【GWT】祟り屋と暁人くんの話
もう幽霊の存在も忘れかけた頃だった。
伊月暁人は高熱で苦しんでいた。長い熱病だった。よろめきながら病院へ掛かれたのは、まだ小さな火の粉だった始めの一回だけ。その後はずっと、暴力的に燃え上がった病魔に全身を圧され、虫のように苦しんでいた。昼夜の区別もつかなかった。何を飲み、何を食べたかも、あるいは何も口にしていないのかもわからなかった。ただただ魘され、意識を落としてはまた浮かび、覚醒と眠りの水際さえも曖昧になって、横たわっていた。
死、と、感じたかも定かではない。熱に食い潰されるだけの抜け殻だったのだから。
せめて、抗う力が少しでもあれば、意地でも生きようとできたものを。
暁人が倒れてから二週間。何も起きなければ、暁人は数日後に、一人で暮らすアパートの一室で孤独死することになっていた。
そうならなかったのは、二週間が経過する日の夜に彼らが来たからだ。
幽霊の存在と一緒に、記憶の片隅に追いやられていた存在だった。
『話せるか』
意識が浮上して、初めに耳にしたのは、そんな声だった。
妙な声だった。機械音に似て、ノイズがかかっているように聞こえた。機械を介して話す人間に、暁人はひとり心当たりがある。だがその人ではなかった。
目を開けると真っ暗だった。ちゃんと自室であることはわかった。暁人は二週間ぶりに、まともな頭でそう認識できた。
『ふむ…話せる喉ではないか』
病の床で見る、おかしな夢かと思った。
暗がりに身をやつすようにして、男が三人、ベッドの傍らに立っていた。
健常な状態であればすぐに声を出して逃げようとしただろう。けれど長い熱に疲れ切った暁人は、ぼんやりと彼らを見上げることしかできなかった。
白い円の中心に点がひとつ。弓道の星的に似ていた。円弧の最下部から、水が滴るように下へ線が伸びている。三人とも、そんな意匠が描かれた布で顔を覆っていた。いや顔だけでなく、ほぼ全身が黒い装束で隠れている。
何より目を引くのは、あまりに場違いな菅笠。
『少し診るが、暴れてくれるな。…その体力も残っていないか』
一人が動いた。暁人の枕元で屈み、顔に触れてくる。ぞっとするほど冷たい手だった。その冷たさで、また僅かに熱が引く。目を開かせ、顎に手を添えて口を開かせ、何度か首に触れる。どう見ても医者の風貌ではないが、触診しているらしかった。
されるがままになりながら、暁人は残る二人を見つめた。彼らもこちらを見ているようだが、覆面のせいでわかりづらい。奇妙な格好だ。暁人は彼らを知っていた。長く、思い出すこともなかったが、以前会ったことがある。どこで…あれは、どこと言えばいいのだろう。現実ではない。恨みと呪いにより狂った道理の為すがまま、野放図に形作られた異空間で――。
祟り屋!
声が出れば叫んでいた。実際には隙間風のような息しか出なかった。しかし彼らは深く頷いた。
――オレたちと同じだ。能力者だよ。
いつか、あの人がそう言っていた。オレたち、そう、暁人と、KKと、同じような。
遠い夜の記憶が去来する。暁人がバイク事故で大怪我を負った夜。妹を喪った夜。渋谷一帯が、不気味な霧で覆われた夜。幽霊やマレビト、妖怪といった非現実的な存在が街中に現れて、必死で駆けた夜。
相棒がいた夜。
数えれば、もう十年も前になる。
ほろほろと涙がこぼれた。全身が渇いていたのに。病のせいか、熱い涙だった。
『やはり、その様子では祓い屋の力は残っていないようだな』
ひととおり確認し終えたのか、触診していた一人が離れる。言葉を発することはなく、また同じ位置に戻って佇む。その手が長い棒を握ったのを見て、彼らのことを思い出していく。そうは言っても、元から大したことは知らないのだ。
彼ら、祟り屋は、霊的な異能力を持つ三人組だ。金と引き換えに、人を祟ることを生業としている。
そして、一夜限り暁人の相棒であった男、今は亡きKKを、対のように「祓い屋」と呼んでいた。それはKKが、悪霊や穢れ、マレビトといった人に害をなす存在を祓う力を持っていたからだ。あの夜、事故により重傷を負い、そこにKKの亡霊を宿していた暁人も同じ力を使うことができた。
だが、現在の暁人は正真正銘、ただの一般人だ。
霊的元素であるエーテルに適合する素質はあったものの、祓う能力を持っていたのはあくまでKKだ。さらにいえば、そのKKの力も、ある科学者の技術によって生み出された人工的な処置によるもの。KKが去った後、暁人には何の力も残らなかった。今はもう、幽霊さえ視ることはできない。
だから、あの夜の記憶は、今やまさしく一夜の夢のようだった。
『多少なりとも残っていれば、大事にはならんだろうと思っていたんだがな』
祟り屋は半ば独り言のように、淡々と言葉を続ける。暁人に喋る余裕が無いのだから、会話にならないのは当然ではあるのだが。
しかし…何故、今、彼らがここに?
暁人は浅い呼吸を繰り返しながら、佇む祟り屋を凝視した。ぬかるむ頭で考えた。
意味もなく、あの夜から十年も経った今になって、接触してくることはないだろう。彼らが現れたのには理由がある。
暁人は酷い熱で臥せっていた。病院ではただの風邪と言われたが、薬は気休めにもならず早々に尽きた。原因のわからない熱病だ。
翻って、祟り屋の生業は人を祟ることだ。依頼され、金銭を受け取り、誰かを祟る。
まさか。
祟られたのか、僕は。
じっと覆面越しに暁人を見下ろす彼らの視線が、何よりの答えだった。
『何もしなければ、君は死ぬだろうな』
紙に書かれた文字を読むような、そっけない声だった。
それは…困る。困る。嫌だ。反発する感情は胸の中をぐるぐる巡るだけだ。発露しようにも体が動かない。
十年前のあの夜、暁人は亡き家族に確かに誓ったのだ。みっともなくても生きていくと。一人きりの生活はたまらなく寂しく、心が不安定になる日も何度もあった。だがその誓いだけは揺るがさずに、暁人は今日まで懸命に日々を重ねてきた。生きて、幸せになることを諦めずに。
人はあっけなく死ぬのだと知っている。だがそう簡単に、受け入れる訳にはいかないのだ。
暁人は無理やりにでも体を動かそうとした。動けたところで、祟った本人が目の前にいるのに、逃げられる筈もない。だが寝たままでもいられない。力を込めようとすると、体の重さと全身を苛む疼痛に妨げられる。うめき声すら出ない。だが、だが……。
『じっとしていろ』
先程から唯一声を発している、武器を持たない印使いが印を結んだ。
すると、がちりと体が硬直した。指先ひとつ動かせない。瞬き以外、体の一切の動きを封じられている。体内を荒らす苦しさも逃せなくなり、あまりの苦痛にせっかく戻った意識が遠のきかける。
もう一人が動いた。矢筒を背負った射手だ。懐から何かを取り出し、棒を握った棒術使いに代わって、暁人の枕元にくる。彼が手にしているのは、…お茶のペットボトル?それにしては変だ。薄青く透き通っているような。そうだ、ただのお茶ではない。これは冥界の、冥緑茶ではないか。
やめてくれ!そんなものを今飲まされたら、どうなるか。暁人はもう半死半生の身ではないのだ。生死の理を片足踏み越えていたあの夜とは違う。
だが抵抗できる筈もなく、射手の手が顎にかかった。思いの外、丁寧な手つきだった。口を開かされ、気道に入らないように少量ずつ、あの世の緑茶を流し込まれる。
冷たくて、渋い。懐かしい味だった。
渇ききった喉が徐々に潤っていく。恐れていたような致命的な変化は無かった。むしろ、喉を通ったお茶はするすると小さな流れを作って体中を回り、熱を冷やしていくようだった。
『既に半ば死にかけているからな。大した違いは無いだろう』
印使いが言った。
時間をかけて、暁人はお茶を飲み干した。同時に体の硬直を解かれる。随分と、苦痛が和らいでいた。暁人は目を閉じ、深呼吸をする。
『今なら、視えるんじゃないか』
視える?
体内を循環する冷たさを感じながら、暁人は目を開けた。変わらない暗い自室。しかし、
「っ、ひゅ……う、…っ!」
今度は声が出た。手足がばたついた。信じられない。
自分の胴から、どす黒いものが生えていた。どくどくと脈打っていて、油膜のように気味の悪い赤色が浮いている。醜怪にのたうつその形は、小さな木に似ている。
穢れだ。
エーテルと人間の負の感情が結びついたもの。死の世界にはびこっていて、生きるもの全てに害を及ぼす危険なケガレ。触れるだけで魂を侵すそれが、自分の体に根付いている。暁人は嘔吐しそうになった。
それに…みぞおちのあたりに、光る結晶体が埋まっているのにも気づいてしまった。これは穢れの"コア"だ。壊せば穢れは消滅するが、体内にあるとなれば話は別だ。
どうして急に穢れが視えるようになったのか。冥界の食べ物を口にしたからだろうと察しはついたが、もうそれどころではない。暁人が横たわるベッドは、ヘドロのような穢れでひどい有様だ。
『壊せるか』
祟り屋が聞く。耐えがたい悪寒に震えながら、暁人は彼らを見る。
理解できない。一体どういうつもりなんだ。間違いなく、この穢れは彼らの仕業だ。だのに祓わせようとしている。意図がわからず、暁人は混乱する。
だが、とにかくすぐに穢れを消したい一心で、小刻みに震える手をコアへ持っていく。表面に触れると、指先から怖気が全身を走った。うまく力が入らない。あの夜はあっさりと破壊できた結晶体が、今はとても硬い。
『無理か』
もがく暁人を見下ろし、印使いは呟いた。
無音で片膝をつき、印使いは暁人を覗き込む。ひたりと、彼の手が暁人の手に重ねられた。
「…?」
死に体で忙しなく息を吐く暁人の視線を、覆面の白点が見つめ返す。
『痛むだろうが、耐えてくれ』
印使いの手がそっと暁人の手を除けさせる。代わりにコアを握った彼の手が、
「っ‼う、ぐぅ…っ‼」
ずぐ、と暁人の胸に指先を埋めた。コアを無遠慮に掴み、掘り上げるように暁人の体から引き抜く。すると、木のように不動だった穢れが生き物のように激しく動き、ずるずるとコアに引きずられていく。暁人の体を土壌として、穢れはびっしりと根を張っていたらしい。気を失いたくなるほど悍ましい光景だった。
やがて全ての穢れが抜けきって、印使いが身を起こした。コアごと引き抜いた穢れはその手に握ったままだ。暁人はもう気絶寸前だった。
『すぐに快復するだろう。生きる気力があればだが、その点については心配なさそうだ』
荒れ狂っていた熱は、いつの間にか意識にも上らないほど鎮まっていた。
意味がわからないことばかりだったが、とにもかくにも、今は休息が必要なのは確かだった。
『祓い屋と君には借りがある。このまま殺めてしまうのは、忍びないからな』
じゃあそもそも祟るな。そんなことを思いながら、暁人は意識を落とした。
何も無ければ死ぬ筈だった数日後、暁人は全快して会社に復帰した。
元気になってみれば、長く病みついていたのに誰からも連絡のなかったことが不思議だった。だが出社して間もなく、その理由はわかった。
同期の一人が行方不明になっていた。
その男が、暁人と連絡を取っていると嘘をつき、重篤な状態だった暁人を放置させたのだ。職権を乱用して虚偽の休暇申請まで出して。どう考えても、悪意に基づいた行為だ。
彼が祟り屋に依頼したのだ、暁人を殺してくれと。
一週間もしないうちに、彼が変死したという情報が社内を駆け巡った。暁人の考えは正しかった。近くの人間に恨まれ、間接的に殺されかけた事実は、否応なしに心が沈ませた。
だが生きている。穢れに侵され、あの世のものまで口にしたが、あれから体に異常は無かった。これからも生きていくことができそうで、その点だけは安心した。
けれど変わったこともあった。
「あ…」
帰路につく暁人の視界の端を、青白いものが過った。幽霊だ。
穢れを取り除かれ、目覚めた時、暁人にはかつての霊能力の一部が備わっていた。どこまでできるのか試してはいないが、視る力はほとんど戻りかけているといってよかった。
あの霧の夜はもう来ない。あの夜に出会い、去った人たちも、もう戻らない。
今更、この力を持ってどうなるのか。細々と交流を保っていたエドに連絡してみたが、彼は既に海外に戻っている。申し訳ないがすぐには対応できない、現時点では断言できないことが多い、出来る限り早く日本に向かう。送られてきた音声はそう言っていた。
右手を見る。皺があるだけで、傷跡などは何も無い。かつてここに相棒がいた。三十年余り生きてみても、彼ほど信頼できた人はいないくらい、心を通わせた人。
「KK」
スーツの内ポケットから、自分のパスケースを取り出す。そこには、彼と彼の妻子を映した写真、のコピーが収められている。全く関わりの無い家族の写真を大事にしている人間なんて自分くらいだろう。見るたびに暁人は自嘲する。
そして、熱に侵された夜を思い出す。
祟り屋。十年経っても、彼らのいでたちは記憶と寸分たがわずそのままだった。
どういった打算によるものかは知らないが、彼らは金銭をもらって暁人を祟ったくせに、わざわざ出向いて助けたらしい。そして依頼者に忌み返しをした。滑稽なマッチポンプだ。暁人とKKは、霧の夜に彼らの呼び出しに応じ、祟り場に巣食った怪異、槌蜘蛛を祓ってやった。その恩に報いたつもりだろうか。
――金を稼ぐためだ。
そう言い切るような連中だ。信用はできない。
家族との誓いを守り、相棒の志を胸に抱き、幸せになるために生きる。それが暁人の目標だ。彼らとの関わりは、どう考えても人生に悪影響を及ぼす。関わるべきでない。
しかし――。
『こんばんは』
気付けば、知らない街路に迷い込んでいた。けばけばしいネオンサインの輝く、どこか構造のおかしい路地。
振り返ると、銅像のように印使いが佇んでいた。射手と棒術使いはといえば、彼の後ろの方で何やら店を物色している。
『こちらも仕事が終わったところでね。茶でもどうだ?』
暁人は小さく息を吸い、体を緊張させながら彼らに向き直る。
どうやら、目をつけられてしまったようだった。