京都ALS患者嘱託殺人事件:裁判をめぐって①
あの事件の報道があった日。私は、怖くてベッドの上で毛布をかぶり、この先2週間は一切のニュースを見せないでほしいと泣きながら家族に訴えました。ALS患者である私は「社会」に自分が殺されると思い、震えました。日本も安楽死をさっさと認めろとか、最悪な病気なのだから死なせてあげた方がいいとか、自分があんな風になったら殺してほしいというような、私の存在を否定し、死なせようとする声、声、声。私は、自分が包摂されていると信じてきたこの「社会」が、実は、平然と私を死なせようとする「社会」なのだと知りました。残念ながら数年が経った今も、その衝撃と恐怖は濃く大きくなりこそすれ、消えてゆく事はありません。
私たち当事者のリアルに触れたことのない人たちによる、ときにまるでそれが患者への思いやりか優しさであるかのような言い振りの発言、それに触れることで生きることを諦めてしまうかもしれない当事者たちの存在を全く想像しない、悪質で差別的な主張の類は、後を絶たない障害者への虐待事件や猛威を振るう自己責任論、社会の分断を煽ることで様々に利益を得ている人たちの存在に勢いを得て、この数年でますます幅をきかせているように感じます。
私たちが立つこの社会の地平は、大きく傾き歪んでいるように感じます。それは、生産性だとか、誰かや社会の負担だとか、一見もっともらしい理由をひっさげて「そう考えたい人たち」にとっての水平となり、いつの間にか私たちの社会の当たり前となって、私のような患者当事者が抗し難い、分厚い岩盤となってゆくのだと思います。
私は、この社会の地平が傾き歪んでいることに対して、それは間違っていると、自分の言葉で強く抗議したいと思います。自らの境遇から絶対に逃れることのできないALS患者当事者として、どこまでも徹底的に、抗おうと決めています。それは、紛争や貧苦や飢えや差別や、あらゆる恐怖や痛みやかなしみの中にある人たちとの連帯の表明でもあります。
その人がその人のままに、どこまでもどこまでも、幸せを追い求めて「生きてゆける」世の中の実現のために。私は諦めません。