啄む嘴 ついばむくちばし
【概要】
人間は誰しも多様な人格を内包している。誠実と無慈悲も、残酷と軽快も共存するばかりか、多種多様な悪魔と天使が一人の人間のなかで所構わず成長する。そして現代社会は、増殖した多重人格性を無自覚に量産し改変していくことで発展を続けている。その結果私たちは「個」のバリアで武装し、「他」を跳ね除け、何も言えなくさせる術を身につけ始めたのだろう。モチーフとなった南米の熱帯雨林に生息する大型の鳥類《オオハシ》は、そんな排他的な現代における人間性の暗喩である。
何かから逃げ続ける主人公・中島は吉見茉莉奈(『ナナメのろうか』2022 深田隆之監督、『宮田バスターズ(株)‐大長編‐』2021 坂田敦哉監督)、工場作業員の矢崎は間瀬永実子(『全裸監督2』2021 Netflix など)、謎の男は豊田記央。
恐怖に放置し、共有を拒否するアンチ日本映画的手法で作られた本作は、初長編劇映画である荒唐無稽な青春ドラマ『ドブ川番外地』(注目すべき日本映画3選)、東京藝大卒業制作でもあるハードボイルドなブロマンス長編二作目『獰猛』(藤井道人や矢崎仁司といった映画人も評価)の渡邉安悟が監督。男を映してきた渡邉が初めて女を使って挑む現代人の内面世界を映す中編最新作。稀代の映像作家・日本映画の若き救世主による『リング』『呪怨』『回路』に連なる新たなJホラーが誕生する!
【あらすじ】
絶対にダメです。あれに見つかるのだけは何があっても…絶対にダメです。
中島栞は謎の男から逃げている。逃げた先は物流倉庫。そこで勤務していた矢崎舞衣に助けられ、2人は共に行動することに。忍び寄る男の影に苛まれながら中島は母親殺しについて語りだす。車や階段、スマートフォンやブラウン管テレビなど無機質な対象が迫りくる。隠していたものが炙り出され、数珠繋ぎのがんじがらめ。逃げ出したい、けど逃げられない逃げたくない。がんじがらめがなくなったら私は私を失ってしまうから。
【応援コメント】
筒井武文(映画監督) 渡邉安悟の新作『啄む嘴」は、純度の高い不穏さで、見る者を圧倒する。裸足で逃走する女、部屋の鍵を紛失したらしい会社員の女、この二人が出会い、会社の車で長い夜を過ごす。特に物語が掴めないまま推移する最初の15分間たるや、見たことのない映画に触れたという驚きを呼ぶ。この夜は明けるのか。
諏訪敦彦(映画監督) いつ明けるともしれない夜の中で、トラウマは時を撹乱し、執拗に現在に襲いかかる。女たちに通じ合う言葉はなく、どこから来てどこにゆくのかもわからない。「啄む嘴」は、その氷のように透明な孤独と絶望を理解せよとは言わない。徹底した宴黙さによって言葉を眠らせ、ただそれを抱きしめよと迫るのである。
黒沢清(映画監督) ちょっとやさぐれた女が、ちょっと思い込みの激しい女と出会い、車に乗せて走り出す。問題はそこからだ。街で何か特殊な犯罪が起こっているのか、それとも気ままな逃避行が続くのか、ひょっとするとこれはもっと大掛かりな陰謀の一端なのか・・・。我々は長い地獄巡りに付き合うことになる。
森直人(映画評論家) 不機嫌な「夜」の映画の最鋭兵器。我々の現実の隣にぽっかりあいた魔という意味で、正しくルイス・キャロル的と言うべきか。安易さに一切傾かず、フィクションの時間を体感させる渡邉安悟監督の設計思想に舌を巻いた。
アダム・トレル(映画プロデューサー、Third Windows Films 代表) これは渡邉安悟の変な映画だ。デビュー長編『ドブ川番外地』で応援したくなった監督の作品だからね、もちろん応援するよ。
洋介犬(ホラー・風刺漫画家) いい意味で不安定さと足元のゆらぎを感じる作品で、今まで味わったことのない「酔い」を感じました。この不安定さは現代エンタメにおいて稀有なものかと思います。
入江崇史(作優) 人はふとしたきっかけで、自分の中の、もう1人の知らない自分に出会ってしまう事がある。渡邉安悟監督は、得体の知れない何者かに追われ続けるという緊迫したシチュエーションの中で、人間の持つ二つの顔を並べて見せた。実はそこが一番怖い。一見物静かで温和な渡邉監督の「啄」は、極度の緊張の中で鋭く妖しく光る。
柳下雄太(ライター Courrier International) トラウマという地獄と「おとぎばなし」の間のなにかを彷徨う女二人。逃避行は当てもなく続くが、最後のシーンで女は生まれ変われたのか。あるいは・・・
梅村和史(映画監督『静謐と夕暮』) 女が過去を語る程、過去は遠退く。逃げる先に、女は果たして「自分」という真実に出会えるのだろうか。車、電車、女……画面を横切る全てのものにカットと時間が分断され、逃げ続ける女の存在が裏切られていく。
河野宏紀(映画監督・俳優) 観る者への干渉を避けることで、想像の矮小化を避ける。いつの間にか事態はただならぬ方向へ進んでいた。稀有な映像表現で魅了する渡邉監督の眼差しは、世の中に警告を突きつけているよう。
矢崎仁司(映画監督) 「この世界には不可解なことがあるということを表現するのが芸術家の仕事だ」と誰かが言っていた。獰猛な渡邉安悟監督のは、共通言語でしか語られない今の映画に突き刺さる。
阪本順治(映画監督) 怖い。風景も音も怖い。人物の心を、読み取ろうとしても、たどり着けない。ひとが、不意に現れ、不意に消える。それが怖い。聞合いも怖い。帰れない、還れない、そんなひとびとの物語。観た私も、いまだ、日常に還れない。どうしてくれよう、渡邉監督!
廣賢一郎(映画監督) 現代社会のパノプティコン的不気味さと、連帯を求めながらも孤立していく個人をメタ的に風刺しながら、映画的リリシズムを見事に両立させている。小さく閉塞的なものから、何か大きなものを描き出そうとする気概さえ感じる。渡邉安悟の眼差しは、どこかシニカルでありながら、それでいて誰よりも誠実なのだと思う。
鈴木冴(映画監督) 逃げているのか、向かっているのか。幻想と隣り合わせの世界。差し出された救いの手だけがしっかりと彼女らの存在を証明している。静かに狂気を孕んでいく物語の中で、低く唸るように話す女性の声が妙に心地良く安心した。
松崎健夫(映画評論家) <夜>であることは、この映画にとって重要なのである。例えば、夜間が視界不良であることを逆手に取り、「見えない」ことと、あえて「見せない」こととを、レンズを通して、政いは、ライティングを駆使しながら同時に実践してみせているからだ。この「見えない」ことと「見せない」こととは、観客に対する視点誘導をも導いている。一方で、被写体を構図の中心にとらえていることも窺わせる。その構図は、スティーヴン・スピルバーグが監督した映画のようでもあり、彼の撮影を担っているヤヌス・カミンスキーが好む陰影を強調した映像にも似ている。だからこそ<夜>であるとも言えるのだ。また、追っ手から逃げる女が、靴のない“裸足”であることは、「シンデレラ」の変容に思わせる所以でもある。そもそも「シンデレラ」は、<夜>を中心にした物語ではなかったか。