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10月25日 村上市→新潟市[新潟水俣病資料館]→三条市(140km)

2018.10.29 17:41


今日も、まずまずの天気。


朝食を終えると、すぐに国道7号に出て、新潟市方面へと向かう。


昨晩、Yが新潟水俣病被害者の日常生活を追ったドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」のロケ地を訪ねたいと言い、「それなら阿賀野川流域なのでは?」ということで、2人でネット検索した結果、新潟市内に「環境と人間のふれあい館(新潟水俣病資料館)」という資料館がある事が分かった。


「阿賀に生きる」は 1992年に公開され、ドキュメンタリー映画としては当時異例の「ロードショー公開された作品」であり、国内外のドキュメンタリー映画祭で各賞を総なめにした。


佐藤真監督(2007年に49歳で死去)らスタッフ7人は、阿賀野川流域に3年もの間住み込み、農作業を手伝い、住民と酒を酌み交わしながら、この映画をを撮影した。


阿賀野川流域に暮らす3組の老夫婦を主役としたこの作品では、重いテーマにもかかわらず、彼らとスタッフの会話の端々で、老夫婦の自然なユーモアが感じられる作品となっている。


という事で、本日急遽、予定を組み直して、新潟市内へと戻ることに。


胎内市・新発田市・阿賀野市を経由して新潟市に入り、旧豊栄町にある「環境と人間のふれあい館(新潟水俣病資料館)」に到着。


資料館は福島潟という小さな湖の岸辺にある。周辺は一面の平野が広がり、ここから西に10kmほど走ると、新潟水俣病で知られる日本有数の大河・阿賀野川が北西方向に流れ下っている。


ここは、1995年に新潟水俣病被害者の会・共闘会議と昭和電工との間で解決協定が締結されたことを契機に建設された資料館であり、「水の視点」から環境を大切にする意識を育み、公害の根絶と環境保全の重要性を認識するための場とすることを目的としている。


新潟水俣病資料室は建物の2階にある。ちょうど小学生が社会科見学に来ており、ビデオ画面や展示パネルの前で真剣にメモをとっていた。


展示の内容は、新潟水俣病とそれに先立ち公害認定された熊本水俣病に関するもの。患者の発見から原因究明、公式認定、訴訟に至る経緯や、公害の汚染源となった企業(昭和電工鹿瀬工場、チッソ水俣工場)についての説明、水銀中毒など海外での公害発生の事例、水俣病原告被災者弁護団長・渡辺喜八弁護士の遺稿と当時の新聞などである。


最初に水俣病の発生が確認されたのは1956年。 次いで1965年、新潟県の阿賀野川流域で水俣病同様の症状が確認され、「第二水俣病」という病名がつけられた。熊本と新潟で発生した水俣病は、四日市ぜんそく、富山のイタイイタイ病と合わせて「日本の四大公害」と呼ばれるようになった。


原因物質を排出した昭和電工鹿瀬工場側は、当初「原因は新潟地震によって川に流出した農薬」と主張し、証拠隠滅のため、都合の悪い資料をすべて破棄したとされている。





工場から放出されたメチル水銀は一旦河川の水で稀釈されたが、生物濃縮により川魚の体内に高濃度のメチル水銀を溜め込ませ、さらにこの川魚を漁獲して食べた阿賀野川周辺の住民が有機水銀中毒を起こした。




被害者の多くは阿賀野川下流域の住民で、市場に出荷できなかった川魚を日常的に消費していた事が原因とみられている。またこの地域では、男性が底棲性のニゴイを酒の肴として愛好していたことから、被害患者は成人男性に集中しているという。


新潟水俣病の被害者は、「公害健康被害の補償等に関する法律」に基づき認定されている患者が、2015年末時点で704人(申請件数2568件)。その他に、健康被害を受け水俣病被害者として「水俣病総合対策医療事業」の給付対象となっている人が、2010年4月時点で1059人である。


被害者の多くは高齢化し、亡くなっている人も多い。そして、病気を隠し続けて亡くなったり、自分の病気が水俣病であることを知らずに亡くなった人もいるため、被害の実態は正確には分かっていないという。


新潟水俣病患者認定を巡り、東京高裁は「感覚障害のみの原告を患者」と認めていたが、2018年3月の第3次訴訟の控訴審では、「複数症状の組み合わせを患者認定の原則」とする国の主張を認める事となった。


第5次訴訟では、「国と原因企業の昭和電工(東京)に損害賠償」を求めて新潟地裁に提訴した。現在、147人が原告となって闘い続けている。


「原告はみんな阿賀野川の魚を食べ、誰一人として偽患者はいない。裁判で国と昭和電工の責任をしっかりと認めさせたい」と。



なお、ここの施設には他にも、下流部水流量が日本随一という阿賀野川に住む生き物についての展示や、阿賀野川流域の巨大なジオラマを足元に見ることができる仕掛けもあった。





新潟は水と共に歩んできた。そう理解はしてはいたが、今なお阿賀野川の水質汚染による闘いの日々を送っていたのだという事を再認識させられた一日であった。



今日は、新幹線の燕三条駅近くにある道の駅に行き、翌日、敷地内の地場産センターで、スプーン磨き体験をしようということになり、一行は三条市方面に向かった。