10月26日 三条市[地場産業振興センター]→燕市[国上山・五合庵/分水良寛資料館](33km)
今朝は気持ちのいい晴天。
朝を迎えた道の駅「燕三条地場産センター」の駐車場は、この時期イベントが行われているせいか、開業時間になると徐々に混んできて、交通整理の人が忙しそうにしている。
今日は、このセンターで地元企業や大学を集めた展示会「燕三条ものづくりメッセ 2018」が盛大に行われているのだ。
いつもなら、そそくさと退出するところだが、今日は違う。なぜなら我々は、このセンターのイベント(といっても、常時開催している体験コーナーだけど)の参加者であるからだ。
早朝、とりあえず車を最も端のコーナーへと移動させ、開館を待つ。
この道の駅の施設はやや複雑。何が複雑かというと、施設全体は地元の市や県、商工会議所などが出資する「財)燕三条地場産業振興センター」。
敷地内には「メッセピア」と「リサーチコア」という2つの大きな建物があり、道の駅はメッセピアの1階にあるインフォメーションや24時間トイレなどを指している。
ここが道の駅として認定されたのは3年前。上越新幹線の燕三条駅が近くの繁華街のド真ん中にあり、立地条件が素晴らしい。
基本的には、金属加工で世界的に有名な燕三条(洋食器の燕市・刃物の三条市)の産業振興のための施設であり、道の駅の機能は副次的なもの。
旅行者に関係するエリア、メッセピアに併設されている「物産館」は280坪と広い館内で、燕三条の洋食器や刃物、その他特産品などが購入できる。
しかし、落ち着いて休憩できるようなイメージはない。双方の建物には会議室や研修室、商工会議所や管理部門などが分散していて、スーツ姿のビジネスマンが忙しそうに敷地内を動き回っている。
我々は、そんな会場の熱気に負けじと「スプーン磨き」を体験しようと意気込んでやって来たという次第。
早速、体験を申し込む。
大きめのスプーンには、裏面にわざと縦の傷がつけられている。これを研磨してツルツルにするわけだ。
研磨機のうち、右のブラシは荒い研磨用、左のブラシは仕上げ用となる。まず、高速回転するブラシに、固形石鹸のようなそれぞれ異なる研磨剤を擦り付けておく。
作業時は目を保護するメガネとエプロン、軍手を着用。研磨されたスプーンはかなりの高温になるので、軍手をしないと熱くて持っていられない。
ブラシ自体は回転中に指で直に触れても怪我をすることはないらしい(触りはしないけれど)。
最初に右側にある粗めのブラシにスプーンを当てるのだが、傷が縦につけられているので、回転するブラシに対してスプーンを斜め45度、または真横の向きに当てる。
次に左側の細かめのブラシに当てるが、今度は仕上げなので傷と同じ方向、つまり縦方向にスプーンを当てる。
思ったより力を入れてスプーンを押し付ける。スプーンの両端がムラになりやすいので注意が必要だ。最後に、光を当てて仕上がり具合を見る。
いくら燕三条の金属加工のPRのためとはいえ、一人300円で楽しませて頂き、自分で磨いたスプーンは お持ち帰りする事が出来るという、大変有難い企画であった。
物産館には燕三条の洋食器や刃物だけでなく、金属加工が施された様々な生活用品が販売されている。
優れた産業デザインは見るだけでも楽しいし、価格帯もいろいろあるので、欲しいものがきっと見つかるだろう。(って、どこのセールスマン?)
午後からは、越後の国最古の名刹、真言宗・国上寺(こくじょうじ/709年創建)へ。
この古刹は国上山(くにがみやま)の山中にあり、その傍らの小さな庵「五合庵」に、江戸時代後期の漢詩人・歌人・書家である良寛が、20年以上にわたり住んでいた。
良寛は出雲崎の名主・橘屋の長男として生を受け、父親は石井神社の祠職も務め、俳人でもあった。
父の後を継ぐべく名主見習いを始めてから2年ほど経った18歳の時、突如として出家。22歳の時、円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事。
以後、円通寺で12年にわたる厳しい修行の末、34歳で諸国行脚の旅に出る。その後、故郷の国上山、国上寺の「五合庵」にて約20年間を過ごす。
晩年は島崎村の名家・木村家に移住し、天保2年(1831)、弟子の貞心尼に看取られ他界。74歳であった。
柴垣に 小鳥あつまる 雪の朝
うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ(辞世の句といわれるもの)
など90ほどの俳句を残し、万葉風の和歌及び書風は天衣無縫で高い評価を得ている。
また、名書家としても名高く、自作の詩や歌を書いたもののほか楷書、行書、草書、かな、手紙など多く残されており、単純に見える点と線による独特な書法を生み出し、「書の最高峰」とも絶賛されている。
生涯寺を構えず、妻子を持たず、物質的には無一物に徹し、清貧の思想を貫いた。
良寛といえば、手毬をついて子供と飽かず遊んでいるイメージ。
山奥に住んでいたのに、どうやって子供達と遊んでいたのだろうと思っていたら、この地を拠点とし、托鉢をして周っていたという。
我々が目指す国上山は、標高313mの低山。すぐ隣には、有名な弥彦神社がある弥彦山(634m)がある。
国上山の山頂付近まで車で上がり、駐車場に車を停めて参道を登っていくと、右手に国上寺の本堂が顔を覗かせている。
良寛のみがお目当ての我々は、本堂には寄らず、山道をそのまま道なりに進んでいく。
小さな山門をくぐり、
小径を少し行くと、傍らに「鏡井戸」という枯れ井戸がある。
ここは酒呑童子伝説の井戸だという。
酒呑童子がまだ「酒呑童子」ではなく「外道丸」と呼ばれ、稚児としてこの寺に住んでいたとき、その類稀なる美貌のため、近隣の娘たちから送られた恋文が葛籠いっぱいになった。
ある日、一人の娘が焦がれ死んだと伝え聞いた外道丸は、驚いて葛籠を開けると、パッと白煙が立ち上り忽ち気絶した。しばらくして起き上がると、顔の異変に気づいた彼は、慌ててこの井戸を覗き込むと、そこには鬼面と化したあさましい己の姿があった。
狂乱した彼は寺を飛び出し、自ら「酒呑童子」と名乗り悪行を重ねたのち、丹波国大江山に移り住んだという。
荒唐無稽な話ではあるが、なぜここにそんな伝説が残るのか。
「御伽草子」では、酒呑童子が自らの出自を語り始め、生まれた国が越後国(新潟県)で、山寺育ちであるとしている。
また、国上寺にある「大江山酒顛童子」の絵巻でも、平安初期に越後国で生まれた彼は、国上寺の稚児となったと書かれているそうだ。
話の真偽はいかに。
その後、しばらく三角形の石を敷き詰めた緩やかな階段を下っていく。
足元には真っ赤に落葉したモミジが点在している。
森林の間を気持ち良く歩いていくと、ほどなく右手に五合庵が現れる。
そこには、良寛の句碑が。
堂久保登盤 たくほどは
閑勢閑毛天久留 かぜがもてくる
於知者可難 おちばかな
茶室のような体裁の五合庵は、庵の半分に壁がない(扉をはめ込む為の桟はあるが……)。
良寛は質素な暮らしを実践し、農民たちに仏法を分かりやすく説いたということだが、本当にこんな寒々しいところに住んでいたのだろうか。
この建物は大正時代に再建されたもので、建物の維持には7年ごとに茅葺きを葺き替えるなどの必要があるらしく、募金のお願いの看板があった。
入館料を払う場所も無かったので、近くにある募金箱に、ほんの気持ちだけカンパを入れる。
庵近くの小径を横に逸れると、紅い吊り橋が架かっていて、対岸の公園へと渡る事が出来る。
そこは芝生とベンチがある見晴らしの良い公園となっている。
ここからは、信濃川の氾濫を抑えるため明治時代に開削された巨大プロジェクト、「大河津分水路」の流れを眼下に望め、遥か前方には谷川岳が聳えているが、今はあいにく雲がかかっていて見えなかった。
公園の奥の方には、子供と楽しそうに遊ぶ良寛の銅像がある。
気がつくと、ここは車を駐車した場所の真裏である事がわかった。
およそ一時間、ぐるりと山頂付近を散策したことになる。
良寛さんのお陰で、実に気持ちの良いひと時を味あわせていただいた。
車に戻り、時計を覗くと時刻はまだ3時台。陽が暮れるまで まだ時間はある。
そこで、一行は良寛ついでという事で、ここから10分ほどのところにある「分水良寛史料館」も見学して見ようという事になり、山を下り分水地区へと向かう。
敷地内には、これまたお決まりの歌碑と、
良寛さんの像が。
雨に打たれて、疲労感あり。
館内に入ると、まず良寛関係の書籍がずらりと並んでいる。
日本人は本当に良寛が好きなのだ。
そして、それらの書籍のほとんどは良寛ではなく、「良寛さん」と親しみを込めたタイトルになっている。
会館内の展示資料に至っては、更に尊敬の念が加わり、「良寛様」となっていた。このゆかりの地における良寛の位置付けが良く分かる。
主要な展示は良寛直筆の書画、それに加え、弟子の貞心尼の直筆の書や手紙などである。
当地の人が丹精込めて作って良寛に送ったという「飾り鞠」の実物もあった。
(「良寛展」パンフレットより転載)
淡い色合いの鳥の刺繍が施されており上品だ。良寛はこの手毬で子供達と遊んだのだろうか。
無欲な性格であったという、極めつけのエピソードをひとつ。
ある寒い冬の夜、五合庵に泥棒がやってきた。しかし、草庵には目ぼしいものは何もない。泥棒が仕方なく良寛が寝ているせんべい布団を盗もうとすると、良寛は眠ったふりをしながら寝返りを打ち、布団から転がり出て布団を取りやすくしてあげた。
ぬすびとに 取り残されし 窓の月
(泥棒も、この月の美しさは 盗むことができなかったなあ)
最後に、ここ分水地区にある良寛ゆかりの地を紹介したビデオを見たところで、ちょうど閉館時間近くになった。
今日は、先程登った国上山の麓にある、道の駅「国上」宿泊することに。