海の中鯖青くして雪止みぬ
Facebook近藤裕子さん投稿記事 🍀🍀冬のわらべ歌とわたし🍀🍀
おおさむこさむ 山から小僧が泣いてきた なんといって泣いてきた 寒いといって泣いてきた おおさむこさむ おおさむこさむ
今日は24節季の「小寒」。寒の入りにあたります。
小寒の前は冬至、後は大寒で、本格的な冬の寒さはこれからです。
小寒から節分までを「寒(かん)」といい、小寒に入る日を「寒の入り」といいます。
暦のうえでは冬の寒さが一番厳しい時期で、寒中見舞いを出し始める時期でもあります。
子供の頃歌った「おおさむこさむ、、、」は この時期のものでしょうか?。
私は奈良県の田舎町で幼い日々を過ごしましたが 〈泣くほど寒い日〉があった事を覚えています。
雪国ならば如何ばかりかと厳しい寒さを思ってしまいます。
〈冬来たりなば春遠からじ〉は英国の詩人、シェリーの詩「西風の賦」の一節だそうです。
つらい時期を耐え抜けば、幸せな時期は必ず来るというたとえに引用されます。
厳しい冬のあとには 春!!。
Facebook長堀 優さん投稿記事
冬来たりなば、春遠からじ
社会には、立場を異にした人がたくさんいます。エネルギーの問題や、税金に関する意見は、社会への関わり方で変わってきて当たり前、これまで私の周りの狭い社会だけをみても、意見はさまざまでした。
しかし、今回だけは別です。見事に皆が反対で一致しています。その危険性を肌身で感じているようです。
人間はとことん落ちると反転します。ヒット・ザ・ボトムといいますが、底を打てばあとは上がるしかないのです。今回の法案は、眠れる巨人、日本人をついに起こしてしまったのではないでしょうか。みなの目の色が変わって来たように思います。
日本にはいい言葉があります。冬来たりなば、春遠からじ、夜明け前の闇は一番深いとも言います。
ピンチはチャンス、まだ勝負は決まっていません。
あきらめは、それこそ相手の思う壺、我々一人一人が自分にできることを考えなければ。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
新しい文明が誕生する時は古い文明が終わりをつげます。
十八世紀後半から起こった資本主義経済は、人々を幸せにしないことがわかってきました。
二十世紀の終わりになるまで、ヒマラヤの辺境ラダックの生活はほとんどを自給自足によってまかない、人々は驚くほど心穏やかで、喜び満ち足りた生活を送っていました。
ところが、70年代のラダックに、近代化と開発の嵐が襲いかかると人々の生活は一変しました。
人々は現金を求めて都市部へ移住しました。
貧富の差が広がり、犯罪が横行して都市生活は、ストレスをもたらしました。
人々は時間に追われ、家族が一緒にすごす時間は少なくなり、人との絆は薄れました。
助け合う共同体は崩壊し、隣りの人と繋がりが持てなくなり、心の分離感が進んで、精神の病が増加しました。
「わたしたちの中に貧困はありません」と胸を張っていたラダックの青年が、わずか数年後には貧困にあえぎながら援助を懇願するようになりました。
「豊かさ」の度合いを計る指標はGDPなどの消費の量、科学技術の進歩、経済的な効率性や生産性などですが、ラダックで起きたことは「物質的豊かさ」が増えるほど、自然環境が悪化し、伝統文化が破壊され地域のコミュニティが崩壊して、人間関係が希薄化することでした。
日本でも経済発展という呪文をとなえGDPの拡大が始まったのは1956年ころからです。
ところが自給自足の村にバスが開通し、TVが普及すると、情報がTV経由になり、子供達は古老の話、土地の伝説や言い伝えに関心をもたなくなりました。
TVに映し出される都会の生活と自分たちの生活を比較して若い人たちは物質の豊かさにあこがれるようになりました。
若者は農業、林業をやめてお金を求めて都会へ働きに出てしまい農村は過疎化していきました。
動物も人間も生きている地球の大きな網の結び目の一部にすぎないというアメリカ・インディアンと同様な世界観を縄文時代から日本人は継続して持っていました。
「ご先祖様」を「神」とした神社には鎮守の森があってキツネや蛇や鹿がいました。
自然と人間と先祖との関係性に包まれた世界がありました。
神話的思考をしなくなると自然の中に神を見る事はなく、かわりにお金や経済が神になってしまいました。
お金の価値が何よりも優先されるようになると神のいない森が売り払われてしまいました。
相互扶助などの人間関係は希薄になり、縄文から里山の森を維持してきた村落共同体は急速に崩壊してしまったのです。
資源は無限にある。経済は成長しなければならない。後戻りしてはいけない。前に進むしかない。私たちの頭はグローバル経済のマーケティング戦略にすっかり洗脳されてしまっています。
60年代に今の経済成長、消費生活を続けていると破局すると警告されていましたが、成長を止めると社会が混乱するという理由だけで、膨大な環境コストのかかる消費生活を手放すことはしませんでした。
機械的なマインドは、いったん動き始めると方向転換ができないのです。
循環が途切れた経済システムは地球の資源を食いつぶし、残った廃棄物で崩壊します。
満たされなかった欲求を消費社会では、消費によって表現しようとします。
しかしそれは代理欲求なのでいくら大量消費しても本当の満足はえられません。
結局、地球の資源を食いつぶし経済が破綻するまでそれが続けられてしまうのです。
物質の豊かさだけでは真の幸福が得られないことは明らかです。
取り返しの効かない崩壊が起きた時に、人は気づきます。
しかし、その代償は高くつきすぎるのです。
環境が破局する前に頭の中の古い価値観が破局する必要があります。
中世までの時代はピラミッド型組織のトップが権力を持っていました。一瞬でも隙を見せると、他のだれかに寝首をかかれてしまうので、トップは自分の周りを忠誠を誓う血縁、地縁関係で固め、自分の配下には褒美を与えて彼らを統率しました。
過去の人類は長い間、富を奪い、殺し合いをする、力の強いものが弱いものを恐怖で支配する自己中心的段階にありました。
1 、自己中心的段階(私)
2、家族や友だちなど自分の所属する組織グループの人だけに思いやりの心を持つ自集団中心的段階(私+私たち)
3、人種、宗教、性別、信条を超えて人類すべての人に思いやりの心を持つ地球中心的段階(私+私たち+すべての人々)
4、統合的段階(私+私たち+すべての人々+すべての存在)
意識の成長は前段階を含んで超えて広がり自己中心的な段階から自己中心性が減少していきます。
新石器時代から十八世紀までの間、人間の使ってきた技術はさほど変わりませんでした。
産業革命以降の百年間で大量の資源が採掘され、新しい技術革新により大量の製品が作られ、利用され、廃棄されるようになりました。
人々は物質的に豊かになりましたが、成長による富の分配は一部の人に偏り、多くの人々の生活はさらに貧しくなりなりました。
技術は進歩しているように見えますが、意識は同じ次元を水平移動しているだけでした。
ほとんどの人がマインドが作り出す世界を真実と思い込んで従ってきました。
ところが、1960年代から人類の意識進化を促す起爆が起きました。
かつて、高次の意識状態は、イエスや仏陀や老子だけのごく少数の人々の特別なものと思われていました。
ところが、人間の本質が、ボディ・マインド・スピリットを超え時間と空間、あらゆる次元を超えていることに気がついた人々が大勢現れ始めたのです。
すべての現象が相互に関係して、成立していることを現代科学は明らかにしつつあります。
この宇宙の誕生は0.00000000001秒にも満たない時間で突然起きました。
表面的には何も変化がないように見えても、水面下で意識の進化に加速がついていて、予期せぬ変化が突然に起きるのが、量子的飛躍(クォンタム・リープ)です。
私たちは、すべての宗教と科学の全体を見下ろす、統合的視点を持つ段階にきています。
現代は、人類史における文明の根本的な変化の特異点にいるのです。
環境の変化に対応出来ない硬直した社会は、いずれ機能不全を起こして崩壊します。
現在の文明はその限界に達しており、崩壊する運命にあります。
根本的な変容を迫られているのは明らかです。
私たちは、統合的段階に目覚めるターニングポイントに来ています。