futurae famae
「お金の心配がなかったら、何がしたい?」というキーワード。妄想するには楽しい。いわゆる夢ノートというやつで、自己分析、なんとなくのポジティブ思考とか、アファーメーションとかみたいなのに使われる。
5,6年前に書いた夢ノートの文書データとかあって、見てみると、5,6年経って叶っているなあってものもあれば、自分の死に方に関する願望とかもあるので、それはこうして書いているんだからそりゃあまだ叶ってない。
「100の願望を書く」みたいな夢ノートもあったけど、100個もとてもかけなかった気がする。
お金の心配がなかったら、何がしたいか。真っ先に思いつくものはある。住みたいところに住むこと。ただ実際、お金がないわけではなく、たぶんそれをしても、収入はマイナスにもならないだろう。とにかく、節約症候群が出ている…。
一体人生に、どのくらいのお金が必要なのだろう?ただ、稼いでも、いつか老いていく。痛みを感じる暇もなく突然死できるなら、別にどれだけ使っていない資産残していようがラッキーと思うかもしれない。
ただ老いて死んでいくならば、ある程度の年数は、お金の使い方もわからない日々があることになる。家族に発生している老いをみると、お金貯めても、計画的に使うことができなくなったら、とても難しい。
細々としたものは、あればそれでいいし、なければそれでもいいのかもしれない。美味しい食事も好きだが、半額になったスーパーの弁当も楽しめないわけでもない。ただ生きていく上での生存欲求が満たされないのは無理だ。
衣食住、実は衣、食は、住の良し悪しによってもだいぶ変わってくるだろう。衣食住の中で、食と住は欠かしたら生きられないし、住だって精神にどれほど影響を与えているか。
近代イギリスのウィッカという宗派では、衣食住にプラス「愛」や「信」に値する言葉を加えている。衣食住愛信。欲しいものは、そこに集約される。
「私」の欲しいものなのか、「遺伝子」の欲しいものなのかもわからない。