「青の情熱」:/ 軌道エレベーターの客室乗務員モブお姉さんの話 / 刹那とライルも少しだけ
きみが大変だってことは分かる、とクヌートは言った。
仕事に忙しくしているのは知っているし、ぎりぎりのところで頑張っているんだろうとも思う。その仕事だって大したもんだ。軌道エレベーターの客室乗務員なんて狭き門だからね。タフじゃなきゃ続けられない。尊敬するよ。
じゃあ何が気に入らないって言うのよ。と彼女は聞く。
実は今日、口述試験に受かったんだ。彼が言う。
あとは論文だけだ。うまくいけばこのままフランスで専任の教職に就けるかもしれない。これはチャンスなんだよ、カリナ。……俺の言ってる意味、わかるだろ?
彼女はそのまま何も言うことができない。無言のまま電話を切って、真っ暗なホテルのバスルームで一人泣く。
青の情熱
「……やっぱり、宇宙が好きでこういう仕事を?」
ネイビーストライプの背広を着た三十代。シャンパングラスを受け取る左手の薬指には指輪はない。
「ええ、子どもの頃からのあこがれでしたの」
隣で食事の準備を進めるリディアが言う。「軌道エレベーターを見たいと言って、よく父を困らせましたわ」
「すてきだなあ。子ども時代の夢を叶えたんですね」
客室のディスプレイに映しだされた、車外の青い星。うっとりとした瞳でそれを見つめる横顔は、大理石で出来た彫刻のように整っている。「本当に美しい眺めだ。素晴らしい」そう言って、愛想の良い笑みを惜しみなく見せる。薄い唇からのぞく白い歯が眩しい。
「あなた方はさながら、地球を見守る天使ですね」
「まあ、天使だなんて」
リディアの耳がほのかに赤くなっているのが分かる。「お上手ですね」とカリナも調子を合わせ、「宇宙へはお仕事で?」と聞く。
「ええ。でもその後は休暇をとっていて」
三〇三号室の男はそう言って少し照れたように微笑んだ。
「低軌道ステーションに出向している恋人に会いに行くんです。彼は太陽光発電システムの技術者なんですよ。とても優秀な男で」
まったくやってられないわ、と足早に廊下を進みながらリディアが悪態をつく。三〇三号室の紳士のことを言っているのだ。
「怒らない、怒らない」その少し後ろを歩きながら、カリナは小声でなだめる。
「こんなのが今月もう三回よ。あとはコロニー開発公社のセクハラ親父ばっか」
乱れたこめかみの髪を直しながら彼女は口を尖らせる。足早にバックヤードに飛び込むと、キッチン室から堰を切ったような笑い声が響いた。
「リディア、残念ねえ」
そう言って奥から意地悪い顔を出したのはヒロミという同期だ。
「なに? また盗み聞き?」
「インカムをオープンにしてるのが悪い」
「今日はいけると思ったんだもん。連絡先聞かれたら見せつけたくて」
「まさかゲイだったとはねえ」
「いい男はだいたい妻帯者かゲイなんだから」
リディアはそう言ってため息をつく。そう言いながらも作業の手は止めない。三〇八号室の家族連れから注文された二人前の「お子さま宇宙おやつセット」を、手早く用意する必要がある。カリナも別の客室からオーダーが入っている。中国の山奥で特別栽培された茶葉を使う「天柱アフタヌーンティーセット」は、専用の茶器からお茶請けの菊花酥まで、こみいった準備がいる品だ。
「お客に出会いを求めてるわけ?」
棚からアフタヌーンティーのトレーを取り出しながら、カリナはリディアに聞いた。
「もちろん。そうじゃなきゃ天柱に入ってない。金持ちの男と結婚してコロニーに住むんだから」
きっぱりとそう言いきるリディアがどこかで羨ましい。二十代前半とまだ若く、ブルネットの髪にグリーンの瞳の色が似合う美人だ。観光関係の人材を育成する専門学校を出てすぐ天柱の客室乗務員枠に応募して入社しているから、年はカリナの方が上だが社歴は同等だ。
カリナはというと、特に軌道エレベーター勤務に強い野心を抱いていたわけでもない。学生時代の専攻はフランス文学だった。サン・テグジュペリが好きだったのだ。大学三年の終わりにようやく就職について考えた時に、なりたいものやしたい仕事といったビジョンが一切ない自分がいることに気がついた。慌てて飛び込んだキャリア支援センターで受けた適職検査で、宇宙生活に対する身体的な素質があることが分かった。「軌道エレベーターや低軌道ステーションで働くなんてどうかしら」キャリアカウンセラーが彼女の目も見ずに、パソコンの画面だけを眺めながらそう言ったことを今でも覚えている。
天柱の客室乗務員といえば女子学生の花形だ。記念受験のようなつもりで採用試験に臨んでみれば、意外なことにあっさり受かってしまった。フランス語ができたことと、身長が高く美人とまでは言わないが愛嬌のある顔立ちをしていたこと、そしてやはり決め手となったのは「宇宙環境適応強度S」の評価だろうと、今となっては思う。
軌道エレベーターの客室乗務員はきつい仕事である。乗務便に応じたシフト勤務で、往路丸二日、低軌道ステーションでのスタンバイが二日、復路でまた丸二日拘束される。グリニッジ標準時を採用している宇宙と地上とでは時差もきついし、それに加えて宇宙生活が体に与える負荷もある。よほど自己管理に気を配っていないとすぐに体調を崩してしまう。
そういうハードな職種だから、大体の女性たちが三十代で見切りをつけてやめるか、別の航空会社に転職するか、地上のカウンター業務をこなす部署に異動してしまう。その頃までに宇宙の専門的な分野で働く高収入の男と結婚していればキャリアとして理想的だ。リディアはそれを目指している。つまり初めから玉の輿ねらいである。
「この前は真柱で、コロニー開発公社の人たちと合コンだったんでしょ? あれ、どうだったの」
「全然だめ。女の楽しませようって気が全然ないんだから」
「ひどい言いよう」
と、ヒロミがカリナに視線を送りながら肩をすくめる。短く切り込んだショートカットが小さな顔を引き立てている。
そう言うヒロミも、客の一人から連絡先を書いたメモを渡されて、待機中の低軌道ステーションで密かな火遊びをしていた時期があることを、カリナは知っている。その後は会っていないようなので二人きりの時に問い詰めると、「宇宙に上がったら性欲が増す男なんて、ろくなもんじゃないってことが分かったわ」「万能感に浸って、無能な勘違いをしてるだけね」とさらりと言い放って、結局地上で働く堅実そうな男と付き合い始めた。
「あーあ。どこかにいい男いないかな。イケメンで高収入で頭が良くて長期間の宇宙生活でも病気にならない、いい男」
ヒロミがため息をつく。
「それはもう人間じゃないでしょう」
「でも、最近聞かない? 進化した人類が生まれ始めてるって」
「進化した人類?」
ヒロミが問う。アフタヌーンティーの茶葉を茶器に移しながら、カリナも視線をリディアに向ける。
「去年くらいから、普通じゃ考えられないほど宇宙放射線耐久値が高い人たちが出てきてるらしいよ。テレパシー能力があって、宇宙生活に適応した『イノベイター』ってネットでは言われてるらしいけど」
「なにそれ」
「私も良く分かんないけど、友達の友達もね、そのイノベイターかもしれないの。ある日突然、『相手の考えてることが分かる』って言い出したんだって。それで国の施設に検査で入ったんだけど、それきり連絡が取れないらしくて」
「えー、それって突然変異ってこと?」
「そういう進化した人類が増えちゃったら、私たちの仕事もなくなっちゃうかもね。勤務体系とか変わりそう」
「お給料も新人類の方が良くなったりね」
それはちょっと嫌かもしれない、とカリナは思う。自分が天柱で働く決め手になった「宇宙環境適応強度S」という評価が揺らいでしまう。あちらは宇宙生活に適した体で生まれてくる上に、テレパシー能力まであるときたら、こっちは最初から負けが決まっているカードでゲームをするようなものだ。
きみの考えていることがだんだん分からなくなってきた。
一昨日電話をした時、クヌートにそう言われた。次のリフレッシュ休暇もフランスには行かない、できればしばらく距離をおきたいと伝えた直後だった。
クヌートとは大学のゼミで出会い、付き合ってもう六年になる。就職したカリナと違って、フランス文学の研究の道をとった。めでたく研究助成金が下りることになり、博士号を夢見て昨年渡仏した。パリの街にいるというのに毎日十二時間以上机に張り付いて勉強三昧の生活をしていることを知っている。彼女が最後に会いに行ったのはもう半年も前のことだ。その後一度、勉強の合間を縫ってクヌートが天柱がある海上都市を訪れてくれたことがあったが、彼女は急な欠員の出た便に駆り出され、宇宙に上がらなければならなくなった。
申し訳ない気持ちもあったが、タイミングが悪いと苛立つ気持ちもどこかにあった。昔からそういうところがある。目的を達成するまでに妙な回り道をしてしまうような、勘の鈍いところが。こちらは五年、人から羨ましがられる花形の仕事を続けているが、向こうは貧乏な研究生活を五年続けている。こちらは数えきれないほど宇宙に上がり、毎日のように壮大な地球の姿を眺めて地球市民としての愉悦に浸っているが、向こうは一度も地上を離れたことがなく、時代ごとのバロック文学を全て暗記することに年じゅう躍起になっている。
そういうところの差異もあり、最近は会話が噛み合わないことも増えてきた。遠距離で何年も交際を続けている時点ですごいとリディアたちには言われるが、それでもいつまで保つかしらねと心の内では思っていた。会わない時間が長くなればなるほど、互いの差をすり合わせる努力をするのが億劫になってくる。
そんな中で受けたのが遠回しな先日のプロポーズである。カリナに仕事をやめてフランスに来いと暗に言っている。前後の会話が喧嘩腰だったこともあって、おざなりに言われたことに自尊心が傷つけられた。彼のことを愛している。けれどもこちらの生活のことや、彼女の都合を全く汲んでくれない姿勢には腹が立つ。そもそも最初から、客室乗務員など玉の輿目的の女たちがやる仕事だとどこかで軽視されているような節もある。
分かろうとしてくれないのはあなたでしょ、とカリナは唇を噛む。今日の往路便の個室車両は満室で、朝から保守作業に忙しい。バックヤードでウェルカムドリンクの準備に追われていると、興奮した様子のリディアが足早に寄ってくる。
「一〇三号室」
「なに?」忙しいのと、クヌートの件で虫の居所が悪いのとで、つい不機嫌な返事をしてしまう。
「さっき搭乗してきた時に見かけたの。いい男! 二人組だった」
リディアは明るい声で背後からささやく。
「今日一号車担当でしょ。食事出し、一回やらせてよね」と言う。
ため息をつきながらも、陽気な同僚に気持ちが助けられているとも感じる。ドリンクを満載した重いワゴンを押して、バックヤードを出て担当客室を順番に回っていく。一〇三号室は一等客室の中では比較的簡素な作りの部屋で、食事も特に豪華なオプションのないシンプルなプランの部屋である。扉の前に立ち、開いた扉に合わせてお辞儀をする。
確かに悪くない二人組だ。一人はアイルランド系の長身の男で、癖のある亜麻色の髪が色っぽい。一見するといかにもな優男だが、アイスブルーの切れ長の瞳だけが長い前髪の奥で冷淡に光っていて、きっとただただ優しいだけの男じゃないんだろうなとも思う。こういう顔つきの男の子が学生時代、クラスに一人はいた。とても綺麗な顔立ちなのに、目の奥だけがすっと氷河みたいに冷たい男の子。声をかけられることも、かけることもないまま一年が終わる。ノスタルジックなあこがれをくすぐられるタイプだ。
もう一人、向かいに座っているのは濃い肌の色の黒髪の男で、長身の男に比べるとこちらはいくらか雑然とした印象を受ける。黒のコットンシャツに紺色のコートという飾り気のない服装で、髪の毛はあちこち跳ね上がって気にかける様子もない。だからといって完全に粗野なタイプというわけでもなさそうだが、そう感じるのはきっと彼が長身の男よりもかなり若いせいもあるのだろう。口元や首筋にわずかに残る少年の名残が、厳粛な雰囲気の中で引き立って見える。
男たちはカリナを見上げ、長身の男は機嫌よく微笑み、黒髪の方は無表情で軽く一瞥しただけだった。
「天柱へようこそ。ウェルカムドリンクはいかがですか?」
「ありがとう。俺は白ワインを。……お前は?」長身の方が黒髪に聞く。
「……ミネラルウォーターを」
「かしこまりました」
カリナは速やかにドリンクを給仕する。ミネラルウォーターを受け取ったその若者は、機械のように精密な動作で、その冷えたボトルに口をつけた。
例の一〇三号室に夕食の給仕に行ったリディアがバックヤードできゃあきゃあ言っている。長身の男が相当に好みのタイプらしい。そんなに言うならと後片付けに行ったヒロミは、黒髪の方がなかなか可愛くていいじゃないのと言う。
「でも関係性が見えないわね。ゲイカップルなんじゃないの?」
「けっこう歳が離れてると思うけど」
「そういうのって年齢関係ないでしょう」
確かに奇妙な二人組ではある。職場の上司と部下というには親密すぎる気がするし、カップルにしては「湿っぽい」感じがしない。一人は愛想が良すぎるし、もう一人はその逆だ。
次にワゴンを出す時にその辺りの探りを入れてきてと言われる。既に一般車両のスタッフにまで噂が広まっていて、断りにくい雰囲気である。少しだけ緊張しつつワゴンを押して一〇三号室に行くと、長身の方が席を外している。どうやら一服するために喫煙室に出かけたらしい。
声のかけやすい方が不在である。さてどうしたものかと思いつつ、「軽食のワゴンです。何かご入用のものはございますか?」と愛想のない黒髪の男に聞く。
「……スナックと、コーラを」
食事の時も水で済ませていたのに、ここにきて意外な要求をしてくるので驚いてしまう。いかにもなジャンクフードで若者らしい。ワゴンの小型冷蔵庫からコーラの缶を取り出し、ポテトチップスの袋と一緒に手渡す。
手渡す時に、その若者と正面から目が合ってどきりとしてしまう。赤みがかった茶色の瞳は大きく、わずかに眦が釣り上がっていて猫を思わせる。表情の読めない瞳にじっと凝視されているような気がしてどうにも居心地が悪い。「また御用がありましたら……」と、会話を諦めてそそくさと部屋を出ようとする。
「会いたい人がいるなら、会いに行ったほうがいい」
「え?」
「死んでいるわけじゃないのだから」
突然この若者はなにを言い出すんだろう。驚きに体が固まってしまったが、同時に心臓を掴まれたような気持ちにさせられたのも確かだ。頭に浮かんだのは、ここのところずっと頭を悩ませている、遠く離れた国にいる恋人の姿だ。
「な、なにを……」
彼女が言うべき言葉に悩んでいると、黒髪の男は彼女から目を逸らす。
「すみません。変なことを言いました」と、意外に礼儀正しく詫びを入れる。「いえ……」と彼女も首を横に振る。
「ただ、ちょっと驚いてしまいまして。……私、考えていることが口に出ていたのかしらって」
「……何か、悩んでいることが」
彼がカリナを見上げて静かに聞いた。
「ええ。……遠く離れて住んでいる人と、ちょっとした仲違いをしてしまって。それで今、お客様にそう言われたので、びっくりしたんです」
「会いに行かないんですか」
「……怖くて」
どうしてこんな見知らぬ人に個人的な打ち明け話をしているのだろうかと、カリナは不思議に思う。カレッジにいる彼女の弟と歳近いような青年である。だが彼女を見上げるその瞳には、清らかで誠実な光が感じられる。その瞳に射抜かれると、どうも取り繕うことが難しい。
「……死んでしまったら、分かり合うこともできない」
青年は言った。
「だから後悔のない方がいい」
相変わらず愛想のかけらもない物言いだったが、その言葉が胸をついた。
「怖い言い方をなさるのね。死んでしまうなんて」
カリナがそう言うと、青年は何か遠くを見るような目で彼女を見た。その表情にわずかに年相応のものを感じ取って、カリナは思わず微笑んでしまう。変わった若者だ。なぜかリディアが話していた『進化した人類』とやらを彷彿とさせる。相手の考えていることが分かるテレパスたち。宇宙生活に適した強靭な体。
「あなたに愛される人は、きっととても幸せでしょうね」
カリナは言う。
「遠く離れていたとしても、会いたいと思ったら、絶対に会いに来てくださるんだもの」
彼はごく真面目な顔つきのまま、カリナの顔をじっと見つめていた。
「そうだといいんですが」
静かな声でそう言って、そして再び深い沈黙の中に潜り込んでしまった。
しばらくして長身の方が客室に戻ってきた。長身は彼女にスパークリングのミネラルウォーターを注文した。カリナと青年は何事もなかったかのように振る舞い、そして彼女はそのまま部屋を出た。一〇三号室の二人組の関係が一体どのようなものなのかは、結局、最後まで分からずじまいだった。
*
もしもしクヌート、私よ。次に地上に降りたらそっちへ飛ぶわ。うん。突然で申し訳ないんだけど。……え? ……ううん。私こそごめん。ひどいこと言って……。口述試験合格の「おめでとう」も言ってなかったよね。お祝いをしようよ。久しぶりに、二人でゆっくりお酒でも飲もう。
恋人への電話を終えて、彼女は端末を閉じて机に置く。低軌道ステーションのホテルの窓からは、眼下に広がる青く美しい水の星が見える。青の惑星。緑に覆われた悠然とした大陸を超えた先に、彼女の愛すべき人がいる。
( 会いたい人がいるなら、会いに行った方がいい )
静かな情熱が彼女の中で青く清い炎をつけ、そして熱を帯びていくのを感じている。あの不思議な若者の燃えるような瞳によく似た熱が。