惜別 星野仙一
赤ヘルフィーバー真っ只中の昭和50年。小学生に赤い華美な帽子は好ましくないとして禁止令が敷かれ、やむを得ず代わりに選んだのが青い帽子だった。中日ファンになったのはそんな他愛ないことだった。ただひとつだけ胸を張れる理由がある。星野仙一にぞっこんだった。この選手を応援しようと心に決めた。
忘れられない場面がある。昭和51年。全国中継されたある日の巨人戦。星野はマウンドで火だるまになっていた。たまらずベンチを飛び出した与那嶺要監督に対し星野は「出て来るな!」と大声をあげて交代を制したのだ。勝利への飽くなき執念。王に張本に立ち向かっていく闘志溢れる姿に胸を熱くした。
広島での中日戦には何度も足を運んだが、運悪く星野が投げる試合には一度も当たらなかった。試合前の投手陣のアップでは「絶対的エース」の風格がありありと伺えた。左のエース・松本幸行、抑えの切り札・鈴木孝政。個性あふれる投手陣の真ん中に星野がでんと腰掛ける。リーダーシップはそのまま監督となり発揮されたことは周知のとおりである。
中日監督を退いた後の阪神・楽天での栄光のキャリアに対し、複雑な思いであることに今も変わりはない。平成14年、父の贔屓チーム阪神監督に、息子である私の贔屓の星野が就任。翌年セリーグを制したシーンを照れくさい思いで父と見つめた。父の顔を立てて、福岡ダイエーとの日本シリーズを観にいったことは忘れ得ぬ思い出となった。
直接お会いしたことはとうとう一度もなかったが、年賀状を出せば必ず返事をくれた。シーズン18勝をあげた昭和52年から引退前年の56年まで。五年間にも及んだ。一枚一枚を手に取り数々のシーンが目に浮かんでくる。男の手本だった。こんな人は他にいなかった。
小学校からの友人Hくんから訃報を知らされた。友がいて。父がいて。そしてヒーローがいて。男同士の語らいの真ん中にいつも野球があった。八月の少年たちが心をときめかせた映像は今も色褪せない。