戦慄ハイキック!高田延彦vs北尾光司の裏側
1992年10月23日、UWFインターナショナル日本武道館大会にて高田延彦が元横綱だった北尾光司と対戦した。
北尾は中学卒業と同時に立浪部屋へ入門し、1979年に初土俵を踏み、1986年に1度も優勝したことのないまま横綱に昇進して、双羽黒 光司に改名するも、1987年12月に些細なことから立浪親方とトラブルとなり廃業、その後はスポーツ冒険家と名乗ってタレント活動を行ったが、アメリカのプロレス養成所の一つである「モンスター・ファクトリー」を訪れてからプロレスに興味を持ちレスラーに転向することを決意。アメリカでルー・テーズの指導を受けた北尾は1990年2月10日の東京ドーム大会でクラッシャー・バンバン・ビガロ戦でデビューを果たすも、単調な試合運びはプロレスファンの間で冷評されるだけでなく、無駄なパフォーマンスが多いことから"しょっぱい”と評価され、また練習をしないなどサボり癖も出たため、長州と口論となり、北尾は「怖いのか?この朝鮮人野郎!」と長州にとってタブーと発言をしたことで、長州は「オマエはアウトだ!」とクビを通告、新日本プロレスから契約解除を言い渡されてしまう。
北尾は天龍源一郎を頼ってSWSに参戦して、そのまま所属となるが、"しょっぱい”試合内容は改善されないどころか、元幕下でWWEでは"ジ・アークシェイク”としてトップスターとなっていたビック・ジョン・テンタ相手にセメントを仕掛けてしまった挙句に「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」とアピールしたことで、SWSからも契約解除されて追放となり、充電期間の後、「空拳道」の師範、大文字三郎の下で総合格闘家への転向をしていたが、相撲時代の悪評やSWSの八百長発言が尾が引いたため、どの格闘団体も北尾にオファーをかけようともしなかった。
その問題児でどの団体も拾おうともしなかった北尾をUインターが拾うことになった。高田は1991年12月22日の両国国技館大会でボクシング世界ヘビー級王者だったトレバー・バービックとの異種格闘技戦で勝利を収めたことから、高田を日本を代表するレスラー、また「プロレスこそ最強」と掲げたUインターの名前を世界に轟かせるために、新たなる標的を求めていた。Uインターをプロデュースしていたのが選手兼任取締役だった宮戸優光だったが、最初こそは北尾には興味を抱いていなかったものの、SWSを解雇された後も北尾と個人的に親交を続けていた佐野直喜(佐野巧真)を通じて知り合いになったことから、北尾をUインターに上げることを思いつき、北尾個人にオファーをかけていたが、北尾はマネージメントを大文字氏に委ねていたため「道場の責任者と話し合って下さい」としか答えず、宮戸は極秘裏に大文字氏と交渉し、北尾参戦に漕ぎつけることが出来た。
5月8日の横浜アリーナ大会に北尾が参戦、北尾の相手は山崎一夫が差し向けられた。山崎が相手になったのはUインターNo2を相手にすることで北尾の強さを際立出せるためだったが、宮戸は山崎を嫌っており、あくまで高田の噛ませ犬として扱っていなかった。北尾は山崎のローキックに苦しむも、山崎の顔面に裏拳を連発してから豪快なローキックでKO勝ちを収め、改めて北尾の強さをアピールする。メインでも高田がゲーリー・オブライトと対戦し、オブライトのジャーマンを喰らった際にサードロープに後頭部を打ち付けるハプニングもあってKO負けを喫し、この日は高田と山崎が揃って負けるという波乱の大会となった。
北尾に敗れた山崎は再戦を要求も、北尾側の大文字氏は「再戦を受ける意志はない」と拒否、北尾も「1度戦った相手ともう1回闘うことに意味がない」と同調する。Uインター側も最初から山崎と北尾を再戦させるつもりではなく、高田戦を薦めようとしたが、北尾側に異変が起きてしまう。師匠とした大文字氏がUインター側から支払われたギャラを持ったまま姿を消してしまい、ギャラの未払いを受けた北尾は大損害を被ってしまう。
大文字氏がいなくなり、交渉役がいなくなったことでUインター側は誰を通じて北尾にオファーをかけていいのかわからず困惑するも、北尾は知人を代理人にしてUインター側と交渉を再開、10月23日の日本武道館大会での対戦が決定した。
ところが開催直前となって北尾の代理人が試合ルールを時間無制限1本勝負から、3分5ラウンドで判定なしのルールに変更するように要求してくる。北尾側の狙いは引き分け狙いで、引き分けになればUインター側も再戦を申し入れざる得なくなり、ギャラもアップ出来る、北尾の商品価値を上げつつ、Uインターを食い物にしようとしていたのだ。
突然のルール変更に宮戸は怒り、北尾側に抗議するも、北尾側も抗議は受け入れず、北尾本人も代理人の言うがままにしか返答しないどころか、「別にこんな試合をしなくてもいいんです、もうこの世界を辞めますから」とドタキャンも辞さない姿勢を見せる。北尾は会社の重役の息子で甘やかされて育ったこともあって、こういったワガママは日常茶飯事だった。
宮戸は事の次第を高田に報告し、高田もチケットも完売している以上、今更中止に出来ないと判断して、北尾側の要求を受け入れたが、高田には北尾を必ず倒せる秘策を持っていた。だがそれでも納得しない宮戸は立会い人だったテーズに最悪引き分けになった場合、テーズが立会い人の権限で延長戦に持ち込んでくれるように依頼、北尾にとって指導してくれたテーズは父親みたいな存在であり、レスラーになってからも尊敬の念は変わらなかったことから、宮戸もテーズの言うことなら北尾も従うだろうと考えて上での判断で、テーズは宮戸を信頼して快諾し、こうして決戦を迎えた。
第1Rは構える北尾に対して高田はステップし前蹴りやで牽制しつつローキックで切り崩しにかかる。北尾も組み付こうとするが、高田は巧みに距離とってステップを踏みつつローキックと自分のリズムを崩さない。
第2Rはフィンガーロックから腕の取り合いになると、北尾がニーリフトから裏投げを決めるが、高田は腕十字で切り返し、北尾は慌ててロープに逃れる。再びスタンディングとなると高田はステップを踏みつつローキックと切り崩しにかかり、ハイキックを狙う、再び組み合って北尾はフロントネックロックで捕らえるが、高田が逃れたところで第2Rが終わる。
第3R、北尾の足にダメージが蓄積されていると判断した高田はローキックを連発し前のめりになったところを逃さずハイキックを一閃、脳震盪を起こした北尾はダウンしてそのまま立ち上がれず、10カウントとなって、高田がKO勝利を収め、快心の一撃で勝利を収めた高田はリング上を飛び跳ね、宮戸を含めたUインター勢と抱き合った後で北尾と握手してノーサイドとなり、これ以上とないハッピーエンドで幕となった。
高田の秘策はハイキックで、まだデビューしたばかりで長身の高山善廣を北尾に見立ててハイキックをいかに当てるかを研究してきたのだ。高田は北尾戦を評価されて、この年のプロレス大賞を受賞、一躍マット界を代表する選手となったが、北尾戦は高田だけでなく仕掛け人として奔走してきた宮戸との二人三脚で作り上げた最高傑作のはずだった。
先日出版された「証言UWF完全崩壊の真実」で高田は、宮戸ではなく高田自身が直接北尾とルール交渉していたとして答え、共に最高傑作を作り上げた仕掛け人の宮戸のことは高田の中では全て抹消していた。これを見た時は確かに北尾を倒したのは高田だったのかもしれないが、裏で奔走していた宮戸の功績は一体なんだったのか?これが真実なのか?ハイキックは北尾に対しての天罰だったのか?わかるのは宮戸に対して高田が複雑な感情を抱き、それは現在も続いているということだ・・・
また北尾は自らの道場である「武輝道場」を設立、天龍と和解してWARに参戦して主戦場にした。、おそらくだがこの時点で代理人とされていた人物とは関係が切れたのだろう。そして天龍の仲介で長州とも和解して1995年5月3日の新日本福岡ドーム大会に参戦してアントニオ猪木と組んで長州&天龍組とも対戦した。
その後は総合格闘技にも挑戦してUFCやPRIDEにも参戦、武輝道場では望月成晃(DRAGON GATE)岡村隆志などを輩出したが、1998年10月に開催されたPRIDE4で引退セレモニーが行われ引退、代替わりした立浪部屋と和解しフリーのアドバイザーとして各界に復帰した。北尾は後に「修行途中で、精神的な部分がまだ未熟な人間に贅沢をさせたり、わがままを聞いたりすると、こういうことになってしまう。私自身の心の未熟さだったと思っています」と自らの行いを反省、北尾も今まで甘い蜜に擦り寄ってくる取り巻き達の言うがままになっていたが、様々な裏切りも経験したことで言える言葉だったのかもしれない。
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.17「日本人対決の衝撃」、宮戸優光著「UWF最強の真実」、証言UWF 完全崩壊の真実)