戦前の合唱雑誌「メロディー」
以前,「『日本合唱連盟』と『合唱の友』」という記事で「おそらく日本で最初に出版された合唱専門雑誌であろう『合唱の友』」と書いた*。「おそらく」と書いたのは,それ以前,戦前にあった可能性を考慮したからだ。
* https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/3510869
https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12343097719.html
今回,調査の中で戦前の合唱雑誌を見つけた。写真は東京音楽書院が発行した雑誌「メロディー」の昭和12年(1937年)8月号で,「合唱音楽雑誌」と記されており,目次内容も合唱に特化している。実はこれは第3巻であり,それ以前に5月号,6月号がでているが,その最初の2冊は合唱誌ではなく,音楽全般をカバーしていた。7月号を休んだ後,8月に出たこの第3号で「合唱音楽雑誌」のスタンスを打ち出した。判型は四六判から菊判へと大型化し,一方で価格は20銭から10銭と半額になった。大判化し半額にするとは,まるでLSIのデザインルール更新みたいだけど(注:元半導体技術者の比喩),よほど売れる見込みがたったのだろうか。
巻末の「編集室より」で,「『合唱』は専門家(プロフェッサー)のものであって同時に素人(アマチュア)のものであります。」「私達はここに『歌』,特に歌の集成的形式たる『合唱』を中心に,本誌を育ててゆく」と宣言されているが,合唱に絞った理由ははっきりしない。創刊号の「編集室より」に「編集子は今,様々な計画をめぐらせています」とあり,もともとそんな計画だったのかもしれない。1-2号に合唱の記事はほとんどなく,合唱記事が好評だったという理由は考えにくい。
まず書誌的なことを書くと,この雑誌は大学図書館等に重複を除き10冊しか現存しない。最新は昭和15年(1940年)の5月号(vol.4 no.5)で,その後いつ廃刊になったのか分からない。長くとも,昭和16年(1941年)12月から始まる音楽雑誌統合措置までであろう。
昭和15年時点で,出版社が東京音楽書店から耕楽社に代わっており,記事内容も創刊当初と類似で広く音楽をカバーしており,合唱専門雑誌ではない。現存する範囲でいうと,昭和13年(1938年)の10月号(vol.2 no.10)までは合唱雑誌である(表紙に「合唱音楽雑誌」とは書かれていないが)。文章だとわかりにくいので表にまとめた。参考に戦後の合唱雑誌とともに刊行時期を示した(年月は発行月とで揃えたが,廃刊月はあいまいなところがあり,1ヶ月程度の誤差がある)。
1960年台後半の合唱雑誌全盛期,「合唱新聞」では「合唱界と合唱サークルの読み比べ」記事まで掲載された(別の機会に紹介したい)*。これら戦後の雑誌では演奏会の批評など国内の合唱事情にも多くの紙面が割かれているのに対し,「メロディー」では海外の情報を紹介することが中心だったが,まとまって読めることは合唱人にとってもありがたかっただろう。
* 1969-70年の相次ぐ廃刊の理由は細かい分析が必要。例えば60年代末は学生運動が盛んで封鎖された大学もあり,練習がままならない状況のなか,学生団体は人数が激減した。しかし,彼らが雑誌の主要購読者であったとは考えられず,一般の合唱団がどうだったのか,また,60年台の合唱熱がさめ「合唱バブル」がはじけたのか,もしそうならそれはなぜか等検討すべき課題が多い。そもそも一般の合唱愛好家は歌うことが好きで本を読みたいわけではないという,雑誌にとって根本的な問題もある。なお,音楽之友社の2誌については,合唱関係を一手にまとめていた編集者が退職したからとされており,その背後も含めた調査がいる。
戦前は音楽雑誌の数が多く,神月朋子さんの論文「昭和初期における洋楽の普及と創造」によれば,昭和16年時点で40種類程度刊行されていた。確かに合唱の記事は「音楽世界」「月刊楽譜」「音楽倶楽部」「民謡音楽」などにバラバラと載っていて,記事を読みたい合唱愛好家は大変だっただろう。
「メロディー」の前に「合唱雑誌」があったかは定かではないが,前述のように音楽雑誌がたくさんあったので,また合唱人口も比較的少ないので,これが最初ではないかと思う。
内容については,既に述べたように牛山充や津川主一など専門家による海外合唱事情の紹介がほとんど。随筆風の軽い読み物もあるが,合唱という西洋音楽を嗜むものは一般人とは違うという,音楽に対するスノッブな記述が散見される。昭和12年(1937年)は盧溝橋事件など日本と中国が衝突し始めた年で,流行歌の統制が始まっていた。それに対し,例えば
「ミーちゃんハーちゃんには物足りないであろうが,愚劣な流行歌手が,楽壇を荒らさなくなった(チトひどすぎたかな)だけでも,大いに助かる」
「秦の始皇帝ではないが,流行歌レコードは穴に埋め度い位に思っていたところ,今度の事変で国民精神総動員の灯火管制に,一挙流行歌は退散して後かたも無く消え失せた。魑魅魍魎ぶりは,ことわりせめて哀れである」
「レコード界は文字通り火の消えた淋れようで,大分あちこちにルンペン流行歌手が出て来た。どうせ実力もない艶魔師程度の何もな多いから,一度職場から離れたが最後,誠に哀れな状態である。ことに,政府の流行歌退治も,今度は本腰であるから,まだまだ時局が深刻化すると共に,ヘナヘナ流行歌手が押しつぶされることになろう」
という感じで,当時の合唱人が流行歌をどう思っていたか垣間見ることができる。なお,原文の漢字とかなは現代表記に改めたが,漢字の使われ方と送り仮名は原文のママとした。
さて,「メロディー」では国内合唱事情についてあまり言及ないのだけど,第3号に載った長井斉の「我が国合唱音楽の将来」は,前回述べた小松耕輔の考え方*と対比させて読むと極めて面白い。長くなるけど,引用していきたい。長井斉(1893-1985)については,書き出すととんでもなく長くなるし,またネットにもまとまった記事がない。ここでは大阪音楽大学の教授や関西学院高等部の教諭を務めた,特に関西合唱界の重鎮というに留める。申し訳ない。
* https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12411393919.html
長井は関西の人なので,関西の合唱団体とその運動について話すとし,以下を述べる。
「関西には,当時正則な音楽教育機関であり且つ指導的立場にあるべき音楽学校がなかったので,合唱音楽は当然の結果として素人達の努力によって成長して来たのであるが,その背景を為すものは教会音楽であったことは何人も否定することができない」
関西での合唱は,キリスト教系の大学において関西学院グリークラブや同志社グリークラブとして,讃美歌を歌う団体であった。同じ大学合唱団でも,関東の慶應義塾や早稲田大学には,キリスト教の影響はなかった。これら大学合唱団の明治期や大正初期のレパートリーに現れている。
「現在活躍している合唱団は約三十を下るまいが,意識的に,でなければ無意識的に,必ずこの伝統的様式(引用注 関西合唱音楽が寺院風様式であること)を取入れている」
キリスト教系以外の団体や大学に合唱が広がってからも,関西学院グリークラブ等のスタイルが手本とし模倣されたことを示している。そのスタイルは反響良いチャペルの中で歌うことを基本としたため,また正規の音楽教育をうけていないため,大きな響いた声をだすより,小さな声でも正確な音程でハーモニーを鳴らすことに重きがあった。戦後,関東の評論家たちから「関西式合唱」と揶揄されたスタイルの起源である。
なぜ「取入れている」のか,理由の一つにつき次に説明される。
「京阪神男子専門学校,大学を網羅する関西学生合唱連盟があって,創始依頼八年,毎年合同の演奏会を催し各学校からの単独演奏の終りに三百余人の大合唱を行って居るが,ここに注目に値する事実が現出している」
「と云うのは,この合同合唱音楽会は参加十九校の対抗競演ではなく,もともと交歓演奏会であると同時に,最近に於て之が研究演奏会へと導かれつつあることを認識する。即ち各校が一年間練磨の結果を発表し各自にその長所と短所を披瀝することによって相互的進歩を促し,数年以前には参加校の或るものは技術的に他のものと相当の距離があって聴き劣りがしたものであるが,最近は技術が甚だ接近して甲乙の判別がし難い場合が多くなった,且又その音色,演唱型に於ても多くの相似点を見出される,面白いことには新加入校当初の演奏は,甚だ粗雑なものであっても,翌年からは,何時とはなく連盟風な整った演奏になってしまっている。これは関西学生合唱団体は技術的に一大統制ができた事実を説明するものだと考えている」
ここは小松耕輔らの考えと対比し,最も面白いところ。ドイツ式の合唱祭ではなくフランス式のコンクールが民衆の音楽レベルを上げるために必要とされた東京のスタイルと異なる,いわばドイツ式の合唱祭が関西での合唱レベル向上に寄与したと述べている。長井達が意図的に東京とは違うスタイルを採用したのかについては,次の文章を読むと伺える。
関西学生合唱連盟については,関西学院や同志社グリークラブ等の部史にも記されているが,こんな効果があった(あるいは意図されていた)ことは初めて知った。長井はこのような「統制」は一種のマンネリズムにつながるのではという懸念も指摘しているが,各校の不断の努力により乗り越えられる,つまり基礎を作ればその上に各校の個性を出すことができるだろうとしている。
「帝都に於ける合唱団体の行き方と関西のそれとは,種々条件の相違から当然そのシステムを異にして居ることを夙く(はやく)から知って居た。即ち中央には多くの良き歌手があるから,優秀なる部員を集め直ちに良き合唱をする可能性がある。または各声部に有力なるリーダーを置いて各声部の統制を計ることは尚更容易である。であるから相当な難曲でも短日時であっさり纏ってしまう」
長井は関東と関西の成り立ちの違いや環境の違いを早くから認識していた。また関西合唱連盟の演奏会は昭和5年(1930年),関東の合唱祭(コンクール)は昭和2年(1923年)の開催だから,小松の論や合唱祭の効果や功罪も理解した上で(山口の論も読んでいたかもしれない),関西の進め方を考えたのだろう。
ではコンクール形式を取入れなかったのかというと,同じく昭和5年(1930年)に,「祝賀合唱競演会 オール・オオサカ・コーラス・コンテスト」を開催している。こちらは,公開のもので,学生団体と一般団体が競い合う形。つまり昭和5年の時点で,関西では合唱祭とコンクールの両形式の取り組みがあった。この2つの演奏会については,後で詳しく述べる。
「此等は誠に羨しき極みであるが,実力であって関西の団体はいくら逆立しても追ッつかない。関西は之と全く反対の方法で実にネバリ強くやって居る」
関西は人材がいないから,時間をかけてじっくり取り組むしかない。関西の手本となる関西学院グリークラブは関東で開催されるコンクールで3連勝する力があるが,それでも「3年後の50周年記念演奏会には,いまから準備しないと間に合わない」と林雄一郎氏が述べるほど,時間をかけて取り組んでいた。「相当な難曲でも短日時であっさり纏ってしまう」ことはできないと。
「東京の合唱・・・と云っても前記お断りのように余り拝聴の機会に恵まれないので,立入ったことは申し上げられないが・・・を従来ラジオ等で拝聴の場合,物凄いソプラノばかりが耳に付いたものであったが,最近は各音楽学校其他に於て正則的な訓練を経られた部員が多く参加して居られるものの如く各声部の均衡と言い,音調,音色と言い完璧に近きものにて本邦合唱会のため同慶の至りに耐えないところである」
「この調和が東京的より関西的なる個性を帯びたるものとなり,更に関西的なるものが之に合流して大日本的となりたる秋(とき),合唱音楽の将来が約束されるのではなかろうか」
というのが結言だけど,これを読むと長井が本当に「関東の合唱はすごい」と思っていのか,疑問である。歌い手の技術(発声)はすごいものがあるけれど,「各声部の均衡と言い,音調,音色」には改善の余地がある,と思っているようだ。関西は逆に,均衡・音調・音色に一日の長があり,ゆえに関東の声と関西の調和(ハーモニー)の融合を理想形としているように思う。
この記事の最後の文は「純職業的合唱団の出現を要望して止まない」と結ばれている。ここで「純」と付けているところが意味深で,一つは,ストレートに合唱だけで飯が食える合唱団という意味だろうが,文脈からすると「声とアンサンブルの両方が最高峰のプロ合唱団」と読むほうが自然である。
この頃,戸ノ下達也編「日本の合唱史」にあるように,日本初の職業合唱団と言える「東京混声合唱団」は既に活動していた(大正八年(1919年)創設)。1930年頃まで活動していたようだが,長井はこの合唱団の関西公演を聴き,「ドラマティックな曲はさすがに声楽の専門家だけあって声量も豊かで,聴きばえするが,小曲になるとやはりアンサンブルが粗雑になりハーモニーはあまり美しくは響かなかったのではないかと思っていた。その時代,私も小さいながら男声合唱のグループをやっていたし,津川主一がまだ関西学院の神学生であったので,オルフェオというアンサンブルで美しくハーモニーを聴かせていたことなどで。一応コーラスのあり方を会得していたからであろう」と述べている(合唱サークル vol.2-8)。ドラマティックなフォルテのときには目立たなかったアンサンブルの粗が,小曲になると「やはり」聴こえてくるという評価である。
「この調和が東京的より関西的なる個性を帯びたるものとなり,更に関西的なるものが之に合流して大日本的となりたる」とは,関東は声からアンサンブルへ,関西ではアンサンブルから声へと進んでいくことが,日本の合唱の将来であると提言しているように思う。
最後に,せっかくなので当時関西で開催されていた2つの取組み,関西学生合唱連盟と合唱競演会について,長井斉「み翼のかげに -合唱音楽と共に歩んで-」から引用する。
関西学生合唱連盟は,昭和5年(1930年)に朝日新聞社企画部の斡旋によって組織され,第1回記念演奏会が昭和5年1月16日,中之島の朝日会館で開催された。しかし,関西学院,同志社グリークラブの資料によれば,この演奏会は昭和6年(1931年)1月16日の開催とされている。両団とも「関西学生合唱連盟の成立は昭和5年11月30日」としており,「昭和5年」は長井の勘違いのようだ。
男声合唱は,出演順に大阪医科歯科大学グリークラブ,大阪薬学専門学校グリークラブ,神戸高等工業学校,同志社グリークラブ,大阪外国語学校グリークラブ,大阪高等医学専門学校グリークラブ,関西学院グリークラブ,同志社プリム・ローズ・クラブ,大阪商科大学グリークラブ(現大阪市大)。
演奏会では,合唱以外にソプラノ独唱やオーケストラの賛助出演があり,特に目を引くのは大阪盲学校の生徒によるバイオリン,ピアノ,そしてオーケストラの演奏があること。どういう関係で,彼らに演奏の場が提供されたのだろうか。
グリークラブを名のる団が多いところにも,関西学院や同志社の影響が伺える。なんとなく医学薬学系が多いのは,ドイツ語に慣れ親しんでいるからか? このとき大阪外大を指揮したのが清水脩,大阪商科大学を指揮したのが小泉功である。
関西学院グリークラブ80年史には各団体のレベルをABCに分類した新聞記事が引用されており,抜粋すると「Aクラスは関西学院,大阪外大,大阪医大,同志社グリー,Bクラスは大阪商大,同志社プリムローズ,大阪高医,Cクラスは薬専と神戸高工。Aクラスで表現が傑出していたのは大阪医大,ハーモニーが一番美しかったのは大阪外大,各声部の声が一番美しかったのは関西学院」とのことだった。
写真にある合同合唱は,曲目はノルウェー民謡「ああ吾等祖国を愛す」ベートーベン「生贄の歌 (offerlied)」,指揮は長井斉。共に関西学生合唱連盟の訳詞である。
その後,旧制高等学校として甲南・浪高・大高が加盟,三高校合同演奏会も開催されるようになった。戦時中の中絶に近い状態ののち,戦後再び独自の演奏会を開催,昭和35年(1960年)には32校が出演する第36回の大会が開く盛況ぶりだったが,関西合唱運動へと発展的に解消した。
合唱競演会は,東京音楽学校同声会(同窓会)大阪支部の主催,大阪日日新聞の後援で,「西洋音楽渡来五十周年記念祝賀合唱競演会」として開催された。副題は前述のように「オール・オオサカ・コーラス・コンテスト*」。日付は,プログラムの写真を解読すると,「昭和5年1月16日(木) 午後六時半開演」と読める(先の関西大学合唱連盟の演奏会の日付長井はこちらの日付を混同されたのか?)。会場は中之島中央公会堂。
* このときは「コンテスト」だが,昭和8年(1933年)に大阪日日新聞が主催した「第一回大阪アマチュア音楽競演大会」以降「コンクール」という名称がひろがったとのこと。
(2018/10/31追記)
昭和5年(1930年)がなぜ「西洋音楽渡来五十周年」なのか?何をもって渡来というかだけど,薩摩藩は1869年に英国人ウィリアム・フェントン(第一の「君が代」を作曲した)を雇い軍楽隊を組織しているし,1870年台にはアメリカ人宣教師たちが伝道をはじめ,讃美歌が歌われている。
50年前にあたる1880年の出来ごとといえば,伊沢修二と共に日本の音楽教育を立ち上げたルーサ・ホワイティング・メーソンの来日しか思い当たらない。
出場8団体は,ヴェルデン・マニュール・コール(男声34名),大阪メール・コール(男声19名),日本海上パロマ合唱団(男声17名),エトワール合唱団(混声16名),大阪商大グリークラブ(男声41名),千草会混声合唱団(混声50名),大阪ゲミシュテン・コール(混声86名),大阪ルンビニー合唱団(混声56名)。順位の記録はないが,長井の記憶ではゲミシュテン・コールが一位だったのでは,とのこと。
第二回からは「関西合唱競演会」と参加範囲を広げ開催された。このときは,大阪大学工学部グリー・クラブ(男声25名),大阪商大グリー・クラブ(男声35名),大阪高医グリー・クラブ(男声20名),エトワール合唱団(混声60名),ヘンデル混声合唱団(混声70名),ヴェンテル・マニュール・コール(男声30名),関西学院グリー・クラブ(男声36名)。このときは僅少差でヴェンテル,関西学院,ヘンデルの順だったとしている。
しかし,関西学院グリークラブ40年史・80年史を参照すると,話が微妙に異なる。こちらの記述によると,この競演会は昭和8年(1933年)6月18日に開催されている。そして,これが第二回関西合唱競演会であり,第一回は昭和6年に宝塚で行われた,としている。確かに長井も「同声会の主催で前後2回ほど宝塚でおこなったことがある」ことも記しており,これは著書では別のコンクールがあったように読めるのだけど,おそらく,実際は昭和5年大阪コンテスト(中央公会堂),昭和6年第一回関西合唱競演会(宝塚),昭和8年第二回関西合唱競演会(中央公会堂)だと思われる(2018/10/30注)。第二回で関西学院グリークラブを指揮したのは林雄一郎。随意曲(選択曲)は伝メンデルスゾーン作曲の「野ばらの花」。
順位についても,「関西学院グリークラブ3695点,ヘンデル混声合唱団3455点,大阪商大グリークラブ3345点・・と学院グリークラブの圧倒的な優勝であった」としている。長井の記述と異なるが,具体的なのでこちらが正しそうだ。
40年史には「それにつけても,常に我がグリークラブを指導してくださった人に長井斉氏が居られる。氏は此のコンテストの前には何度となくグリークラブの為に指導下され,特に発声法について色々とご注意,又有益な体験談をして下さったのである」と記されている。磨いた発声で関西スタイルのアンサンブルを行うという考えを実践していることが伺える。しかし,そうすると長井が順位を記憶違いするとは考えにくいので,なにか照れのようなものがあったのだろうか?
それにしても,関西学院グリークラブ史のリファレンスとしての充実ぶりと正確さは群を抜いている。さすが日本最古の男声合唱団,音楽だけでなく記録でも合唱界をリードしている。
「メロディー」にあった長井の記事があまりに面白く,つい昭和初期の関西合唱事情が長くなった。バランスを取る意味で,次は昭和初期の関東の男声合唱連盟について書くことにする。
(2018/10/30注)
長井の「同声会の主催で前後2回ほど宝塚でおこなったことがある」が気になり,調べてみたら,別のコンクールであった。長井自身も昭和23年の「合唱の友」で詳しく述べている。情報を総合すると,下表の形が正しいと思われる。関西合唱競演会が昭和9年以降に開催されたのかどうかは不明。関西学院グリークラブは昭和8年から関東の競演合唱祭に出場し,3連勝する。
昭和2年のコンクールは,東京で小松耕輔達の「合唱大音楽祭」が開催される2日前のことで,これが日本で最初の「公募型合唱コンクール」かもしれない。「関西学院グリークラブ40年史」によれば,公募は同年10月17日の大阪朝日新聞紙上とあり*,発表から1ヶ月ほどで開催している。このコンクールに関する記事がセレスティーナ男声合唱団のホームページに載せられている(http://celestina-mc.ciao.jp/images/kageki-192801-p98-1000.jpg)。
(2019/1/21追記)
公募日を確認したところ,昭和2年10月18日が正しい。
昭和3年のコンクールにつき,長井は「合唱の友」に「優勝は同志社グリー,往年の名テナー故太田黒養二氏がまで学生服姿で出演」としているが,同志社グリークラブの部史によれば,優勝は同志社プリムローズクラブである。50年史には「昭和3年の秋だったと思います,現部員,及び太田黒氏等のオールドボーイ合同のダブルクワルテットを作って,宝塚主催の合唱コンクールに出場した」というプリムローズクラブ団員の寄稿がある。このコンクールは一般も大学も同じ土俵で競い合うので,OBが入っても問題ないのでしょうが,太田黒氏は学生服を着ていたけど学生ではなかった*。
長井は「作曲者不詳のアヴェ・マリアを歌って優勝したことが,今もハッキリ,そのメロディーまでも記憶に残っている」と印象を語っている。同志社グリークラブの部史に,その翌年にセーザル・フランクのアヴェ・マリアを歌ったことが記されており,この曲だったのかもしれない。wikiによれば彼のアヴェ・マリアは3曲あり,楽譜を参照できる2曲では3声のFMW62が良さそうだけど,果たして?
https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12388208722.html
* 太田黒養二氏は,「照井(栄三)氏の御弟子さんで解釈,発声,技巧の上で全学ピカ一の歌い手であった」。明治36年(1903年)生まれなので昭和3年(1928年)のコンクール時は25歳。年齢的にはOBだが「昭和3年卒業」との記載もある。
同志社大学法学部卒業後に「フランスに遊学,世紀のバリトン歌手(シャルル・)パンゼラに師事し日々研鑽に努め昭和6年に帰朝,翌7年にデビューし楽界人,批評家をして『声量,ディクション,テクニックのすべてが完璧な純芸術歌手』と瞠目せしめ稀に見る名テナーと将来を約束され,フランス歌曲の唯一な正統的名歌手となられた。」「しかし昭和14年にローゼンシュトック指揮,新交響楽団(N響)伴奏で『カルメン』ホセの名演奏を最後に,(昭和16年)惜しくも早世された」(同志社グリークラブ50年史)
引用内の( )は当方による補足。
(2018/12/14追記)
その後,当時の新聞を調べ宝塚でのコンクールにつき,正確なことがわかったので図面を修正する。開催日時,主催団体を追加・修正。第一位はやはりプリムローズクラブだった。