Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

ものの光の見ゆる・五眼で見た世界

2024.10.07 05:13

Facebook山地 弘純さん投稿記事  【新年法話3 五眼で見た世界(再投稿)】 

 我々がこの世界で生きていくうえでもっておくといい五つの視点があるといいます。

 つまりこの五つの視点である『五眼』を備えて世界を観ることができれば、この世界の捉え方が変わるというのです。

 五眼とは、次の五つです。

一、仏眼・・・法界体性智

二、法眼・・・大円鏡智

三、慧眼・・・平等性智

四、天眼・・・妙観察智

五、肉眼・・・成所作智

◎ 一つ目の眼(仏眼)で見通すのは、「この大いなる宇宙は一つの生命体である」ということです。

 これを『法界体性智』といいます。

 真言宗では「大日如来」と言っていますが、「絶対神」と言っても、「ワンネス」と言っても、「サムシンググレート」と言っても、遠藤周作さんのように「たまねぎ」と言っても、なんでもありかなと思います。

 そのパーフェクトな宇宙の計画性のもとに我々は生かされています。

 我々に起こることは全体の中で起こるべくして起こっていることを想いますと、「すべてはうまくいっている。なるようになるさ。」という気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。

 なるようになった。なんとかなった。そんな体験の繰り返しが、宇宙への信頼を強化していくことを、自分自身確信しています。

◎ 二つ目の眼(法眼)で見通すものは、「この宇宙の中のすべてのものたちは宝珠であり、互いが互いを写し合う鏡になっているのですが、その大円鏡の外から世界を観るようにすると、他者を通じて本当の自分というものを知ることができる」ということです。

 これを『大円鏡智(だいえんきょうち)』といいます。

 「他者は自分を写す鏡」という言葉もメジャーになってきました。

 例えば相手に対する怒りが湧いてきたときに気づくことができるのが、「〇〇するのが当たり前だ」という自分の信念への執着です。

 その執着を流していくことで、その下に隠れている自分の本当の気持ち、過去の自分の何を重ねていたのかを見つけ出してやると、次に味わえる感情や行動パターンが変わっていきます。

 自分の中にあるものを他人は写してくれるのです。

 鏡の中の世界では反射しあって自分に気付けず、相手を悪者にするだけになりかねませんので、自分と他人を鏡の外で眺める観照者の眼を養うことが必要です。

「鏡の法則」という現象の関係性を観る、まさに「マジックミラーの眼」といえる眼です。

 鏡の外から見ることができれば、あらゆる出来事が本当のあなたに還る道へと統合(円)されていることがわかるでしょう。

◎ 三つ目の眼(慧眼)で見通すものは、「全ての存在は平等である」ということです。

 これを『平等性智(びょうどうしょうち)』といいます。

 「我心、仏心、衆生心は三心平等である」という言葉を弘法大師も残されているように、私たちの心は神や仏とさえ同等のものなのです。

 神や仏を自分は下から崇めたてまつるというのではなく、もし神仏を崇めるならば自分も同じように崇めることが大切だと思います。

 自分の心はイカしてるけど、あいつの心はイケてない。あのお方は素晴らしいけれど、私はカス。などという上下格差などなく、平等性な心をもっているということです。

 しかし自分は下で相手は上であるとか、自分が上で相手は下であるとかいう態度でコミュニケーションを取る人がほとんどかと思われます。

 上下はありません。

見上げることも見下すこともなく、自分も神仏も他の人も同じように扱いたいものです。

 「扱う」なんて言葉、神仏に失礼じゃない!と思う方は、「奉る」に変換していただいて、どうぞ自分も他の人をも奉っていただければ平等でいいのではないでしょうか。

 私たちは大宇宙の仏「大日如来」とまったく同じものを兼ね備えています。

 例えるならば仏はキラキラと輝く金剛石(ダイヤモンド)で、私たちは金剛石の原石であると表現されます。

 等価だとわかっていただけますか?

 年上の方でも、有名な方でも、へりくだらずに、かといってないがしろにすることなく、敬意をもって対等に接することが大切で、もちろん年下に対しても然りです。

 まさに「差取りの眼」といえる眼です。

◎ 四つ目の眼(天眼)で見通すものは、「全ての存在はみんな違う」ということです。

 これを『妙観察智(みょうかんざっち)』といいます。

 人は平等性ですが、表象として現れる全ての存在は同じ形ではありません。

 見た目もそうですが、発揮する特性も、考え方も価値観も違います。

 同じということにのみ目がいってしまいますと、自分が思っていることは他人も思っているに違いないという錯覚も起こしてしまいやすいのだそうです。

 自分と他人の心処(心の宇宙)はそれぞれ違うということを、大切にしたいものです。

 自他の心の境界線を守り、しっかりとお互いに認め合いましょう。

 三つ目と四つ目の眼を併せ持った時の表現が、金子みすゞさんの「みんなちがって みんないい」世界ですね。

 比較、区別の眼は悪いものではありません。

 そこに上下が付いてくるから関係性に歪みが生じますので、「対等であるという眼」をしっかりと並べた上で「比べる眼」を使えばいいのだと思います。

◎ 五つ目の眼(肉眼)で見通すものは、「全ての存在が誰一人余すことなく絶妙に繋がっていて、お互いが助け合い、支え合い、凹凸がぴったりとはまりあって世界は構成されている」ということです。

 これを『成所作智(じょうそさち)』といいます。

 教える人も教えられる人があってこそ役に立てます。つまり教えられている方も教える人の役にたっているのです。

 介護される存在になってしまったとしても、それを介護したいと願う人のお役にたっています。

 「私がいなくなったとしても世界は変わらない」と思ったことは誰でもあるのかもしれませんね。

 おそらくきっといなくなったらいなくなったでそこにまた誰かがぴったりとはまり、変わらず世界は回っていくのでしょう。

 でも今ここにいるということは、そこで影響される人が必ずいるということです。

 「存在するだけで役にたっている」ということをしっかりと観じながら、自分のやりたいこと、好きなこと、得意なことを表現するというだけでいいのでしょうね。

 自分がやりたくないことはやりたいって人にうまく頼りながら、自分にできないことはできる人にうまく任せながら、自分のやりたいことをしていくこと。

 それでこそ、ぴったりとパズルのピースががはまっていくかの如く繋がっていく世界を実感できることでしょう。

◎ 最後に

 意識とは意(個別に備わる第六感)が識(心の本源)に繋がるものであり、本来清浄なるあなたに還るものだと言います。

 五つの眼が、それを繋げてくれることでしょう。

 大いなるいのちとしてすべての存在が見えない根っこで一つに繋がっていて、そこから伸びた一人一人の茎があって、一つたりとも同じもののない個性あふれる蓮の花を咲かせます。

 すべては上も下もなく平等な価値なのだけれども、姿形も心も同じものは一つとしてなくて、それぞれが凹凸があるからこそぴったりと相互供養の働きが作用し合い、完璧なる宇宙の循環を構成している、そんな世界。

それが「曼荼羅(まんだら)」の世界です。