10月の会~教育者のファンタジー①
ここ最近考えることが多く、
いったい何から書いたらよいのか、何を書きたいのかよくわからずにいました。
10月は7章を読んでいきました。
初めましての方も多かったため、読み進めることに拘らず、
立ち戻ること、ともに考えること、話すことを大切にしながら進めた結果…。
読めたのは4ページでした。(良いことです♡)
そこで改めて出てきた言葉。
この書籍で最初に出てきたシュタイナーの言葉であり、
私自身ももっとも大切にしている言葉。
このことについて、改めて皆で話し、共有しました。
「すべての教育は自己教育である。
私たちは教師として、教育者として、
自分で自分を教育していく子どもたちの環境であることしかできない」
子どもは内なる光、小さな思い、内なる自己を持って生まれ、生きている。
こんな風に生きたい。こんな自分でありたい。
それに基づいて自分で自分を教育していくのだ。
私たち大人はその環境の一部であり、
自分自身もまた自己教育していく姿を見せることで、
環境としての役割を果たすことしかできない。
教育というと、とかく知識や規律、技術など何かを人に教え、
つけ加えていくことだと思われがちですが、
子どもたちを前にした時、大人ができることは、
子どもを教え導くことよりも、自分自身が子供にとって何より身近な環境であることを引き受け、
それにふさわしい態度、生き方を見せていく覚悟を持つことなのです。
そしてもう一つ、今回、私自身に新たな気づきをもたらしてくれた大切なこと。
シュタイナーは、教育者が子どもについて学んだり研究することについて次のように語っています。
「子どもの発達について学び、それを直接的に保育に応用することが目的なのではない。
ちょうど、食べ物を食べると、それが消化されて身体の一部になるように、本当に「人間」について深く学んだなら、それは自分の心や精神の一部になる。その結果として、直感が働くようになる。たとえば、ある子どものことを考えて眠りにつき、翌朝目を覚ましたときに、「今日はあの子とこういうことをやってみよう」と思いついたりする。そういう働きがあるのだ。」
教育者が学ぶことの意味は、抽象的な概念と取り組むことによって、それに自分のなかで血を通わせるため、身体化するためなのです。
この「身体化」というのがとても大切だと思うのです。
教育に関する知識やノウハウは沢山溢れています。
その表象をすくいとって実践することはできるでしょう。
しかしそれは本人の奥底まで深く染み渡った考えでなければ、
どこかで本人を不安にさせます。
新しい情報が入ってくれば、またそれに飛びつきます。
私は長らくそういう勉強の仕方をしてきました。
しかしそれは本当の学びではない。
私がこの会で、シュタイナー教育のノウハウ的なことをあまり持ち出さないのは
まさに上記したシュタイナーの言葉と同じことをなんとなく感じていたからです。
そのことがシュタイナー自身の言葉として出会い、あぁ、私はこのことを感じていたのだと嬉しく思いました。
書きたいことは沢山あるのですが、なんだか考えがまとまらないので今日はここまで。