漠々たる海原にて、漂白されたる自己へ出逢いたし。
このブログには、仕事ではない…、要するに依頼された書かなくては
ならないことではなく、私自身の言葉を書く場所が欲しいなーと
思って始めました。
そして、右腕が痛んで職業病になるほどいろんなものを書いて書き倒して
脳みそも考えるべきことに容量を使われて、最近はプスプスと
音をたててショートしそうな勢いのなか、
シャワーでなく熱い湯船に入れたときとか、
秋の陽光を頬に感じられた瞬間にとか、
ふっと、書きたいと思うことがよぎったりします。
そしてそれを「きっと書こう」と心で誓うも、
ループのような忙殺のさなかに入り込んでしまうと
途端にそれは、むなしい誓いとなっていきます。
「私という人間は、こういうことを考えています」と明示しないと
まるで自分が何者なのか忘れてしまいそうで恐怖を感じます。
あまりにもクリティックにうまく立ち回れるようになってしまったから
本当の自分を自分で消しているようでこわくなるのです。
けれど一方で、
こういう考えが自我の主張のように感じられて、それもきつい。
だって、自分自身が認められたいという顕れのようで気持ち悪いのです。
できるなら、さらさらさらと流していける人になりたい。
澱やよどみがたまらずに、右から左へと流していけるのが
本当なんじゃないかと思うようになりました。
だって樹も花も天地も、ただ「在る」ということに揺るぎがない。
その、「ただ、在る」ということほど目指すべきものはない
気高いことに思えるのです。
感情を滅せよ、とかそういう話でもないし
無個性がいいというのでもなくて
澱をためずに流していくことで自分を清浄なまま、
自然に近いかたちに保っていたい。
そう思うのです。
だから本当は、つかの間去来していく「書きたいな」と思ったことどもが
私のなかに留まらず片りんすら残さず消えていくのは
願ったりかなったりなのかもしれないのに
それを惜しむ私の自我が、私を苦しくさせるのでした。