「大人の男」:/ 本編沿い / 刹那×スメラギ
彼とその姿との間には、本当はマリアナ海溝のような深い溝があった。たった数秒前までは。
「…あら」
我ながら中途半端な声色だったと思う。もっと大袈裟に笑ってやればよかったのに。
「どうした」
「刹那、」
青年の声に反応して、スメラギは右手で自身の顎の辺りに触れるような仕草をした。格納庫で愛機の整備に出ずっぱりだった刹那・F・セイエイは、それを見て自らの顔に手を伸ばす。顎に触る、というよりかは、掴む、といった方が適切なその仕草は、ますます彼を、スメラギの知る『刹那・F・セイエイ』から引き離した。
顎を掴んだ刹那の指が、まるでその鋭利な感覚を楽しむかのように頬をなぞる。たくましい男たちがこういう仕草をやるのを、スメラギは勤めていた時分によく見たことがあった。何よその仕草。まるでいい大人みたい。スメラギは思わずそう言いたくなる。
「髭なんて生えるの、あなた」
少しからかいの色が乗ったその言葉に、刹那は手に顎をやったまま、「当たり前だ」と答えた。そう、そうよね。当たり前よね。行動時間はとうに規定の範囲内を超えている。青年なら時間の経過とともに髭くらい生える。刹那の言葉はごもっともだ。
「初めて見たわ」
「そうか」
刹那は大して思うところもないようで、そのまま顎から手を離してダブルオーガンダムに視線を移した。愛機を見上げるエースパイロットの、そのきらっきらの瞳と言ったら、ハイティーンにも満たなかったあの頃となんら変わらないというのに。
「…大人になったのね」
痛いくらいの視線で自分のことを見上げていた、十四歳の刹那のことを思い出して、スメラギは独り言のようにそう呟いた。十四歳の刹那。寡黙で無愛想で誠実で、それでもってかなり頭の固い子どもで、スメラギのことなど別の世界に暮らす、見知らぬ生物のような目で見上げていた。生きている大人の女に対してひどい苦手意識を持っているようだということは、日々積み重ねられていく不器用な仕草ですぐに見て取れた。
そんな彼に対して、私はどうだったかしら。スメラギは長い睫毛を震わせて、素早く思惑を巡らせた。そうね、私も自分のことばかりだった。合理的で独善的な、血の通わない戦術予報という方法でしか、小さな小さな刹那と向き合おうとしなかった。ガンダムで世界を変えたいと願う、その痛々しいほどの若い瞳から、役割を盾に逃れてばかりいた。
「どうやらそのようだ」
だけど今となっては。
目じりから、刹那の淡白な優しさが、微かに滲み出る。
「刹那が大人になるんだから。私も歳をとるわけね」
スメラギはそう言いながら、キャットウォークの手すりに寄りかかった。首を回して、凝り固まった体を伸ばすように体を反らせて。そうして隣に立つ刹那を見上げた。少しばかり疲労の色が見て取れる、その凛々しい顔立ちの若者は、そんな彼女をじっと見下ろして。
「…あんたは何も変わらない。出会ったあの時のまま、」
わずかばかり髭が生えた、無精な印象すら与えるその精悍が、空気を震わす。
「綺麗だ」
微笑みを湛えたまま。
彼女は青年のたくましい肩をとんと叩いた。
「いい男になったね、せっちゃん」
そうして、刹那は初めて微笑んだ。
最初からそう言えと言わんばかりの表情で。