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10月28日 見附市→長岡市[北越戊辰戦争伝承館・新潟県立歴史博物館]→小千谷市(54km)②

2018.11.03 08:54


次に、新潟県立歴史博物館に行く。


前にも書いたが、新潟県の県立博物館は新潟市ではなく、ここ長岡市にある。


この博物館は、火焔型土器を中心に、縄文土器や縄文人の生活に関する展示を重点の一つにしている。


それは、火焔型土器が最初に発見されたのが長岡市の馬高遺跡だったからだ。


博物館の近くには、馬高・三十稲場遺跡藤橋遺跡がある。



まずは、「新潟県のあゆみ」のコーナーから。


奈良・平安時代の木簡に書かれた「鮭」の文字。


いかにも新潟らしいが、獣肉を指す「宍」や鮫肉を指す「佐目」は解説がないと分からないが、鮭は誰が見ても鮭だ。



四角い土の塊のようなものは「柿崎古墓」


「木炭郭(木偏)木棺墓」という形式の、平安京周辺を除いては極めて珍しい墓である。木棺を大きな木の箱で覆い、その間に大量の木炭を詰めてある。



新潟の戦国領主である色部氏に伝わる「色部氏年中行事」という書物。


当時の新潟地方で各行事において供された食べ物・供物が記録されている。それらを再現した展示がとても美味しそうに見える。



新潟といえば上杉謙信だが、「上杉謙信奉納願文」もある。


「自分は筋目を守り、間違った行いは決してしないことを神に誓う」と書き、弥彦神社に奉納したのだ。他国へ出陣するための正当性を主張するためとのことだが、なかなか律儀である。



1868年ごろに加賀藩の絵師が書いた「長岡城攻防絵図」


戊辰戦争に関するほとんど唯一の展示だった。長岡には戊辰戦争に関する資料館が複数あるため、ここでは取り上げない方針のようだ。



明治に入り、新潟では女性の社会進出が徐々に見られ始めた。「女株券師」はその一例である。


長岡では明治20年代初頭、多くの石油会社があった。しかし、石油ビジネスには多大なリスクがあったため、銀行は融資を渋った。石油会社は自力で資金を調達するため株券を発行する。

当時、長岡には100名ほどの女株券師がいたが、彼女たちは男性より安い手数料で、より確実に取引を成立させ喜ばれたという。



また、新潟県は全国有数の「地主王国」であった。


全国の1000町歩地主の半数以上が新潟県に存在した。彼らは学者・文化人・政治家などとして活躍した一方、農民たちは洪水などの自然災害や不景気などで田畑を手放す者が続出し、小作料減免を求める激しい動きもあったのである。




「雪とくらし」のコーナーでは、雪国の生活を建物や人形を使って再現している。


雪かきの場面では、屋根の雪を四角く切って、それを路上にきれいに積み重ねているのが面白い。



その雪も、いずれどこかに運ぶのだから二度手間のようにも思えるが、それだけ雪が多いということなのだろう。



長岡藩の絵師・飯島文常の「雪之図」は、当時の長岡の生活を28景の絵に描いたもの。


人間や自然に対する観察眼が優れており、構図も独特で見ていて楽しい。



雪国で使われる道具も展示されている。これだけ大きなカンジキは初めて見た。積雪量の多さを実感できる。

一本ゾリも初めて見たが、何も積んでいないときは背負って運ぶのに便利な反面、荷物を積んだ運搬時には技術が必要らしい。スキーに技術が必要なのと同じことか。



「縄文人の世界」「縄文文化を探る」のコーナーでは、縄文人の生活を人形を使って再現している。


この博物館はこうした展示にとても力を入れている印象。


有名な火焔型土器も多数展示してある。


我々には、どれも同じに見えてしまうのだが。



面白いのは「貝面」。


海の国らしく、普通は土面だが、大きな貝殻に穴を開けて面にしている。


と、こうして雪国・海の国としての新潟県について学ぶことは出来たが、県立博物館であるにも関わらず、北越戊辰戦争の展示があまりに少ないことに驚いた。   


今日は博物館尽くしの一日。

無事に社会科見学を終えた一行は、すでに薄暗くなった国道を南下し、小千谷市にある道の駅「ちぢみの里おぢや」へと向かったのであった。