「イノベイターかく語りき」:/ 本編沿い / 2期最終回後 / モブ視点の刹那
「そろそろコーヒーでも淹れよう」
同僚の声にはっと顔を上げると、壁にかかった時計と目が合う。
最後に時間を確かめた時、短針はどこにあった?
「やりすぎだよ、お前」
「ああ……」
右手を上に伸ばし、思わず前髪をかきあげる。髪はベタついていて、喉は痛いほどに乾いていた。デスクの端に置かれたマグカップに手を伸ばす。紅茶のティーバッグが不精にもそのままだ。
濃くて冷たい紅茶を二口で飲み干すと、顔を上げて窓の外を見た。広々と天井の高い研究室は、長辺の一面がガラス張りになっている。
「どのくらい潜ってた?」
いつまで経っても馴染むことのない、ぴかぴかと騒々しいロスの夜景に目をやりながら、俺は同僚に聞いた。「さあ、分からんよ。ランチの時にも声かけた」部屋の奥に備え付けられたカウンターで手を動かしながら、同僚が言う。
「ああ、リモートの定時報告会、すっぽかしちまった」
「宇宙技研との?」
「うん。奴ら、うるさいんだ。めぼしい結果が出ないと機嫌が悪くなるし。軍属ってのはせっかちな生き物だな」
気苦労が絶えないな、と同僚が言う。コーヒーの白い湯気をくゆらせるマグカップを手に持って。
「ありがとう」
席を立ち、マグカップを受け取って俺は礼を言う。熱いコーヒーを一口飲むと、強張っていた全身がほぐれていくような心地がした。同僚の姿を見れば、俺と同じ白衣ではなく、黒いスラックスにスカイブルーのカッターシャツの袖をまくっていた。「ずっとここにいたのか?」と俺は聞いた。
「いや、午後は下のスターバックスで仕事してたよ」
「また?」
「十二時からの女の子が可愛いんだ」
にやりと笑ってそう言う同僚に苦笑する。一応既婚者らしいが指輪はしていない。配偶者は遠く離れたボストンで医師をしていると最初に言っていた。結婚して五年経つらしいが、家庭生活らしいものを持ったことはないという。「で、収穫は?」コーヒーをすすりながら、同僚が俺に言う。俺はデスクの端に体重を預けて霞む目を擦りながら、ディスプレイに映し出された解析データに目を落とす。
「巡洋艦五隻を調べた」
「モビルスーツは」
「二〇機以上」
「狂気の沙汰だな」
「だよな」
自重気味に笑う。
民間企業の研究所からこのユニオン領内にあるシンクタンクに出向してもう三ヶ月になる。優雅なホテル住まいも二週間で飽きた。政府直々の命令とはいえ、砂漠から一粒の砂金を探し出すような仕事であることは言うまでもない。
「『イノベイターの淵源とその覚醒条件の特定』。この短時間でまとめろと言われても、無理がある」
「その意見に限りなく同意だ」
同僚は言う。彼は分子生物学が専門で、人類最初のイノベイター、「デカルト・シャーマン」氏から採取したDNAを基に、チームの他のメンバーと現在ゲノム解析を急ピッチで進めている。宇宙通信工学、とりわけ司令部とモビルスーツ間の通信システムを研究領域とする自分とはずいぶん畑違いの分野だ。とはいえそれ以外の面々も精神科学の権威に文化人類学の教授と、普通に日本で働いていたらまず交わらないようなタイプの研究者たちばかりである。
「デカルト・シャーマン」は連邦軍に所属するモビルスーツパイロットで、先のラグランジュ2で行われた戦いの最中にイノベイターとして覚醒したと自認している。
彼が戦いの最中、いつ新人類として進化を遂げたのか、その前兆らしきものがはたしてあったのか、そして覚醒に何らかの身体的・環境的条件があるのか。想定外と未知とが連綿と続く領域に何らかの道標となるものを打ち立て、報告書をまとめて連邦議会の政策策定チームのテーブルに持っていく。それが世界中からかき集められた俺たち研究チームの仕事であり、軍人風の言葉を借りるなら「任務」だった。
報告書の提出期限は来月に迫っている。研究者たちが昼夜問わずの苦労をしているのにもかかわらず、状況は芳しくない。当時の戦闘データを管轄し、我々に全情報を提供している連邦軍からのプレッシャーも、日毎にきつくなっている。
「我々は持てる情報を全てあなた方に提供しています。これだけの機密情報の開示を行なって、『何も分かりません』の一点張りでは困るんですよ」
おとといリモート会議の場を持った時の、とある技術士官からの嫌味が耳に痛い。
「せめてシャーマン氏に直接話を聞くことができたらいいんだけどな。モビルスーツに残された戦闘データだけでは不十分だ」
俺はそう言いながら席に戻り、同僚がよこしたダンキン・ドーナツにかじりついた。
「無理だろう。噂によると、大尉殿は先週連邦軍の研究チームと宇宙に上がったそうだ」
「君、直接会ったんだろう。どんな男だった?」
「いけすかない野郎さ。口にピアスが開いていた」
同僚は下唇のあたりを指差して笑った。
「いかにもAEU上がりのパイロットって感じだな。だが本人もかなり錯乱していた。自分が何か違うものに変貌したという意識はあるようだが……」
彼はそう言って言葉を区切り、コーヒーを一口含んだ。「あんなふうに周りから接せられたら、どんな人間でも戸惑うだろうな」と、視線を床に落として沈んだ顔で言った。
わりあい常に飄々としていることの多い同僚の表情に気にかかるものを感じながらも、俺は話題を変えるように今日の成果を同僚に告げる。
「そういえば、戦闘当時マネキン大佐の部隊にいたモビルスーツの通信履歴に、妙なものを見つけたんだ」
「妙なもの?」
「これだ」
俺はキーボードを叩き、抽出した音声データのファイルを開く。
それは今は解体したアロウズの艦隊が撤退を始める少し前に、その宙域にいるすべての部隊にオープンチャンネルによって発せられたものだった。ザザザ、と砂嵐のような音が、パソコンのスピーカーから流れる。
「雑音がすごいな」と同僚が顔をしかめた。
「粒子撹乱ミサイルの残留と宇宙線の影響で、録音データのノイズがひどい。これでもずいぶんと除去したんだ」
だがしばらく辛抱してそのノイズに慎重に耳を傾けていると、……微かな、だが緊迫した声が聞こえてくる。
若い、男の声で。
『……全部隊に告ぐ!……』
『即座に回避運動をとれ!』
『…来るぞ……攻…きが来る』
『まがまがしい光が!……』
音声はそこでぶつりと途切れている。この通信を入電したモビルスーツは直後に受けた砲撃によって中破した。機体は再建が不可能なほど破壊されたようだが、パイロットは無事だったようだし、システム周りはこうして我々の手元に残っている。
「これは?」
同僚が不思議そうな顔で俺に聞く。確かにこれだけではなんのことかさっぱり分からないだろう。
「警告の直後、敵母艦から巨大粒子ビーム砲が発射され、無差別攻撃を行った。例の月の裏側にあるといわれているコロニー型の宇宙母艦だ」
俺は興奮を抑えながら答える。
「この声の人物は宙域にいる全ての人間に注意喚起している。つまり……この強力な砲撃を誰よりも早く予知しているんだ」
「砲撃を……予知……?」
同僚の瞳が信じられないというように見開かれる。
「そう、分かっているシャーマン氏の能力の一つに、卓越した空間認識力というものがあっただろう」
「あ、ああ。神経科学のチームがこの前報告にあげていたな」
「俺はこの人物も、シャーマン氏と同じ能力を使ったのではないかと考えている」
指先で顎を撫でながら、俺は改めて同じ音声を再生した。『全部隊に告ぐ』。張り詰めた若者の声が再び静かな研究室に繰り返される。
しばし唖然とその声に耳を傾けていた同僚が、はっとしたように口を開いた。
「まさか、大尉のほかにもイノベイターがいると?」
「憶測の域を出ないが、可能性はある」
「そうだとしたら重大な発見だぞ。この声の男、一体どこの所属だ? クーデター派の正規軍か? それともカタロン、」
興奮した様子の同僚を一瞥する。所属。そうだな。軽々しくその名を口にできる相手ならよかったんだが。
分からない、と俺は答えた。「新しいことが分かったら次のミーティングで報告するよ」と曖昧に笑って、その日はお開きとした。
*
俺はホテルの部屋に戻り、ベッドの上で仕事用のノートパソコンを開いた。共有サーバにアップロードされた、くだんの音声データを改めて再生する。
『全部隊に告ぐ!』
何度も繰り返し聞いた鋭い声が、画面上のレベルメーターを激しく上下させる。
この声の主はいったい誰なんだろう。シングルモルトで唇を濡らしながら、俺はそのことについて考えた。オープンチャンネルは独自の回線を使用していて、連邦軍のモビルスーツでも、カタロンのモビルスーツのものでもない。状況から考えて、アロウズの人間であるとも考えにくい。
消去法で浮かび上がる名は、ただ一つ。
「ソレスタルビーイング……」
驚異的な性能を誇る機体、ガンダムを有する、謎めいた私設武装組織だ。
この声が発せられた当時、シャーマン氏のモビルスーツは連邦軍の艦隊のちょうど中程に位置していた。そしてそれは、彼が自身の変革を自認した時間帯よりも、ずっと前の出来事だ。
この声の主がイノベイターであると仮定して。
それは、「デカルト・シャーマン大尉以前に、イノベイターとして覚醒していた人物がいる」ということを示唆しているのだ。
「……なんて報告するかなあ……」
俺は枕に力なく頭をあずけて、天井を見上げた。シャーマン氏が人類初のイノベイターであると信じて疑わない連邦軍の連中が聞いたら、間違いなく卒倒するような話だろう。いまだ武装放棄を行う気のないやっかいな私設武装組織の中に、驚異的な能力を持つ新人類がいるのだから。
一介の民間企業に所属する研究者にすぎない俺の報告一つで、来季の連邦政府の軍事予算が大幅に変わってしまうのではないかと考えると萎縮する。
だがそれを立証できるだけの材料があるのなら、……真実であるのならば、それをまとめ上げ、報告するのが今の俺の仕事だ。
論理的な証拠を集めるのはまた明日だ。ウイスキーのグラスをベッドサイドのテーブルに置き、ノートパソコンを閉じると、俺はそのまま泥のような眠りに落ちていった。
*
翌日は気持ちよく晴れた秋晴れの一日だった。遅めのランチを済ませ、ついでに研究室が入っている高層ビルの一階のスターバックスでコーヒーでも買おうと考えた。
ベンティのコーヒーを注文し、奥の受け取り口に移動して、自前のタンブラーを受け取る。振り返り揚々と店を出ようとしたその時、うっかりしたことに人にぶつかってしまった。
「あっ……!」
しまった、と思った時にはもう遅かった。右手に持っていたタンブラーの液体が揺らぎ、わずかに相手の黒いコートの胸にコーヒーがかかってしまったのだ。
「す、すみません!」
相手の顔を見る前に条件反射でそう叫んでいた。タンブラーをコンディメントバーに置き、紙ナプキンを乱暴に何枚かひっつかむ。
その紙ナプキンを相手のコートの濡れた箇所に押し当てようとすると、褐色の手にやんわりと阻まれた。「問題ありません」静かな声が俺を制した。
顔をあげて相手を見ると、精悍な顔立ちをした若者が俺を見つめていた。とはいえ引き下がれず、俺は「でも」と呟いた。
ウェーブのかかった黒髪に引き締まった体つきをしたその若者は、俺の手から紙ナプキンを受け取ると、丁寧に自分のコートについたコーヒーをぬぐった。
「クリーニング代を支払います」
それを見届けながら、俺は言った。
「……どうせ安物ですから、お気になさらないでください」
落ち着いた静かな声だった。けれど、その声が耳に届いた時、不思議な違和感が体を包んだ。
昨日からすでに百回は聞いていた、あの声に酷似しているのだ。
( 全部隊に告ぐ )
緊迫し鋭く差し迫った、ノイズまじりのあの声に。
若者は汚れてしまったコートを脱いでしまうと、まったく問題ないという顔で俺を見た。どこか有無を言わせない顔つきだった。そしてその時カウンターのスタッフが完成したドリンクの名をコールした。生クリームを追加したローファットのキャラメルマキアートと、ホットのカフェラテ。どうやら目の前にいる彼の注文らしい。
「あの」
俺はまっすぐカウンターに向かおうとする若者に声をかけた。
「本当にすみませんでした」
彼は顔だけをこちらに向けて、わずかに頭を垂れただけだった。
……まさかな。その背中を見送りながら、俺は頭に浮かんだ馬鹿げた空想を振り払うように首を横に振った。
「フェルト」
刹那・F・セイエイは両手に持った二つの紙カップのうちの一つを、窓際のテーブル席に座る女性に手渡した。スターバックスの店の外には銀杏並木が並んでいて、黄金色に輝く葉が目に美しい。
「あ……ありがとう」
小型のノートパソコンの画面に集中していたフェルトは、彼の声に顔を上げる。キャラメルマキアートの紙カップを受け取ると、少しだけ口元を和らげてそれに口を付ける。
刹那はコーヒーで汚れてしまったコートを椅子の背にかけると、彼女の正面の席に腰を落ち着かせた。フェルトは集中している様子で、キーボードの上で細い指を踊らせている。「いけそうか」少しだけ声のトーンを落として、彼は彼女に問う。
「うん」
フェルトは短く答えた。
「スメラギさんの予測通り、この店で作業をしている研究者がいたみたい。フリーのネット回線を使ってシンクタンクの共有サーバにもアクセスしているから、そこから枝をつけられそう」
彼女はそう言ってハッキング作業を続けた。このビルの上層階にある官民連帯のシンクタンク。そこで今、連邦軍主導でイノベイターの研究が行われている。世界中から集められた研究者たちが、数ヶ月前にラグランジュ2で行われた戦闘データを事細かに解析しているのだ。
「……俺の音声データのことなら、気にする必要はない」
朴訥とした物言いの刹那をちらりと見上げながら、「そういうわけにはいかないって、スメラギさんも言ってたでしょ」とフェルト。
「誰が気付くか分からないから、念には念を入れないと」
フェルトはすでにシンクタンクの共有サーバの深部にアクセスしていた。通信工学チームのフォルダを見れば、昨日の日付で一つ、更新されている音声データがある。
もしかして、とフェルトは片耳に取り付けたイヤホンでそのファイルを再生する。
……当たりだ。危ないところだった。
「刹那の声を分析しようとした痕跡がある」
トーンを落として、フェルトはそう彼に告げる。
「……そうか」
カフェラテのカップで冷えた指先を温めながら、彼は言う。
「関連データを、バックアップ含めて完全にデリートします」
そしてキーボードを打つ手をいっそう早めたフェルトを、刹那は静かに見守っていた。
*
ぱたん、とノートパソコンを閉じると、フェルトは小さく息をついた。ミッションコンプリート。これで刹那の素性を彼らに知られることもないし、ソレスタルビーイングにイノベイターがいることを感づかれる危険性も減るだろう。
「終わったか」
刹那が聞く。
「うん。もう大丈夫」
フェルトはカップに口を付ける。頭をフル回転させた後だったので、甘く温かいキャラメルマキアートがじんわりと体に染み渡った。
「きれいだね」
窓のすぐ外の銀杏並木を眺めながら、フェルトは感嘆に口元を和らげる。こうして生きて地上に降り、穏やかな気持ちになっている自分がまだどこか信じられない。目の前に座る刹那はというと、医療ポッドを出てまだ数週間しか経っていない。あれだけの死闘を繰り広げた後のはじめての地上だと言うのに、彼は淡白な表情を崩さない。
「……ひとつ、聞きたいんだが」
そんな彼が、突然彼女に問いを投げかけたので、フェルトは目を丸くする。
「なに?」
「いや。……なぜ、低脂肪乳にしているのに、生クリームを入れるんだ?」
そう言ってフェルトの手の中にある、クリームたっぷりのキャラメルマキアートを見下ろしている。彼女は自分の頬がみるみるうちに熱くなっていくのを感じた。確かに、カロリーを気にしているようで気にしていない、極めて矛盾をはらんだオーダーだ。思い返せば最初に刹那に注文を託した時、彼はどこか釈然としない顔でフェルトを見つめていたのだった。
「……クリームを入れたいから、低脂肪乳にしているの」
真っ赤な顔でそう呟くフェルトに、彼は赤みがかった茶色い瞳をわずかに細めただけだった。
おしまい