になったことも,その意味で歓迎されたのであり,実際優秀な指揮者でありコンクールで何度も優秀な成績だったことは経歴に細かく記されている。デュオウパのミサはオルフェオンのために書いたものだけど,フランスではオルフェオンちとは別にプロテスタントの合唱音楽を復興する運動もあったらしく,これはアレクサンドル・セリエが指導者だった。

 

 これほどの熱意があり多額のお金も動いたオルフェオン活動だけど,wiki(フランス版)によれば,今日ではバスク地方を除きほとんど忘れ去られているにしい。20世紀に入り,民衆の関心は次第にオルフェオンからスポーツに移っていった。フェリックス・ロージェルは「スポーツ団体の補助金をもう少しへらして,わがフランスの音楽協会をもうすこし助けてもらえないものか!」と愚痴っている(原著は1948年刊行なのでそのころの状況)。

 なぜ衰退したのか,フランス語の資料を英訳し読んでも私には良く分からない。1つには,政治的な理由によるもののようで,愛国的運動としてのオルフェオンは否定的な評価らしく,wikiの英訳によれば「オルフェオンの記憶を消すことが必要」「意図的に公式の歴史学、特に学校でこれらの現象を忘れる」と記されている。そして「オルフェオンを忘れたいという欲求のため,関連する文書は組織的に破棄された」とあり,そのためか「具体的な研究はほとんど行われていない」状況にある。

 もう一つ思うのは,前述のようにオルフェオンの団員が音楽教育を受けておらず,かつソルフェージュ等の基礎訓練を嫌がり,音楽レベルがなかなか上がらなかったためと考えられる。1865年ドイツの合唱祭を見学したフランスの音楽評論家とオルフェオン関係者は,ドイツの合唱レベルが高いことに驚いている。フランスでは,フェスティバルやコンクールの場においてさえ,各団体が歌うのは課題曲のみであり,演奏は決して優れたものではなかった。国も演奏の水準をあげることより,民衆を全国から動員することに重きをおいた。代わり映えしない合唱が,だんだん飽きられていったのかもしれない。


 これが私が理解したオルフェオン活動のあらましだけど,日本でオルフェオン活動が知られていない理由の一つは,日本で合唱が市民権を得始める20世紀初頭,フランスの合唱活動は既に下火になっていたからである。更に日本の音楽界は「ドイツ音楽こそ至高のものである」と考え(今もそうかもしれないけれど),フランスに目を向けなかった。慶應義塾ワグネル・ソサィエティーの活動は早くから大塚淳が合唱とオーケストラを指導していたが,ドイツに留学した大塚はドイツ志向で,リーダーシャッツの曲を日本人向けに移調し訳詞をつけ「男声四重唱曲集1・2」として昭和3年に出版した。関西では関西学院グリークラブも同志社グリークラブも,プロテスタントのキリスト教系で初期は賛美歌を含め英米系のレパートリーが中心だったが,同志社グリークラブでは大正10年頃に山口隆俊氏がドイツ合唱曲に目を向け,また関西学院グリークラブでは昭和5年ごろ林雄一郎氏がドイツ合唱曲の研究を始めた。

 では日本の合唱界はフランスの影響を受けなかったのかというとそうではなく,現在も含め大きな影響のもとにある。それは,昭和初期に小松耕輔が導入した合唱コンクールとそのスタイルである。


 以後,一般的な合唱の話になるけれど,オルフェオンとの関係としてみていく。小松耕輔(玉巌)は,明治17年(1884年)生まれの音楽家。東京音楽学校に進学後,明治期に雑誌「音楽界」で合唱曲を紹介し,またメンデルスゾーンの男声合唱曲などを含む「名曲新集」を編集・出版するなど合唱曲の普及に努め, 学習院助教授だった大正9年(1920年) から大正12年(1923) までパリに留学。帰国後国民音楽協会を設立し,昭和2年に日本で初となる合唱コンクール「合唱音楽祭」を開催した。「合唱音楽祭」開催の経緯は,長木誠司「戦後の音楽」の「第2章 合唱とうたごえ」や戸ノ下達也「日本の合唱史」などでまとめられている。


 この経緯は私も何度も読んだけれど,合唱を普及させるため海外の例に習って開催したのだろう程度の認識しかなかった。今回,井上の論文「小松耕輔と第 1回合唱競演大音楽祭(1927)」で「小松が日本で合唱祭を聞く際にフランスのコンクール形式での開催にこだわった理由」を研究する余地がある(必要がある)と述べているのを知り,大変面白い着眼点と感じた。

 この問いかけは「音楽といえばドイツ」という前提の上に成り立っている。明治のはじめ,伊沢修二や米国人メーソンにより米国の教育システムを取り入れた日本の音楽界は,それを主導した音楽取調掛がドイツ傾斜を深め,その使命を教育システムの確立から一流音楽家の育成へと変えていく中,滝廉太郎や幸田延を米国ではなくドイツに留学させた*。大衆も,竹中亨「明治のワグナー・ブーム」に記されているように,聴いたこともないワーグナーの音楽に憧れ崇拝するという現象が起きたドイツ音楽が至高という認識が広がった(それが書物から得た知識であるとしても)。

 つまり,井上の問いかけは「なぜドイツ式のコンクール(Wettbewerbというべきか)でなく,フランスのコンクールConcoursを採用したか?」という意味である。小松が留学した当時,ドイツの合唱運動は盛んだったが,活動は優劣を競わないフェスティバル方式,つまり合唱祭形式が主として行われていた。ドイツ式でなくフランス式を小松が採用した理由は,彼がパリに留学し,その際に見たコンクールに民衆と音楽の理想形を見て感動したからとされているが,果たしてそれほどシンプルなのだろうか?

* なぜ米国のシステムだったかについては,または,なぜ音楽や合唱(当時の言い方で復(複)音唱歌,重音唱歌)を取り入れたかは,安田寛「唱歌と十字架」や中村理平「キリスト教と日本の洋楽」などで研究されている。一部は私のホームページ「合唱という言葉はいつ頃から使われたのか?」(https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1669216)で紹介している。

 現在でも音楽に関しては英語が多く使われているのはその名残だろうか。ピアノやヴァイオリンなどの楽器名,コンサート,オペラ,オーケストラ,そしてもちろんコーラスもそうである。ドイツ語なら,クラビアKlavier,ガイガGeige,コンツァートKonzert,オーパルOper,オーケスタルOrchester,コールChorとなる。その中でコンクールというフランス語は珍しい。

 竹中によれば,音楽取調掛がオーストリア人ディトリッヒを雇用したことが,ドイツ傾斜のきっかけとなったらしい。「ドイツ音楽万能主義」は日本だけでなく米国などでもそうで,「イタリアやフランスの音楽文化はもともと娯楽性が高く,音楽の中に『世界の救済』だの『言葉に尽くしがたい無限のポエジー』だのといった形而上学を求めたがる伝統は,そこにはなかった。それをドイツ側から見れば,『不逞無頼の徒』がやる,唾棄すべき軽佻浮薄な音楽ということになるのである」であった(岡田暁生「音楽の聴き方」)。のちに,小松が和声を習ったフランス人教師ノエル・ペリーが「音楽学校のドイツ閥によりいじめ出された」らしい。


 小松が見たオルフェオンのコンクールは,日本人にとって華やかだったかもしれないが,先程みたように既に下り坂であり,そのレベルも高くなかった。小松はドイツにも旅しており,おそらくその違いを分っていただろう。英米の合唱団のレベルについても知っており,早くからフランス音楽に目を向けていた小松だからこそ*,単なるフランスびいきからコンクールを選択したのではなく,比較検討の上で選択したと思われる。

 音楽が民衆の間に広がることを願っていた小松は,特に日本で発達が遅れている合唱を普及させるため,コンクールを使うことを考えた**。彼が書いた昭和2年2月の東京日日新聞の「音楽を民衆へ -合唱大音楽祭について-」では,「競演(コンクウル)は実に民族音楽の花である」と力説している。

 しかし,実際に開かれた第1回「コンクール」は,「合唱コンクウル」でも「合唱競演会」でもなく,ドイツ風のフェスティバルのイメージスが強い「合唱音楽祭」と名付けられた。これは,競演(競い合う)とすると恐れをなし参加団体が少ないのではと懸念したためだとか,音楽家の中からも「音楽を相撲と同じく勝負を争うことは音楽の神聖を汚す」と反対の声があったため,とされている***。名前ではなくスタイルという実が重要,ということだ。

 こうして開催された第一回は11団体が参加したが,実際は「高等学校や大学方面の合唱団は二,三しかなかった。従って第一回のプログラムの編成には実に苦労した。方方へ借り出しに出かけて,ようやく間に合わせた」という状況だった(合唱界 vol1 no.7 (1957))。プログラムを見ると,「音楽嗜好会」という同好会から男声・女声・混声の3団体がでいる。秋山日出夫によれば,「わずか12団体(ママ)に審査員が三十二三人いたのです。要するに楽団の長老を全部網羅しちゃって,ラッパを吹く人や,チェロを弾く人や,軍楽隊の隊長まであつめて審査をやった」ということで,こちらも噴飯ものだけど,苦労の跡が偲ばれる。もっとも,山口隆俊(後述)のスクラップ帳に残されたプログラムをみると,何人かは来られなかったようだ。

* 明治42年刊の「名曲新集」の中扉は「NOUVEAU RECUEIL de CHANSONS SENTIMENTALES par K. Komatsu」とフランス語で記されている。

** 山口篤子「国民音楽協会と合唱音楽祭の初期事情 -小松耕輔の民衆音楽観を中心に-」にオリオンコールの指揮者だった吉田長靖の述懐が引用されている。それによると,ピアノ製作者の齋藤喜一郎から小松清(耕輔の兄で仏文学者・作曲家)にピアノを1台寄贈するから有意義に使ってほしいと申し出があり,小松は「兄の平五郎(注:小松の兄で指揮者・作曲家)とも相談の上,評論家・三潴(注:みずま)末松のところへ話を持ち込んだ。そこで合唱が一番振るわないからコンクールをやって1等にこのピアノを与えたらいいと話がまとまった」

 この話が本当なら,コンクールの開催は小松耕輔一人の考えではなく,合議的にきまったことになる。そして,ピアノが一台しかないから順位をつけるコンクールでの開催が必然となる。なお,「男声合唱団 東京リーダーターフェル1925 55年史」によれば,賞品はオルガンとなっている。

(2018/11/1追記)

 山口が引用する「音樂之友 vol3-1 (S18)」を読むと,入賞者には金・銀・白銅・銅のメダルのほか,副賞としてピアノ・オルガン・蓄音機などが渡されたとある。つまり東京リーダーターフェルは2位だったから「賞品はオルガン」としている。

 1位の賞品ピアノは,一位の内外オラトリオが受け取らなかったため(後述のように指揮者と団員の半分がドイツ人で,大人と子供以上のレベル差があった),東京リーダーターフェルに贈られることになったが,こちらも1位でないからと受け取らない。当日は結論が出ず,重いものなのでそのままにして帰ったところ,翌日ピアノはなくなっていた。自動車がきて持っていったらしいが,どちらも受け取っていないという歯切れの悪い結果となった。吉田は「ピアノは行方不明になったが,子供(コンクール)は健やかに成長した」とうまく締めくくっている。


*** 小松自身はコンクールと名付けたかったが,「相当の大新聞でもコンクールとコンクリートと間違えるものもおった時代だから」と日本語にした理由を述べている。

 なお,コンクールConcoursは,気性的にフランス人にあうのかもしれない。山口隆俊(同志社グリークラブ出身,東京リーダー・ターフェル・フェラインを創立)が,雑誌「民謡音楽(vol.2 no.5(1930))」の「民族文化として見た男性合唱競技」で次のように述べている。

「仏国に於ける合唱競技Konkursコンクールは、有名なる男性合唱団オルフェオンOrphéonの主催する所であるが,其大体は白国の其と大同小異で,終始競技に勝利を獲得する事を目的とし,合唱の喜びを共にすると云った民族的意識に立脚して居ない処が其特色であって、此点は日本の此種催も又同様である」

 山口は小松のように海外を視察していないので,フランスやベルギーに対する見解は自身のものではなく,彼の蔵書「エルベ博士著『民族文化として見た男性合唱発達史』」によるものだろう。なお,コンクールをKonkursとCをKに変えドイツ語風表記にしているが,これでは「破産」という意味になってしまう。


 井上の考察では触れられていないが,前述の「音楽を相撲と同じく勝負を争うことは音楽の神聖を汚す」とした音楽家の言動はこの問題を考える一つの鍵である。「合唱界 vol1 no.10 (1957)」によれば,これは慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団を指揮した大塚淳(すなお)である。

「一番反対したのは声楽の大塚順(ママ),なかなかいい男なのだが,ガンとして聞かない。『合唱は角力じゃない。競技扱いするのは神聖を害す』ということでね。ところがこの男,外国に行って始めて(ママ)事情がのみこめた。『どうもあいすまん』ということになって,『時事新報』の合唱コンクールには,有力なメンバーとして活躍してくれた」

 大塚は留学先のベルリンで,何を見て,なぜ「フランス式のコンクールに賛同」する立場へと考え直したのだろう?


 おそらく,小松も大塚もドイツのように「合唱を楽しむ」レベルから,日本はほど遠いと感じたのではないか。楽しむためには,あるレベル以上の技術的基礎がいる。まずは技術を鍛錬しレベルアップを図り,日本人による一流の合唱が聴けるようにならなければ,民衆レベルでの合唱の普及はない,と認識した。小松はオルフェオンのレベルが高くないことを理解しながらも,そのレベルに及んでいない日本はまずコンクールと考え,合唱を指導していた大塚も実際に現地で聴くドイツの合唱に圧倒され,小松と同様に考えたのではないか。そのためには,芸術という名のきれい事を言うのではなく,「角力のように」競い合うことが有効だと。エビテンスはないけれど,想像としては当たっているような気がする。そのためには,景品としてピアノを利用することも辞さない。


 補足が思いがけず長くなったが,最後に山口隆俊が昭和4年の11月に東京日日新聞に書いたコンクールに関する大変興味深い文章を紹介する。前提として,山口が指揮する東京リーダー・ターフェル・フェラインは,昭和2年の第一回合唱祭で11団体中2位,昭和3年の第二回は11団体中3位と好成績だった。

 昭和4年の第3回直前に書いた「合唱競技祭の今明日」で,「競技会の目的は『勝利の獲得』であるが,多くの不快な例を知っている」と,わずか2回の「コンクール」を経ただけで実に意味深なことを書いている。「不快な例」をそのまま書いてはいないが,競技会の改善案として

  ・ 審査基準は和声,統一,テンポ,解釈などに分けるべき(今は主観的評価のみである)

  ・ 競技出場のための良歌手雇入れ等は,かたく禁止するところ

  ・ 日本人の曲が少ない(からもっと取り上げる)

を上げている。

 これらが山口の言う「不快な例」の裏返しであるのは明らかで,上位入賞団体からの意見であるところが興味深い。自分たちのほうが良くできているのに,なぜあちらが上なのか,疑問なところがあったのだろう。主観的評価の名の下,審査員が友人または先輩指揮者に「忖度」した評価をつけているのではという懸念,または,実際に聴いたかであろうか。

 「良歌手の雇入れ」については,「メンデルスゾーンがアプトに問題提起した」内容と同じであるとし*,古くからある話だったらしい。特に,第1回の優勝団体はメンデルスゾーンの曲を,ドイツ人指揮者・ドイツ人の4人のソリスト・合唱がドイツ人と日本人の混成で歌ったため,レベル的に他団体の比ではなかったが,確かに日本のコンクールとして違和感を覚える。

(2018/10/29追記)

 新聞記事をこう読んだのだが,後に山口が書いた「合唱運動のあり方 -コンクールについて-」を読むと,これは読み間違いだった。

「例えば,メンデルスゾーンがドイツ音楽総長と云う,今の山国彦氏や津川主一氏の様な役をやっていて,日本で云えば天皇杯合唱コンクールと同様なカイザー首飾賞コンクールでの入賞団体採決に困って,『初めは合掌,おしまいはてんやわんやだ』と嘆かしめ,作曲家アプトをこんな堕落した競技会は政治的に禁止せにゃならぬと怒らし」と,メンデルスゾーンは困りアプトは怒ったということで,それは協議会全体に対する意見だった。


 評価(順位)について,実を言えば私も40年ほど前に類することを聞いたことがある。ある団体の指揮者と友達の審査員が,その団体に高評価をつけたとか。

 更に,九州の大御所だった森脇健三は著書「合唱のたのしみ」の「コンクールの功罪」で,自分の福岡合唱団が2位で,合唱界でイイ顔の指揮者であった故秋山日出夫の国鉄合唱団が1位だったが「美声でもなく,ハモってはいたが歌い方もありきたり」で審査結果に腹が据えかねる,と述べている*。ここまでなら「これも主観的評価」と言えるだろうが,続いて審査をするようになったときのこととして,「故木下保先生が女子大の女声で出場された時のこと(注:昭和34年(1959年)~昭和40年(1965年)ごろ)」について,次のように記している

「自由曲は立派で頭が下がるのであるが,課題曲がいけない。

(中略)

声楽家木下先生が,ことに日本語の発音,日本歌曲・合唱曲にはひとかどの権威者であることに敬意は表しているものの,課題曲のテンポ無視には私は承服できない。中位下の順位をつけてしまった。なみいる審査員の話していることが頭にきた。『あれではひどすぎるけど,指揮が木下先生ではねえ』」

歌っている当時の学生さんは一生懸命だし,評価を喜んだことだろうが,このような忖度があったことを書き記しているのは珍しい。この本はなかなか面白くて,コンクールについては意味不明の評が見られると,「音楽的にもいみのある声がほしい」「外国の曲を選んでも,日本人が歌っている必然性がにじみ出る演奏がほしい」など例をたくさんあげ,注釈(意味のわからなさについての説明)をつけている。

* 調べてみたが,全日本では当初から職場と一般は部門が別れており,国鉄合唱団は森脇の勘違いで,昭和26年(1951年)の一般の部における秋山のH.G.メンネルコールのことだろう。


 「良歌手の雇入れ」も実際に聞いたことがある。東京に向かう新幹線の中で全日本合唱コンクールに向かう女子高合唱団と同じ車両だったが,なんとなく話が聞こえてくる中,OGが一緒に歌うことがわかった。高校Aではそこそこ有名な合唱団で,大学の1-2回生だろうとは思うけど,それでもOGを乗せるのはルール違反で,がっかりしたことがある。一般合唱団でも,直前に音楽学校の学生や,人数が足りないパートを集める話は聞いたことがある。こちらは前日の入団でもルール上は問題ないのだろうけど,やはり釈然としない。

もうすぐ全日本合唱コンクールだけど,今はそんな事が行われていないことを期待する。


 山口隆俊が「合唱競技祭の今明日」を載せた昭和4年,東京リーダー・ターフェル・フェラインは入賞できなかった。「あんな文章を載せたから」と責められた,と山口は書き残している。審査員の心証を害したのかもしれない。しかし,審査方法について,その後しばらく山口が提案したように和声やバランスやリズムなどに分けて採点する方法が取られたという意味では,周りの共感得られる部分もあったのだろう。ただあまりにも面倒で審査員が閉口したため中止になった。


Duhaupasのミサについて始めた調査が,当初は思ってもみなかったところへ着地したけど,まあそういうこともありますね。

(以上)