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令和5年12月度 御報恩御講 住職法話

2024.01.08 09:44

令和5年12月度 拝読御書

『法華題目抄(ほっけだいもくしょう)』

文永3(1266)年1月6日

「この経に値(あ)ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華(うどんげ)、無量無辺劫(むりょうむへんこう)に一度値(あ)ふなる一眼(いちげん)の亀にもたとへたり。大地の上に針を立てゝ、大梵天王宮(だいぼんてんのうぐう)より芥子(けし)をなぐる(なげる)に、針の先に芥子(けし)のつらぬ(貫)かれたるよりも、法華経の題目に値(あ)ふことはかたし。此(こ)の須弥山(しゅみせん)に針を立てゝ、かの須弥山(しゅみせん)より大風(たいふう)つよく吹く日、いと(糸)をわたさんに、いた(至)りてはり(針)の穴にいと(糸)のさき(先)のいりたらんよりも、法華経の題目に値(あ)ひ奉(たてまつ)る事はかたし。さればこの経の題目をとなえさせ給(たま)はんにはおぼしめすべし。」

(平成新編日蓮大聖人御書 887㌻5~7行目)

【背景】

 本抄は、小松原法難から1年2ヵ月ほど経過した文永3(1266)年1月6日、日蓮大聖人様御年45歳の時に認められた御書です。対告衆は不明ですが、本抄の御教示からは女性信徒に与えられたことが推測できます。内容は、まず信心をもって唱える題目の功徳深重なることを明かされ、その唱題の功徳で悪業が消滅することを種々の譬えをもって示されています。次に拝読の箇所において、法華経の題目に値遇することの難しさを教示されています。さらに後段では、いかなる者をも成仏させる功徳が妙法に存することを説かれ、最後に当時の念仏を唱える女人に焦点を当てて、女人成仏は妙法以外にないことを強調され、直ちに念仏への執着を捨てて妙法を唱えるよう勧誡し、本抄を結ばれています。

【御文拝読】

この経に値(あ)ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華(うどんげ)、無量無辺劫(むりょうむへんこう)に一度値(あ)ふなる一眼(いちげん)の亀にもたとへたり。大地の上に針を立てゝ、大梵天王宮(だいぼんてんのうぐう)より芥子(けし)をなぐる(なげる)に、針の先に芥子(けし)のつらぬ(貫)かれたるよりも、法華経の題目に値(あ)ふことはかたし。

〔語句の解説〕

・ 優曇華(うどんげ)…優曇波羅華(うどんばらげ)の略。優曇鉢華(うどんばつげ)とも言う。花は外部から花托(かたく)に包まれて見えない。三千年に一度開花する珍しい花とされる。仏または転輪聖王(てんりんじょうおう)が世に出現したときにこの花が咲くと言われる。仏典では、この仏に巡りあうことの難しさの譬えとして用いられる。

・ 劫…計ることができない長遠な時間の単位のこと。『大智度論(だいちどろん)』に「細軟(さいなん)な衣で四十里(一里=約4km。四十里=約160km)四方の大石を百年に一度ふき払い、やがてその大石が磨滅しても劫には及ばない」とある。

・一眼の亀…法華経『妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)第二十七』に「仏には値いたてまつること得難し(中略)一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」(法華経588㌻)と説かれ、大海の底に片眼の亀がいた。手足がなく、腹の熱さは鉄の焼けるようであり、甲羅の寒さは雪山のようであった。この亀の願いは、ただ栴檀(せんだん)の木の穴に熱い腹を入れて冷やし、甲羅の冷たさを太陽で暖めることだった。しかし亀は、千年に一度しか浮上することができず、しかも大海は広く栴檀の浮木に値うことも難しい。まして仮に栴檀の浮木に値えても亀の腹に合う穴が開いているか判らない。仮に合う栴檀が流れてきたとしても、片眼である故、更に得難いと示されている。これより、衆生が正法に巡り遭い、それを受持していくことの難しさを説かれている。

・大梵天王宮…大梵天王(※)の住居。三界(※)中、色界の初禅天(しょぜんてん)にあるとされる。

※大梵天王…欲界初禅天の王で通じて色界十八天の王ともいう。仏法を守護する諸天善神の一人で、仏が出世して法を説くとき、帝釈天と共に必ず法を守護する。

※三界…欲界、色界、無色界のことで、煩悩や悪知識に惑わされた六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天上界)の衆生が輪廻する境涯。欲界とは、食欲や性欲などの欲望の盛んな境界。色界とは、欲界を離れた清浄な物質の世界だが、物質の制約がある境界。無色界とは、欲望や物質を超越した精神の世界。

・芥子…微細なもの。僅かなもの。

・須弥山…古代インドの宇宙観で世界の中心にあるとされる山。高さは水面より八万四千由旬(ゆじゅん)(一由旬=約15km。八万四千由旬=約126万km)。水底より合わせると十六万八千由旬(約252万km)。四宝より成り立っており、北面は黄金、東面は白銀、南面は瑠璃、西面は頗梨(はり)にそれぞれ輝き、頂上は三十三天に分かれ、中央に帝釈天(喜見城)が住し、他の三十三天を司っている。

・此(こ)の須弥山(しゅみせん)に針を立てゝ、かの須弥山(しゅみせん)より大風(たいふう)つよく吹く日、いと(糸)をわたさん…総本山第26世日寛(にちかん)上人は「此の須弥山の中央より彼の須弥山の中央に至るまで、十二億八万三四五十由旬」(法華題目抄文段・御書文段六六九)と御解釈している。(十二億八万三四五十由旬=約180億125万1,650km)

〔通釈〕

 この法華経に値い奉ることは、三千年に一度花の咲く優曇華や、無量無辺劫の長き間に一度(浮木に)値う一眼の亀にも譬えられる。また大地の上に針を立てて、大梵天王宮から(一粒の)芥子を投げて針の先に芥子が貫かれるよりも、法華経の題目に値うことは難しい。またこちらの須弥山に針を立てて、向こうの須弥山から大風が強く吹く日に糸を渡そうとして、針の穴に糸の先が通るよりも、なお法華経の題目に値うことは難しい。

〔解釈〕

 ここでは、法華経の題目に値い難いことを三千年に一度開花するという優曇華と一眼の亀の譬え。欲界初禅天の大梵天王宮から芥子を投げ、とても微細な針の穴に入れる譬え、向こうの須弥山から大風が強く吹く日にこちらの須弥山に糸を渡そうとして、針の穴に糸の先が通ず譬え。をもって法華経の題目には値い難いと仰せられています。

【御文拝読】

さればこの経の題目をとなえさせ給(たま)はんにはおぼしめすべし。

〔通釈〕

されば法華経の題目を唱えられることは(誠に有り難い事である)と思いなさい。

〔解釈〕

 ここでは、優曇華・一眼の亀の譬え、

【御妙判を拝して】

 拝読の御妙判では、初めに法華経の題目には値い難いことを仰せられ、そして値い難い法華経の題目に値い、題目を唱えることは本当に有難いことであると仰せられています。我々は値い難き御本尊様に巡り会い、唱え難き御題目を唱える事ができていることは、稀中の稀であることを知るべきです。更に言えば、人として生まれ合わせることも稀中の稀ですから、一眼の亀の「栴檀の木の穴に熱い腹を入れて冷やし、甲羅の冷たさを太陽で暖める」ことができた如きなのです。そんな稀中の稀の我々ですから、今法華経の題目・南無妙法蓮華経を唱えることができています。その行為は、第67世日顕上人は「この題目を唱えることが末法における成仏の要道である」(『大日蓮』平成11年8月号)と、成仏得道を得られる仏道修行を成しているのです。しかし総本山第二十六世日寛上人は「一生に一遍の唱題で成仏できるのか」との問いを設けられて、その答えとして「過去に謗法の無い人は成仏できるが、過去の謗法が深重な者は、一遍の題目では到底その罪を消すことはできない」(法華題目抄文段・御書文段651趣意)と、即ち、過去に一度も謗法を犯していない人ならば、一生のうちに一遍でも御題目を唱えれば成仏する事ができるが、一度でも謗法を犯した人は一度の御題目では成仏する事はできない。まして数多くの謗法を犯した人ならば、なおさらの事であると仰せられています。我々は数多くの謗法を犯しています。故に一遍の御題目では成仏できません。時間を割き御題目を唱えることにより、犯した謗法行為が消滅でき、一歩一歩成仏へと近づくことができるのですから、御題目を唱え励みましょう。また日寛上人は「日日(にちにち)に参詣して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、一足の裏に寂光の都は近づくなり」(『寿量品談義』富要10-191)と、折あるごとに我々の根本道場たるお寺に参詣し、住職と僧俗一致・異体同心して御題目を唱えることの大事も仰せられています。また自宅よりお寺に向かう一歩一歩が足の裏からも功徳を得ているとも仰せられています。更に日蓮大聖人様は「一経の肝心たる題目を割れも唱へ人にも勧む」(妙密上人御消息967㌻)と、値い難き御本尊様・唱え難き御題目を自分が唱えると同時に他の人にも一緒に唱えさせるように努めることも大事であると仰せられています。

                                    以上