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粋なカエサル

「フランス革命の光と闇」③「バスチーユ陥落」

2018.11.01 22:00

 「フランス革命」というと、教科書もそうだが必ずと言っていいくらい「バスチーユ陥落」を描いた絵が引用される。確かに、革命の進展の中で、「バスチーユ陥落」は人々に「世直しが可能だ」という希望を与え、「自由」の合言葉になっていった。バスチーユはかつて政治犯を収容する恐るべき国家の監獄だった。それを民衆が攻め落としたという事実が持つインパクトはこの上もなく大きかったのである。

 しかし、実態はそんなイメージとはかなり違っていた。革命当時、バスチーユはすでに政治犯を収容する監獄ではなくなっていた。7月14日、収容されていた囚人は7人。内訳は有価証券偽造者4名、精神異常者2名、家族の依頼によって収監されていた放蕩息子1名。政治犯は一人もいなかった。そもそも民衆がバスチーユに攻め寄せたのも政治犯の解放が目的ではなかった。目的は、そこに保管されていた武器弾薬の入手。それによって、革命をつぶす危険のある国王の軍隊に対抗するためである。  では、どうやってバスチーユ監獄を陥落させたのか?もともとバスチーユは、ここがまだパリの東の境界だった14世紀に、首都防衛のために構築された要塞。高さ30メートルの篤い城壁と幅25メートルの濠に守られていて、たとえ周りを完全に包囲され、放火にさらされたとしてもけっして落ちることはない堅固な要塞だった。城壁のてっぺんに据えられた大砲を使えば、包囲軍を撃退することなど、造作もないことだった。それがなぜ一日も持ちこたえられずに陥落したのか。司令官ローネイが、降伏軍に与えられる名誉を条件に降伏したためである。しかし、彼の名誉は守られなかった。市庁舎へ連行される途上で激怒した群衆によって、ナイフ・剣・銃剣で繰り返し暴行された。そして市庁舎の階段を上がらないうちに虐殺され、「肉の扱いになれている」少年の料理人デノによって首を切断された。パリ市長フレッセルも、武器提供を拒否したために同様に銃殺され、首を切断された。狂喜した群衆は、二人の首を槍に刺して練る歩いた。このうえもなく暴力的で野蛮で残忍でサディスティックな欲望に興奮する人々。

 こんな陰惨な光景を捨象し、バスチーユ陥落は、象徴的な次元で大きな政治的意味を持った。事件のわずか二日後の7月16日、パリ駐在イギリス大使ドーセット公爵はこう書き記している。

「こうして、歴史が長く記憶することになる、もっとも大きな革命が成就したのである。・・・この瞬間から、われわれは、フランスを自由の国とみなすことができよう。王は、諸権利が制限され、貴族は、その地位をほかの国民の水準まで引き下げられたのである。」

 (バスチーユ監獄)

(バスティーユの見取り図)

(ジャン・ピエール・フーエル「バスチーユ襲撃」フランス国立図書館)

(ジャン・バプティスト・ラールマン「バスティーユ襲撃で連れ出されるベルナール司令官」フランス革命美術館)

(ド・ローネイ侯爵)

(アンリ・ガリ公園にあるバスティーユ要塞の基盤遺構)

(パリ市庁舎)現在

(槍の先に掲げられるベルナールとフレッセル市長の首)