Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 256 (05/01/24) 旧中城間切 中城村 (14) Soeshi Hamlet 添石集落

2024.01.06 06:01

旧中城間切 中城村 添石集落 (そえし、シーシ)

門口原 (ジョーグチバル)

前原 (めーばる)

豊川原 (トゥイカーバル)

尻原 (シリバル)

自転車走行距離:40.64km、ウォーキング距離: 9.5km




ここ数回は丘陵の上にある集落を巡ってきたが、今日は久しぶりに中城湾に面した平野地域にある添石集落を巡る。急な坂道を自転車で登らないで良いので楽に回れるだろう。


旧中城間切 中城村 添石集落 (そえし、シーシ)

添石は中城平野の北部に位置し、北西の丘陵斜面部から国道を越え、東側の平野部に広がり、東は中城湾に面し北は伊舎堂、南は屋宜、西は登叉に接する。添石は浜原 (ハマバル)、前原 (メーバル)、門口原 (ジョーグチバル)、尻原 (シリバル)、豊川原 (トウィカーバル) の5つの小字からなる。集落は国道から東側の門口原一帯に集中している。前原は農業耕作地、浜原の海岸側一帯は工場地帯になっている。

集落が始まったのは、中城グスクの東側下方 (字泊の古島原) に照屋村と沖縄成田山福泉寺の敷地となっている周辺一帯にあった添石村からと伝わっている。 沖縄成田山福泉寺の下方から青磁片などの遺物が採取されていることや、さらに同施設内には、 古井戸が残されていることからこの一帯が集落跡であったことがうかがえる。

1713年の琉球国由来記、1731年の琉球国旧記にも照屋村の記載がある。その後、照屋村が添石村に統合されたと考えられている。 18世紀中葉に琉球王府が土地農業政策改革の基礎事業として実施した乾隆検地の測量結果に基づき作成された針図をもとに18世紀末頃に編集された地図の「琉球国之図 間切図 (下の図) 」では添石村 (照屋村の記載はない) は現在の場所に移動している。添石村が、いつ頃現在地に移動してきたのか定かではないのだが、異常から見ると、1730年代から1750年代には移送していたと思われる。照屋村が添石村に統合されたのは、現在地に移動するときと考えるのが自然と思われる。首里王府時代の間切の駅 (番所) は添石邑に置かれていた。球陽には、1729年に中城グスク内の殿が撤去され、そこに住民によって瓦屋の中城郡駅 (番所) が置かれたとある。

琉球王国時代の添石村は、現在の登又の一部、節森原、大瀬原、三田原、添石登原、大田原、添石袖花原を含めた地域だった。これら地域は1902年 (明治36年) に行政区として独立し、地籍の変更は1945年 (昭和20年) に行われた。

字添石の民家分布を年代別の地図で見ると、明治時代には現在の国道329号線は存在せず、ケンドーと潮垣道 (スガチミチ) が走り、添石集落はケンドーの北側に集中している。沖縄戦後の1946年の地図では既に軍道13号線 (現在の国道329号線) の原型が集落の北側に見られ、集落の復興が始まっていることが判る。それ以降は民家の分布はほとんど変化は見られない。

明治時代の添石は現在の登又の一部も含んでおり、中城村では3~4番目に人口の多い字だった。明治26年には1,024人で三番目 (一番は津覇で1,265人) その後、屋取集落だった登又が独立し人口は1000人程から600人程になっている。沖縄戦では当時500人程の人口だったが、戦没者、帰還しない人もあり1946年には人口は半分に減少している。その後、人口は増加するのだが、戦前レベルまで戻るのがやっとだった。その後は小康状態が続いており、ここ数年は微増傾向にある。

明治時代には比較的人口の多い字だったが、現在では人口の少ない字となっている。


琉球国由来記に記載ある拝所

  • 御嶽:  
    • 中城グスク内: チゲーウタキ (着替え御嶽 神名: 中森ノ御イベ)、シライ富ノ御イベ、雨乞ノ御イベ、久高ウトゥーシ (遥拝所 神名: 小城ノ御イベ)、ナガジョーウタキ (長門御嶽 神名: ナミナミノ御イベ)、ミートゥガー (夫婦井戸 神名: カワヤグラノ御イベ)、トモヤグラノ御イベ、首里ウトゥーシ (遥拝所 御當蔵火神 巫崇無之)
    • 中城グスク周辺: 照屋ノ嶽 (神名: コバツカサノ御イベ)、ギイス嶽 (神名: ギイス森ノ御イベ)
  • 殿: 中城グスク内: 中城城内之殿 (添石村、泊村)
  • 拝所: ヨキヤ巫火神 (照屋村)

以上の拝所のほとんどは字添石外にあり、唯一、ヨキヤ巫火神への遙拝所 (お通し) が公民館にあるのみ。字添石外の拝所については当該字を巡る際に見学予定。

上の図のように、昔からの祭祀は行われなくなっている。かつてはこれ以上の祭祀が行われており、与喜屋ノロによって執り行われていた。与喜屋ノロは添石集落以外にも、新垣集落、泊集落と中城グスク内の拝所の祭祀も担当していた。

今日は添石集落内の拝所やスポット以外も巡ったが、それは当該集落の訪問記に載せる予定。


添石集落訪問ログ



門口原 (ジョーグチバル)

まずは門口原 (ジョーグチバル) から巡る。この門口原が琉球王国時代から添石集落があった地域になる。現在でも字添石の民家がこの門口原に集中しており、以前とほとんど変わっていない。


倶楽部、添石公民館 (添石自治会公民館)

添石集落は字添石の五つの小字の内の門口原 (ジョーグチバル) に集中している。門口原の中心部に添石公民館が建てられている。1934年 (昭和9年) に青年会が集落の中央にある屋号玉井の土地を購入し、ムラに寄贈して木造瓦葺の建物を建て倶楽部 (村屋) が発足した。当時の写真 (右下) が残っている。沖縄戦が始まる前の1944年 (昭和19年) の夏頃から、中城国民学校が日本軍 (石部隊) の兵舎として使用され授業ができず、添石のこの倶楽部を利用して、午前と午後に分かれての二部授業が行われていた。


霊慰 大東亜戦戦没者

公民館の中には「霊慰 大東亜戦戦没者」の字添石住民の沖縄戦での戦没者220名の仏壇、位牌が置かれている。今日は公民館には人がおらず見れなかったが、写真があるので、それを掲載しておく。戦後、倶楽部が再建される事になった際に、「生き残った自分たちだけのものではない。戦争で亡く なった人たちも、温かく祀って供養したい」ということで慰霊碑の建立が決まったといい、碑を屋外に碑を建立して雨風にさらされるのはかわいそうだという意見があり、位牌のような形状で屋内に設置されることになった。毎年6月23日には、添石自治会主催で慰霊祭が執り行われている。

添石集落が戦火に巻き込まれたのは1945年 (昭和20年) 3月27-28日の米軍による空襲で集落は全焼している。

ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課) では添石の戦没者は256名となっている。当時の添石の人口は約500人程とされ、戦没者率は約51%とかなり高い率になっている。

戦後、中城村住民の帰還は1946年1月から始まっている。当時、中城村住民が収容されていた久志市 (現在の名護市) から中城村当間の一時収容所に先発隊が移動し村への帰還準備が進められた。添石村の住民はまずは当間の一時収容所に移動し、次に伊舎堂の一時収容所に移り、添石集落が受け入れが整うまで生活していた。 


村火ヌ神 (ムラヒヌカン)

添石自治会公民館敷地の東側に村火ヌ神 (ムラヒヌカン) がある。 古島にあった添石村と照屋村の火ヌ神 (ヒヌカン) への遥拝所と伝えられている。戦前、倶楽部 (村屋) が建てられる前は、屋号東玉井の角にあったが、瓦屋の倶楽部 (現在の公民館敷地) を建てたときに、敷地の北側に移され、各種祭祀の際に拝まれていた。


大屋 (ウフヤ) の神屋

添石自治会公民館の南向かいにはノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の分家の屋号 前大城 (メーウフグスク) になる。この前大城は屋号 西門と共に最も古い家とされ、かつては屋号大屋 (ウフヤ) が照屋 (テルヤ) 村の根屋 (ニーヤ) と伝わっている。この敷地内に神屋が置かれている。戦前には根屋の大屋に関わる家は絶えてしまい、この前大城の敷地に神屋だけが残り、前大城 (メーウフグスク) が管理している。神屋内には、大屋と大屋小の位牌、左側には火の神 (ヒヌカン) が祀られている。


大屋井戸 (ウフヤガー)

屋号 前大城の敷地内には大屋井戸 (ウフヤガー) があるのだが、ここを訪れた際には家の建て替え工事中で見ることができなかった。 かつて照屋村の根屋だった大屋が利用していた井戸と伝えられている。1月10日に伊舎堂集落を訪問する際に再度訪れて見学、大屋神屋の近くにあった。


西門 (イリジョー) の神屋

添石公民館の南側のに西門 (イリジョー) の神屋がある。屋号 大屋とともに、添石の旧家とされ、添石 (シーシ) 村の根屋 (ニーヤ) と伝えられている。大屋とともに村落祭祀の中心的な役割を担っていた。戦前から屋敷はあったが、すでに血筋は途絶えており、安谷屋 (アダンナ) 門中が管理している。 この神屋にはハチチブラーと称される鬼面が祀られ、旧暦7月17日には、ムラの長老がこの面を被り、踊りが奉納されたという。チチブラーは沖縄戦で消失し、ハチチブラーの絵を描いて拝んでいたが、1976年 (昭和51年) に復元されている。

この神屋を管理している安谷屋門中は勝連グスク九代目の按司とされる茂知附 (モチヅキ) 按司が元祖と伝えられ、阿麻和利 (10代目勝連城主) に城主の座を落とされる寸前に勝連グスクから添石に逃げ隠れ、その子孫が安谷屋門中として広がっていると言われている。


アシビナー (遊び庭)、現中城村老人福祉センター

添石集落の北、国道329号線沿いには、かつてはムラアシビ (村遊び) が行われた場所のアシビナー (遊び庭) があった。戦前は、このアシビナーで盆明けの旧暦7月17日の旗頭の行事で子供たちがここでスモー (角力) やアダニオーラセーが行われていた。跡地は昭和52年に中城村老人福祉センターが建てられたが、建物の老朽化等に伴い、令和3年に43年の歴史を閉じ閉館となり、その機能は吉の浦会館へ移っている。健在は建物も撤去され整地の真っ最中だった。


慰霊之塔、平和の波、平和の風

中城村老人福祉センター敷地内には、中城村戦没者慰霊塔建立委員会によって1977年 (昭和52年) に中城村の戦没者全柱3,000人余りの慰霊之塔が建てられていた。沖縄戦終結50周年の1995年には戦没者の再調査を行い、新たに1,300余りの御霊を追加し、中城村出身全戦没者5,145名の名前を刻んだ刻銘版「平和の波」と恒久平和を願った記念像「平和の風」を建立している。既設の慰霊之塔を組み合わせてここを平和祈念施設となっていた。

平和の波は波の広がりに見立て、平和の風は風のイメージを取り入れ、乙女・母体・平和のシンボルである鳩をアレンジし、垂直に立つ像になっている。

中城村老人福祉センターの閉鎖で、この平和祈念施設も吉の浦公園に移設されている。1月10日に伊舎堂集落を訪問する途中に吉の浦公園立ち寄っった。

テニスコートの近くの広場に移設されていた。この慰霊碑は中城村全体の戦没者の慰霊碑なのでこの場所の方が訪問者には良いだろう。公園は綺麗に整備されている。


上ヌ井戸 (イーヌカー)

アシビナー (遊び庭、旧中城村老人福祉センター) の裏手に添石集落の共同井戸だった上ヌ井戸 (イーヌカー) がある。かつては洗濯や生活用水などに利用された。添石の住民の多くは、正月の若水 (ワカミジ) は中城グスク内のウフガー(バンジュガー)を利用していたが、そこまで行けない人たちは、この上ヌ井戸を利用していた。


ウシクルシナー (牛殺し庭)

上ヌ井戸 (イーヌカー) の前は広場になっている。シマクサラシーの時に、牛を屠殺した場所と伝えられ、シマクサラシモーとも呼ばれている。


御嶽 (ウタキ)

ウシクルシナーの奥は鬱蒼とした木々に囲まれた小さな丘になっている。添石集落では御嶽 (ウタキ) と呼んで、集落のクシデーガミ (腰当神) とされ、聖域となっている。


ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)

御嶽の南隣にノロ殿内 (ヌンドゥンチ) があり、敷地の一角に神屋が建てられている。地元では殿内 (トゥンチ) と呼ばれ、中には与喜屋巫火神 (ヨキヤノロヒヌカン) が祀られている。与喜屋巫火神は、元々は古島の照屋村にあったという。戦前までは、殿内にはノロが祭祀で使う勾玉や扇子や白衣装、神酒 (ウンサク) を供えるなどの祭祀道具が保管されていた。別棟のアシャギには、ノロが祭祀の際に管轄する集落へ向かう移動手段として利用された駕籠や、ムラの旗頭なども保管されていたが、沖縄戦によって、勾玉以外はすべて消失している。また、屋敷の後方は木々が生い茂り、そこには後ヌ御願所 (クシヌウガンジュ) と呼ばれる拝所があったそうだ。ウマチーや毎月1日と15日にはノロによって拝まれていた。

鎌倉芳太郎の調査資料の「当よきやのろくもい由来並家譜」によれば、護佐丸を元祖とする毛氏の読谷山という人が大島 (奄美) 在番の時に、与喜屋村の女性との間に一男一女をもうけた。その後、豊見城親方が薩摩から帰る途中に大島 (奄美) に立ち寄り、その二人の子を連れて帰った。 後にその娘が中城のろくもい職を任ぜられ、与喜屋のろくもいと呼ばれるようになったとある。集落の屋号大城と前大城は、それぞれこのノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の二男、三男が分家した家系という。与喜屋ノロは添石集落、新垣集落、泊集落と中城グスク内の拝所の祭祀を司り、ノロ制度が廃止された後も戦前までは、このヌン殿内の女性がノロの役割を果たしていた。最後の二人のノロの写真が残っている。また与喜屋ノロが祭祀で使用した用具や衣装などは沖縄戦で焼失してしまったが、焼け跡から勾玉が見つかっておりヌン殿内で保管されている。


神道 (カミミチ)

ヌンドゥンチの前から国道へ出る道はノロが中城グスクでの祭祀を行う時に通った道になる。添石集落の人たちは神道 (カミミチ) として認識していた。葬式の際に龕 (ガン) を担いで墓へ行く時には、この神道 (カミミチ) は通ってはいけないきまりで、現在でも葬式の時にはこの道を避けているそうだ。


蓮根井戸 (リンクンガー)

伊舎堂との境界辺りに蓮根井戸がある。リンクンガーという。かつてはこの井戸の周辺に水田があり、首里王府に献上するための蓮根を栽培していたという。漢字では蓮根 (れんこん) なのだが沖縄方言では母音が「あ」「う」「い」の三つだけで日本語の「え」と「お」は「い」と「う」になる。それで「れんこん」は「リンクン」の発音に変わる。蓮根井戸 (リンクンガー) 上方に、芝生が生えた広場があり、子供たちの遊び場になっていた。



前原 (メーバル)

門口原の南側が前原 (メーバル) で集落の前という意味だろう。この地域のほとんどは農耕地となっている。


県道 (ケンドー、吉の浦線)

現在は国道329号線が幹線道路になっているが、この国道は戦後1953年 (昭和28年) に軍道13号線、琉球政府道13号線として開通された。戦前は、現在吉の浦線と呼ばれているが、当時はケンドー (県道) が主要道路だった。この道路が門口原と前原の境になる。中城村内では久場から泊を経て吉の浦線を通り、奥間、和宇慶へと続いている。この道は明治時代までは中頭郡の管理する郡道だったが、1909年 (明治42年) 頃、県費により道路改修が行われ、県道となった。1914年 (大正3年) に沖縄人車軌道が設立され、1916 年 (大正5年) までには与那原―泡瀬間の全線に馬車軌道が敷設され、トロッコを利用して、西原製糖工場へサトウキビが搬入された。製糖期をはずれると、キドー (軌道) と呼ばれた客を乗せる屋根つきの軌道馬車が通っていた。この県道の南は小字の前原で、現在でもほとんどが耕作地になっている。


屋宜集落への道

添石集落の西の端に県道から道が分岐している。この道は、沖縄戦が始まる前に隣の屋宜集落へ行く道として造られた。この道が出来る以前は屋宜集落へ行くには県道を通ったが屋宜集落の南側を通り遠回りだった。そのため、屋宜の集落に最短距離のこの道を造ったという。


砂糖屋 (サーターヤー) 跡

屋号 前大城 (メーウフグスク) の南側の道路 (県道 馬車軌道) を挟んだ場所は、戦前にはサーターヤーが置かれていた。添石には6つのサーターヤーがあり「一号(イチゴウ)、二号(ニゴウ)…」と呼んでいた。現在のゲートボール場と児童公園の敷地に6つ全部のサーターヤーがまとまって建てられていた。

サーターヤー敷地内の東側にはクムイ (溜池) があり、現在の児童公園の入り口あたりにあったという。このクムイは、製糖の際に使った道具の洗い場として利用されていた。


ウマアミシグムイ

サーターヤーだった児童公園の東には馬を水浴びさせるために使われたウマアミシグムイが残っている。この場所は、土地がやや低くなっているため、水が豊富で戦前はもっと大きかったそうで、2 ~ 3頭の馬を同時に水浴びができ、その側では子供たちが泳いで遊んでいたという。ウマアミシグムイは石積みで囲い整備されている。現在も水量が多く、周辺の畑の散水用として利用されている。


西門井戸 (イリジョーガー)

西門 (イリジョー) の神屋の南、サーターヤー跡の西側に西門井戸 (イリジョーガー) がある。かつては西門が利用した井戸といわれている。この井戸は昔、日照りが続いた時にも、水が枯れることはなかったと伝えられている。


ナーシルダー (苗代田)

西門井戸 (イリジョーガー) の南一帯は、集落内でも特に水が豊富で、ナーシルダー (苗代田) があった。沖縄では戦前は稲作が行われ、ほとんどの集落には、苗を育てるためのナーシルダー (苗代田) と呼ばれる田んぼがあった。添石集落ののナーシルダー (苗代田) は西門井戸の近くにあり、旱魃の時も添石のナーシルダーだけは水が豊富に湧き、稲が育っていたことから県内各地から稲をもらいにやって来たという。その子孫が、島尻辺りから現在も拝みにきているという。


カーラ

丘陵中腹の特別養護老人ホーム春華園から上ヌ毛 (イーヌモー) の北側を経てアシビナー (遊び庭 旧老人福祉センター) と御嶽 (ウタキ) の間を通り、門口原 (ジョーグチバル) の添石集落の中心を通って、前原 (メーバル) 、浜原 (ハマバル) の海岸へと注いでいる川がある。カーラと呼ばれている。カーラのヌン殿内 (ドゥンチ) の後方辺りでは、夏になると子供たちが泳いで遊んでいたそうだ。


潮垣道 (スガチミチ)

小字前原には海岸線に沿って中城から西原へは潮垣道 (スガチミチ) が通っている。古くはこの道の間際まで海だったという。戦前は潮垣道 (スガチミチ) にもトロッコ軌道が敷設されており、スガチミチ周辺で生産していたサトウキビキビをこのトロッコ軌道で運んでいた。


ティーラ橋

カーラは潮垣道 (スガチミチ) と交わるのだが、潮垣道手前に、ティーラ橋というる橋が架けられていた。この近くに、屋号 ティーラという家があったことから、この様に呼ばれていた。ティーラ橋が架かっていたカーラでは、この周辺一帯の畑で農作業が終った後、手足を洗ったり農具を洗ったりするのに利用 されていた。



豊川原 (トゥイカーバル)

国道329号線の北側には二つの小字がある。中城グスクの丘陵斜面の東側が豊川原 (トゥイカーバル)、西側が尻原 (シリバル)になる。どちらにも民家は国道沿いにあるだけで、丘陵斜面には民家はほとんど見られない。


地頭地毛 (ジトゥージモー)

国道329号の北側の豊川原 (トゥイカーバル) に国道沿いの伊舎堂との境界に地頭地毛 (ジトゥージモー) と呼ばれる原野がある。カーラの川の東側に位置している。沖縄戦では、ここには避難壕が造られ、六班の人たちが避難した。 空襲がある度に走ってそこへ避難したという。



尻原 (シリバル)

豊川原 (トゥイカーバル) の西側が尻原 (シリバル) になる。


ウフクビリ (登又) への道

添石集落中の神道は国道329号を渡り、ウフクビリ (登又) への道に繋がっていた。国道を渡ったところに丘陵へ登り道があるのだが、雑木に覆われて現在では使われていない様だ。雑木林の中には石畳の一部が残っているそうだ。この道を登って行くと種取毛 (タントゥイモー) の広場、特別養護老人ホーム春華園がある上ヌ毛 (イーヌモー) に出て、ハンタ道へのウフクビリの道に通じている。ウマチーの際には、ノキヤノロが神道からウフクビリ、ハンタ道で中城グスクへ向かっていた。戦後の一時期も、普天間高校に通学する添石や屋宜の学生は、この道を利用していたそうだ。


上ヌ毛 (イーヌモー)、種取毛 (タントゥイモー)、龕屋跡

ウフクビリ (登又) への道は通れないので、迂回して自動車道路で丘陵を登る。坂道の途中に道が分岐しており、その分岐点の特別養護老人ホーム春華園 (写真左上) の下が上ヌ毛 (イーヌモー 写真右上、左下) で、かつてはこの上ヌ毛で茅葺屋根に使う茅が生い茂りムラで管理していた。茅が刈り取られた上ヌ毛で子供たちは、板切れやトタンでソリを作り、滑って遊ぶことができた。滑ることを「シンディーン」ということから、シンディリモーとも呼ばれていた。 また、沖縄戦では上ヌ毛にムラの避難壕を作り、空爆や艦砲射撃が始まると、住民は走ってそこへ避難していた。上ヌ毛の下側は種取毛 (タントゥイモー 写真右下) の広場になっていた。その下の方には龕屋 (ガンヤー) があった。ここは、かつて、旧暦11月に行われた稲の発育を祈願する行事の種取 (タントゥイ) では、ナーシルダー (苗代田) の角にススキを刺し、この種取毛 (タントゥイモー) でスモーがが行われていた。種取毛 (タントゥイモー) の下には龕屋 (ガンヤー) が置かれていたそうだ。

ここから見渡せる中城湾沿いの伊舎堂や泊の集落。


ハンタ道

これで字添石にある史跡などは見終わったのだが、添石集落で拝まれている御願所のほとんどは元々の添石村があった字字添石の外にある。ウフクビリの坂を登りハンタ道に向かう。先日訪れた新垣からのハンタ道はゴルフ場で一部消滅しており、坂を登った所から中城グスクまでのハンタ道が残っている。ハンタ道に入り中城グスクに向かう。


ハンタ道は字添石から字伊舎堂に入り中城グスクまで伸びている。添石集落で拝んでいる拝所は字添石の外にも多くある。丘陵の上部にあった旧添石村と旧照屋村時代に拝まれていた御願所になる。自転車を国道329号線沿いに停めて、徒歩にて坂道を登り、ハンタ道終点まで行き中城グスクも見学した。中城グスクや添石集落が拝んでいる拝所については、再度訪問を予定。これらの拝所や史跡は今日見学したものも含めて当該集落を訪れた際にレポートに追加する予定。


  • 伊舎堂 - Okinawa 沖縄 #2 Day 257 (10/01/24) 旧中城間切 中城村 (15) Ishado Hamlet 伊舎堂集落
    • 添石村の井戸跡 (所在地不明)
    • ギイス嶽 (ヤハンメー御嶽 神名: ギイス森ノ御イベ) [1月5日 訪問]
    • イントーガラガラ [未訪問]
    • イントーガラガラ近くの拝所 [未訪問]
    • ノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の墓 [1月5日 訪問]
    • シーシガンワー [1月5日 訪問]
    • 雷岩 [1月5日 訪問]
    • 照屋ノ嶽 (ティラウタキ 神名: コバツカサノ御イベ) [1月10日 訪問]
    • 照屋御井戸 (ティラウカー) [1月10日 訪問]
    • 照屋樋川 (ティラヒージャー) [未訪問]
    • ヨキヤノロの墓 [1月10日 訪問]
    • ユーナジー
    • セーグガ-
  • 中城グスク内
    • チゲーウタキ (着替え御嶽 神名: 中森ノ御イベ) [1月5日 訪問]
    • シライ富ノ御イベ [1月5日 訪問]
    • 雨乞ノ御イベ [1月5日 訪問]
    • 久高ウトゥーシ (遥拝所 神名:小城ノ御イベ) [1月5日 訪問]
    • ナガジョーウタキ (長門御嶽 神名: ナミナミノ御イベ) [1月5日 訪問]
    • ミートゥガー (夫婦井戸 神名: カワヤグラノ御イベ) [1月10日 訪問]
    • トモヤグラノ御イベ、首里ウトゥーシ (遥拝所 御當蔵火神 巫崇無之) [1月5日 訪問]
    • 大井戸 (ウフガー) [1月5日 訪問]
    • 中城城内之殿 (添石村、泊村) [1月10日 訪問]

参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 5 添石 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)