「目的を持たない」っていいな。。
新春一つ目が引用になること、お許しください。
内田 樹(たつる)さんの文章です。氏は引用を許諾してくれる知識人なので、安心しておりますが。。
なるほど!と膝を打ちたくなる考察の方なので、この2024年も内田先生の文章を楽しく読んでいる最中です。それではどうぞ!
→ 日本のJRという鉄道会社の卓越した観光ポスターのコピーに「そうだ、京都へ行こう」というものがあります。非常によくできたコピーで、最初に見てから、数年経つのにまだ使われていますから、とても集客上効果的だったのでしょう。
この宣伝コピーの「そうだ」というのが「無心」「無文脈的」ということです。あれこれと旅行の行く先を考えて、資料を取り寄せて、日程を考えて、それで「それでは、最適解として、京都に行くことにしよう」ではないんです。街を歩いていて、あるいはご飯を食べていて、仕事の手をふと止めたときに、急に「そうだ、京都へ行こう」と思い立った。これは武道における「機」に通じるものです。前段がない。いきなり生起する。
武道的な「無心」「無文脈的」な動きというのは、そのことです。不意にある動作がしたくなる。そして、それが結果的には、攻撃に対する最適の対応になっていた。結果的には、です。それをめざしたわけではないんです。「何となくそのような動作がしたくなった」だけなんです。「応じた」わけではない。だから、決して「相手に遅れる」ということがない。
「応じる」というのは「後手に回る」ということです。攻撃という「問題」を出されたので「正解」で応じようとするというスキームだと、攻撃してくる「敵」が作問者・出題者で、「我」は受験生です。出題するのも、採点するのも、「敵」です。「難問に最適解で応じる」というマインドで動くと、いきなり圧倒的に不利なスキームに巻き込まれてしまう。
ですから、「困難な状況に投じられたので、これを何とか切り抜ける」という考え方をしてはいけない。絶対にしてはいけない。それは「困難な状況」を設定した者に対して「後手に回る」ことになるからです。だから「無心」になることで「先手/後手」「出題者/受験生」「難問/正解」という枠組みそのものを無効にする。
「無心」というのは、「そうだ、これをしよう」という自発だけがあって、達成すべき目的がないということです。何のために「そんなこと」をしたくなったのか、自分でもよくわからない。(引用はここまで)
いかがでしたか?
続きは内田さんのBlogで是非どうぞ。