「西郷どん」⑩西郷と庄内藩2
西郷の伝記作者の多くが指摘することに、「彰義隊討伐後の西郷の急激な変化」がある。奥羽越列藩同盟の平定あたっても、総指揮官(東北征討軍大参謀)は西郷が最有力であったにもかかわらず、自ら希望した大村益次郎に譲り、兵の補充のためという表向きの理由で鹿児島に帰国してしまう。鹿児島に着いたのが6月14日。一刻も早く北越地方に援兵を送るべきであったのに、兵を出発させたのは8月3日。自ら出発したのは8月6日で、帰藩してから50日後のことである。その間、西郷は何をしていたのか。北越への応援出兵の総差引(総司令)の役を命じられていたので、兵隊の募集、武器・弾薬の調達、兵を運ぶイギリス汽船のチャーターを行ったりしているが、大半の時間を温泉治療のため日当(ひなた)温泉でのんびり過ごしていた。その時の心境をこんなふうに詠んでいる。
「世上の毀誉 軽きこと 塵に似たり 眼前の百事 偽か 真か
追思す 孤島 幽囚のたのしみ 今人に在らず 古人に在り 」
あれほどエネルギッシュに取り組んでいた、尊王倒幕・維新回天の事業を下らないものと感じ、沖永良部島での流罪生活をなつかしんでいる。勝部真長はこう書く。
「西郷は破壊のあとの哀愁のわかる男である。彼は総督府に接触を持ちたいだけでなく、およそ官軍的なもの、薩長的なもの、革命的なものに背をむけたくなっていたのである。彼はもう戦争に興味がない。」(『西郷隆盛』)
では、彼が関心を持っていたことは何だったのか。
「ただ一つ今後しなければならないと考えているのは、庄内藩の処置だけである。・・・庄内に対する罪滅ぼしの意味でも、鶴岡城の受取りには自分が出かけて、まちがいのない処置をしなければならない。これが最後に遺された自分の義務である、と西郷は考えていた。」(同上)
西郷は表には出ず、官軍代表の黒田清隆を陰で指図。倒幕のために必要だったとはいえ、関東攪乱、ゲリラ活動について悔悟する西郷は庄内人に合わせる顔がない。それでも、鶴岡城下があっけにとられるほどの寛大な措置が、万事西郷の指図によるものだとわかってくる。そのような西郷に庄内藩の軍事掛・菅実秀(すげさねひで)はすっかり心服し、後に鹿児島に留学して『南洲翁遺訓』をまとめる中心人物となる。
西郷は、会津の降伏に際しても、松平容保の切腹を強硬に主張する長州藩に対して、助命嘆願を行っている。容保は鳥取藩に預けられ蟄居することになった。また、庄内藩降伏後鹿児島に戻った西郷は、翌年5月1日箱館へ向かう。五稜郭で抵抗を続ける榎本武揚たちを説得するためだ。西郷が到着(5月25日)した時にはすでに榎本は降伏(5月18日)していた。西郷は腹心の黒田清隆にすべてを託し、再び鹿児島へ戻る。西郷の意を受けた黒田は、榎本の助命嘆願のために坊主頭にまでなる。また極刑を主張していた品川弥次郎が西郷に意見を求めたところ、「薩藩古来の掟にてはすべて投降者を殺さぬといふの例でござる」と、投降者を駿府徳川氏に引き渡すべしと答えている。榎本は膨大な数の幕臣の中のエリート中のエリートで幕府海軍のキーパーソン。助命された榎本はその後、明治新政府の下で、ロシアとの外交交渉でその優秀な能力を発揮し、駐清公使としても活躍、1891年には外務大臣に就任し、ロシア側の信望を背負ってあの「大津事件」の難局に対処した。
革命、社会変革において、いかに旧勢力の優秀な人材を新政権に加えるか、それが成功の最大のカギと言ってもいい。そしてそれを現実化させるためには、「報復感情からの解放」、これが大きな課題になるように思う。
( 永嶌孟斎「箱館大戦争之図」) 一番左の白馬に乗り槍を持った人物が榎本
(榎本武揚)幕末期
(黒田清隆)
(榎本武揚助命嘆願のため剃髪した黒田)
(西郷隆盛と菅実秀)酒田市南洲神社
(「敬天愛人」碑)酒田市南洲神社
西郷の座右の銘。「天を敬い人を愛する」。