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リオクロス HIRAKATA

一語一会⑧

2018.11.01 01:53

『サッカーは常に解決策がある。

そこが面白いのだ』

イビチャ・オシム

(1941年5月6日 )は、

ユーゴス(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエヴォ出身のサッカー選手、指導者。

旧ユーゴスラビア代表の最後の監督であり、

日本でもジェフユナイテッド市原・千葉、日本代表で監督を歴任するなど、

世界各国で豊富な指導歴を持つサッカー指導者である。

労働者居住区であったグルバビツァで

父ミハイリ、母カタリーナのオシム家一男一女の長子として出生。

ドイツ人の血を引く。

ミュンヘン出身の母方の祖母の影響で家庭内での会話はドイツ語中心で育つ。

居住区では娯楽も物資も殆ど無く他の住民も似たり寄ったりの生活で

必然的にサッカーが子供の遊びとなりイビチャ少年も靴下を丸めたものをボールに見立て路上でゲームをして遊び、

本物のサッカーボールを叔母から贈られ大感激する。

学校の体育教師がサッカー狂だったため日が暮れるまでサッカーに明け暮れ、

14歳の時ジェーリョの入団テスト受け、

400人中20人の枠に入り同チームでプレー、しかしチームからは給料の代わりに金券が報酬として支払われていた。

18歳、高校を卒業し大学入学資格を取得。

18歳でジェリェズニチャルのトップチームでプレイ。

東欧の名門サラエヴォ大学理数学部数学科入学、数学や物理学、哲学などを学び、数学の学士を保有。

運動、勉学共に成績優秀で、気がつくと学内で数学のインストラクター的な立場になり、

家庭教師の真似事などもして、

金銭は殆ど発生しなかったものの、指導先から食事を馳走になり食費を浮かせ、

成績優秀者に出る奨学金で生活を凌いでいた。

この頃、電気工学専攻の中等学校生だったアシマに数学を分かりやすく丁寧に指導。

大学では担当教授から研究職に就くことを勧められるが、

手っ取り早い経済的な自立の為にギムナジウムの数学教師への職を思案するも大学3年生の頃から試合の出場給が鉄道工だった父親の3倍にもなり

「数学かサッカーか」と

イビチャ青年を大いに悩ます事になる。

後、23歳時にユーゴスラビア代表選出が契機となり1964年東京オリンピックでの試合に向けた「本物の契約書」にサインし、これにおいて正式な「プロサッカー選手」となる。

大学を中退してプロサッカー選手の道を目指す事になる。

1959年 -サラエヴォのFKジェリェズニチャル・サラエヴォでプロ(実質セミプロ)としてのキャリアをスタート。

ポジションはフォワード。

Wikpebiaより引用参照