韓国映画に見る民族分断の歴史①
2本の韓国映画をたて続けに見る機会があった。一つは「タクシー運転手~約束は海を越えて」(チャン・フン監督)、もう一つは「1987、ある闘いの真実」(チャン・ジュナン監督)である。
「タクシー運転手」は1980年5月の光州事件を外国メディアとして唯一、現地で取材したドイツの放送局記者を実在のモデルにしている。一方、「1987」は韓国民主化闘争のきっかけとなったソウル大学生の拷問死やデモのさなか催涙弾を頭に受けて死亡した延世大学学生など、実在の人物と事件をもとにつくられた。同じ2017年に前後して公開された韓国映画、慰安婦を扱った「鬼郷(キヒャン)」や「徴用工」(実際は朝鮮半島出身労働者)を扱った「軍艦島」といった歴史を歪曲ねつ造し、いわば「反日」をエンタテインメントにした映画に比べれば、この2本の映画は重い事実という裏付けがあるだけに説得力があり、力の入った、よく出来た作品に仕上がっていた。何より今から30年前の、韓国の人々の記憶に焼き付いている出来事であり、街のセットや小物など時代考証でもウソがつけない。歴史的事実に対してはあくまでも真摯に、そして真実の追究という意味では誠実さが必要な作品でもあった。「タクシー運転手」は韓国では1200万人を動員し大ヒットを記録したそうだが、一方の「軍艦島」は鳴り物入りの前宣伝のわりには観客動員数は振るわず、映画の評価も芳しくなかった。歴史の真実に対する向き合い方という点では、二つの映画は大きく異なっていたからだろう。
<実在の人物をモデルに光州事件を描く>
「タクシー運転手 約束は海を越えて」は、戒厳令が布かれ、情報が封鎖された光州に、ドイツ公共放送ARDの記者ユルゲン・ヒンツペーターが単身乗り込み、外国メディアとして唯一、光州事件の実態を映像で世界に伝えた、という事実に基づいている。ヒンツペーター(映画ではピーターと呼ばれる)は、当時、駐在していた東京で、光州で何かが起きているようだという情報を聞き込み、「自分の目で真実を見て伝えたい」と光州取材を決断する。記者とは名乗らず宣教師と見せかけての入国だった。ソウルから光州まで日帰りで往復すれば10万ウォンを支払うという条件で英語が話せるタクシーを雇うことにしたが、やってきたのは英語はほとんど通じない運転手だった。妻を病気で亡くし11歳の娘をひとり育てる父親でもあるキム・サボクには、10万ウォンという報酬に目がくらむ理由があった。滞納している家賃を支払うためにはどうしても必要な金だったからだ。しかし、記者だとは知らずに外国人を乗せ、光州までタクシーを走らせたことが、その後、光州事件の一部始終を目撃し、自ら命を危険にさらすことにもつながった。光州市に通じる道路は軍によって閉鎖され、電話も通じなくなっていた。光州市内まで連れていかなければ金は支払わないといわれ、サボクは必死で山のなかの抜け道を探し、検問も何とかすり抜けて、光州市内に入ることに成功する。
光州市の中心部は市民に占拠され、デモを呼びかける宣伝隊が街を動きまわるなど、ある種のコミューン状態になっていた。戒厳令下で発生している事態については箝口令が敷かれ、地元の新聞・テレビは報道が禁止されていた。
そのため外国人記者として初めて光州に入ったピーターは、デモ隊の学生や地元の新聞記者からむしろ暖かく歓迎され、「光州で起きている真実を海外に伝えてほしい」と懇願され、あちこちを案内されることになる。映画タイトルにある「約束は海を越えて」とは、そうした学生や市民がピーターに託した願い、ピーターと交わした約束の実行を意味した。しかし、カメラを構えたピーターの姿は、私服の公安警備員に見つかり、執拗に追われることになる。一緒に逃げたサボクは、途中で捕まり殴る蹴るの激しい暴行を受けた。その場から助け出してくれたのは、地元のタクシー運転手たちだった。同じ職業仲間として、ソウルから来たサボクに援助の手を差し伸べ、故障したサボクのタクシーの部品を交換して直してくれたり、家にかくまってくれたりした。銃撃を受けて路上に倒れる人々を救出しようとサボクをはじめタクシー運転手たちが率先して行動を起こし、兵士と市民の間にタクシーで突っ込み、車を並べてバリケード代わりにするシーンや、公安の追跡からサボクの車を逃してやるために、地元のタクシー運転手たちが車を連ね、公安の車の前に割り込んで通行を妨害するなど、激しいカーチェースを繰り広げるシーンは、手に汗にぎるアクション映画の面白さだったが、さすがにこれは観客を楽しませるためのサービスカットだと思った。
<同じ民族に向けてなぜ銃口を向けることができるのか>
韓国軍が戦車とともに市内に進入し、集まった市民を力で制圧するクライマックスでは、横に並んだ兵士が水平射撃で市民に銃弾を浴びせる場面が出てくる。このシーンを見て、1989年の北京・天安門事件でも同じような光景があったことを思い出した。天安門広場の学生デモを戦車で制圧した人民解放軍は、天安門に通じる長安街を封鎖。抗議のため天安門広場に向かって長安街を行進してくる市民に向けて、横一列に並んだ兵士は機関銃を水平に構え、一斉射撃した。倒れた市民を助けようと駆け寄る人々に向けても一斉射撃が繰り返された。銃声がやむと再び市民が通りの真ん中に出てきて、兵士たちの銃口の前に立つといった光景が繰り返された。それと同じ光景がこの映画のなかにもあった。
同じ民族が同胞に銃を向け、命令次第で簡単に引き金を引く。自分が撃った銃弾で目の前で人が倒れ込む姿を見て、兵士たちは何を思っていたのかと考えさせられた。
映画では、光州事件の時代背景や原因については、詳しい言及がなく、韓国現代史になじみのない日本人には分かりづらいかもしれない。光州事件の一連の経過を振り返ってみる。
前年1979年10月に朴正煕大統領が暗殺され、一部地域を除き非常戒厳令が発令された。同年12月、保安司令官の全斗煥が軍幹部を一掃する「粛軍クーデター」を起こし、全軍を掌握する。翌年の4月、5月にかけて民主化を要求する学生デモが拡大し、5月17日、全国に戒厳令が布かれた。戒厳司令部は翌18日、金大中や金鍾泌など政治家や宗教家26人を騒乱を背後で操ったなどとして逮捕、金泳三を自宅軟禁した。政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校措置などを盛り込んだ戒厳布告が発表された。
このころ光州市内ではデモの主体は学生から市民に移り、市内に急派された陸軍の空挺旅団に対して、市民は角材、鉄パイプ、火炎瓶などを使用して対抗した。
5月20日、群集は20万人以上に膨れ上がり、対峙した軍・警察は3万人、市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築くなど、陸軍部隊との市街戦の様相を呈した。5月21日、市民は軍需工場や予備軍の武器庫を襲撃して、装甲車などの車両や銃器やTNT爆薬なども奪取し、全羅南道庁を占拠した。映画では、市民が武器庫を襲って武器を奪ったことや軍との間で市街戦となったことなどには触れていない。
<光州事件に至った原因は究明されているのか>
光州市民の軍への抵抗、攻防戦は、戒厳軍の投入から10日目の5月27日、ついに数千名の陸軍部隊が装甲車とともに市中心部に進出、市内全域を制圧することで終わりを告げた。市民に多数の死傷者が出たが、その正確な数はいまだに不明のままだという。戒厳司令部のその年5月31日の発表では、死亡者は170人(民間人144人・軍人22人・警察官4人)、負傷者数は380名であった。しかしその後、事件の犠牲者に支払われた補償金の支給対象として認定された人数は死者154人、行方不明70人、負傷者3028人、その他の計 4,362人となっている。
また事件の背後関係についても、金大中首謀説や北朝鮮介入説などがあり、これだけの犠牲者を出した大きな事件でも、未だに真相究明は終わっていない。
監督のチャン・フン氏はこの映画をつくる原動力となったのは「サボクとピーターという2人の存在」のおかげだという。この二人が突き動かされ、彼らの目に映った時代の姿を描きつつ、「歴史上の偉人が成し遂げた大きな事柄ではなく、普通の人々の小さな決断と勇気が積み重なり何かが成し遂げられるといった、近くで見ていなければ知り得ない事柄を描きたかった」と述べている。タクシー運転手という市井の無名の人がやり遂げた大きな仕事を、興味深く感動的に描くことには成功しているといえる。
ところで、ピーターことドイツ人記者のユルゲン・ヒンツペーターは2006年に亡くなるまで、タクシー運転手のキム・サボクのその後を尋ね回ったが、探し出すことはできなかった。別れ際にピーターに渡した連絡先のメモにあった「サボク」の名前は、映画では偽名だったとして描かれている。無名のタクシー運転手は無冠の人でもあった。
ところでピーターが撮影し、世界に配信した当時の映像は、映画のなかでも使用されているが、NHKのアーカイブ映像のなかにも当時の光州市内の映像が残っている。貴重な映像なので以下のURLを掲げておく。