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今日の日記(11月7日)

2018.11.07 00:38

人間は本来すべてにおいて自由であるが、現在の私は未熟であるために、自分に課している制約がある。自身の戒めのために記しておく。


一つ、超越論的認識に頼らないこと

生きているとごく稀に、既存の言葉では表現できない感覚が訪れることがある。

だが、生きている人間はその絶対的な視座からも自由であるべきである。ならば、それを拠り所にすべきではない。


一つ、中道を歩く

人と違う生活をして何かを悟ったり、特殊な経験を原体験とするのは簡単だが、そこに普通性は宿らない。日常の平凡な歩みの積み重ねの中に、人としての道理を見ること。


一つ、真心から行うことで対価を得ない

当たり前だが一応書いておく。読んで字のこどく、真心とは真の心であり、真心とはその人自身といって良い。

真心に対し、交換可能な対価はつけられない。また誰の真心も、交換不可能な絶対的な価値がある。真心を対価で返すのは交換可能であると、相手を侮辱したことになる。真心には真心で返すこと。


一つ、広告には謙虚さを持つこと

これは難しい問題である。言葉や記号には自己表現が含まれる。それが広告となってしまうこともある。

広告というのは不足があるために行われる。未熟であることの表明である。広告するなら、何よりも謙虚さが必要である。

本当に価値あるものは広告なしに必要な人に渡る。


一つ、感謝や祈りは心に留めておかず表現すること


俗物的な実験をしたところ、心の中で祈ることより、言葉で表現した祈りのほうが叶いやすいと分かった。

また、陰口などを言われた場合、直接言われるよりも、又聞きで聞く方がダメージが大きい。それと同じように、誰かが感謝していたと人づてで聞くと、感謝はより大きくなる。そうやって表現しておくと、あとで得したり、徳があがることもある。

宗教家の祈りが派手に見えるのも、祈りがより世界に響くようにするためである。