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10月30日 妙高市→上越市[上越市立歴史博物館・高田城三重櫓]→妙高市(39km)

2018.11.05 07:30

道の駅「あらい」は、国道18号と上信越自動車道に挟まれており、どちらからも利用できる。


広い敷地には、レストランやカフェ、コンビニが並び、利用者も多い。夜間はさぞ賑やかなのだろうと覚悟していたが、思ったよりも静かに眠れた。


⭐️おすすめの道の駅認定⭐️ 道の駅「あらい」

 


今日も雨模様だが、昨日取りやめた上越市観光へと向かう。



上越市は、平成の大合併により、旧直江津市や旧高田市を含む周辺17市町村が合併し、現在の上越市となっている。


直江津には、かつて越後国の政治経済の中心地である国府が置かれていた。


戦国時代には守護代だった長尾氏により戦国きっての堅城・春日山城が築かれ、上杉謙信(元長尾氏)が居城としたことで知られる。 


その後、江戸時代に入ると高田城が築かれ、徳川家康の譜代四天王と呼ばれた榊原氏が、130年間にわたり高田藩主を勤めている。


上越市では、当然お決まりのコース「その町を知るなら先ずは博物館で社会科見学を」ということで、上越市立歴史博物館に行くことに。  



この博物館は、高田城址の高田公園内にあり、今年7月にリニューアルしたばかり。


入館すると、ロビーのとなりには「ラウンジ・上越の歴史を歩こう」があり、巨大な航空写真が広がっている。


残念ながら展示の写真撮影は全て禁止だったが、「越後の都」コーナーには、戦国時代の領主である長尾能景や上杉謙信の直筆の書状が展示されており、かなり貴重である。


次の「徳川の城」コーナーでは、高田城の大きなジオラマや城下町地図、VR映像が展示されている。



上越市にはかつて長尾氏(上杉氏)の春日山城以外に、福島城高田城と合計3つの城があった。


福島城は1607年に築城されたが、徳川家康が越後の新たな拠点として高田城を築かせたため、わずか7年で廃城になった。


高田城は江戸城や二条城とならぶ規模と格式と言われた名城で、築城に際しては伊達政宗が普請の指揮をとったという。


その他、長くこの地を治めた榊原氏に関する文物、幕末・維新に翻弄された高田藩の様子を紹介した展示などがあった。 


ちなみに、ここ高田はもともと旧士族が住む高城村と、町人が住む高田町に分かれており、合併して高田町となった。そこには複雑な経緯があったらしい。


常設展の最後は「雪国の暮らしと民俗」コーナーであり、なかなか面白かった。


ここ上越市は国内有数の豪雪地帯である。昭和20年になんと377cmの積雪を記録し、昭和61年にも戦後最大の324cmの積雪があった。


かつて行われた雪下ろしでは、屋根から雪を切り出し、ソリを使って積んだ雪を川まで捨てに行ったという。


そして、上越市(特に高田)は「日本のスキー発祥の地」と言われている。


1910年にオーストリア=ハンガリー帝国の軍人・レルヒ少佐が交換将校として来日し、高田にあった陸軍第13師団歩兵58連隊にスキーを教えたのが始まりだ。


雪国らしい展示物としては、前から引き後ろから押す運搬具・人力ソリや、下駄の底に竹の小さなスキーを取り付けた遊び道具などがある。


家屋の庇を長くし、通路のようにした「雁木の町屋」の模型もあり、雁木の形式を残した商店街は、市内のいくつかの場所に現在も残っている。



「高田瞽女」で知られる「瞽女(ごぜ)」に関する展示もある。


瞽女の研究で知られる画家・斎藤真一が制作した「瞽女宿の図」は必見だ。


瞽女宿とは、旅を続ける瞽女達を各地で宿泊させた民家のこと。



高田を中心に、東は出雲崎や十日町、西は糸魚川、南は飯山まで、大きな古地図にまとめられた力作である。


この盲目の女芸人集団については別に書く。


  

常設展に続き、企画展「高田藩と戊辰戦争」を見学。こちらは常設展の料金で見ることができる。



戊辰戦争では、高田藩は新政府側として戦った。しかし、高田藩は朝廷から最後まで睨まれていた。


戊辰戦争の当初、高田藩主・榊原政敬は幕府と朝廷(新政府軍)に対する態度を決定するため、重臣達を高田城に集め自身の「決意書」を示した。


それは、「哀訴諫爭(ごんべん)」というものである。


「哀訴」とは、「朝廷に対して徳川家の存続を求める」ことであり、「諫爭(ごんべん)」とは、「徳川慶喜に対して朝廷への謝罪を求める」ことを指す。


15万石の小藩である高田藩にとって、これは筋を通すためのギリギリの意思表明だったが、新政府軍からすれば、中途半端な立場であり、「勤皇」でも「朝敵」でもない、「不審」の藩の最たるものとみなされた。


そして、高田藩は結果的には新政府側として、幕府軍と戦うことになる。


こうした藩の対応を姑息と批判した江戸藩邸詰の藩士86名は、藩からの度重なる説得にもかかわらず、神木隊を組織して彰義隊に合流。上野戦争を戦ったのち、幕府側として五稜郭の戦いに参加する。


そして、高田藩にはもう一団が居た。


高田藩は福島に「釜子」という飛び地を持っていたが、そこに居た高田藩主達(釜子陣屋)は本国との連絡がとれず、藩内の情勢を把握しないまま、幕府側として会津若松城での籠城戦を戦うことになる。


企画展では、高田藩のこうした苦悩を感じさせる書状や文物が豊富に展示されていた。




博物館の近くには「高田城三重櫓」があり、歴代高田城主に関わる展示がある。


最上階からは、市街の風景を一望できる。


周囲の木々はだいぶ紅葉が進んでいる。今日は雲に隠れていたが、晴れていれば妙高山も望めるはずだ。




市内のイオンにある「小嶋屋」で、新潟名物「へぎそば」で遅い昼食。 


夜は道の駅「あらい」に戻って安眠する。