伝統は古臭いもの?
伝統やしきたりって何のためにあるのでしょうか。
記憶に新しいのが、相撲協会の女人禁制問題ですね。
多くの人々が伝統よりも人命を最優先すべきである、人の命は何物にも代えがたいという思いを再確認されたことと思います。
しかし、人の都合のためならば、何を犯しても良いというのは危険な考えです。
現代社会において、人の力で変えられないものは身の回りでほとんどないのではないでしょうか。
「自然の力には敵わない」と多くの人が考えている中でも、都心部の人にとっては自然の恐怖は科学の力で排除できるもの、という理論のもとに日常の歯車が回っています。
熱中症は自己責任、自然災害による電車の遅延は言い訳、大雨警報でも出社は当然。
いかがでしょうか?身に覚えがある事例ではないでしょうか。
要は自然の怖さを忘れていること、言い換えれば、人の力の過信が現代の都市部では人々の考え方の基盤に根付いてしまっているのです。
森や山には神がいる、という古代の民族宗教の話をここでするつもりはありません。
人間の都合以上に大切にすべきことがある、ということを思い出してほしいのです。
神道信仰が薄れ、教育の崩壊が起きている現代日本では、なかなか受け容れにくいものがあります。
おかしな根性論・精神論がはびこっているので、気合で何とかしろというのがかっこいいという考え方もあります。
そうやって、無理を押し通すことで得られたものは何でしょうか?
絞りだして仕事の成果と引き換えに、体の不調や心の崩壊も招いていませんか?
無理しないことが何よりも大切、というのはやや甘い考えですが、精神をすり減らす今の社会が最良ではないでしょう。
伝統というのはそういった、人以上のものを扱っている、人以上のものを大切にする儀式です。
手順を踏んで、品格を重んじて、先駆者を敬いながら、作法に倣う。
そこに「個人の自由」はありません。
けれども、自分より大きなものに属すことの安心感や一体感があるのです。
そういった、皆で形作るものを大切にすることで人々は心の安定を図っていたのです。
さて、現代の個人主義と比べて、どちらが社会としての正常でしょうか。
私は、伝統と格式には意味があり、国際社会で自国のアイデンティティを表現し、自分たちが自分たちであるための軌跡を意識できる大切なものだと考えています。
人命ももちろん優先すべきですが、そのために、伝統と格式を蔑ろにすべきではありません。
「人の命を救うために」というお題目は輝かしいものですが、中身もなく、ただただ偽善を振りかざす者が使っていると詭弁に過ぎなくなります。
伝統を時代に合わせて修正することは肝要ですが、本質を見失うべきではありません。