覇者の啓蟄 5.奥州平定
源頼朝という人は情報の重要性に関係なく情報そのものを定期的に収集し、同時に発信してきていた人である。それはこのときの奥州遠征でも例外ではない。二階堂行政に書き記させた書状を京都に向けて送り出したのが九月八日、一方、翌九月九日に朝廷からの正式な宣旨が陣ヶ丘に届いている。藤原泰衡追討を命じる宣旨であり、発給日は七月一九日、すなわち、鎌倉方の軍勢出発の日になっている。つまり、鎌倉方の軍勢が鎌倉を出発して東北地方に進軍して藤原泰衡を処罰したことは朝廷の命令に基づいての行動であり、後三年の役のときの源義家のように私戦と判断されることはないという朝廷のお墨付きが得られたこととなる。
さすがに京都に向けて送り出した翌日に宣旨が届いたなどというのは時間軸が怪しく思えるが、京都と前線との定時連絡を欠かさなかった結果であり、翌日というのは偶然、あるいは、源頼朝の演出であろう。
それにしても、いかに交通事情が現在と比べものにならないほど貧弱なこの時代であろうと、さすがに七月一九日に発給された宣旨が九月九日になってようやく到着するというのは時間が掛かりすぎるが、その回答は既に出ている。発給日のほうを改竄したのだ。一条能保を経由して吉田経房が主導して宣旨を発給したときに、鎌倉方の出発日である七月一九日を発給日とするように改竄したのだ。鎌倉方の出発の連絡が京都に届いたのは七月二四日、同日中に宣旨発給の審議がはじまり、七月二六日に宣旨を発給して七月二八日に京都を出発したというのが実際のところだ。鎌倉からの連絡を受けて後追いで宣旨を発給するときに、発給日を改竄することで源頼朝の行動が国法違反とならないようにすることで、朝廷のほうでも後三年の役の後で起こった源義家私戦問題を呼び起こすことが回避できた。妥協と言われればそれまでであるが、このときの朝廷は、既に始まってしまった戦争、しかも、鎌倉方の勝利の可能性が高い戦争については、事後承諾とするしかなかったのである。
源頼朝という人の政治家としての能力の高さは、情報のやりとりだけに発揮されるのではない。部下の統率という点においても発揮される。むしろそのほうが政治家としての能力の発揮であるとも言える。
それが起こったのは文治五(一一八九)年九月九日というから、朝廷からの正式な宣旨が届いたのと同じ日、ただし、時間軸は逆転するが、その出来事が起こったのは朝廷からの正式な宣旨の届く少し前である。
陣ケ岡の陣に留まっている源頼朝のもとに、近隣の寺院である高水寺から苦情が寄せられた。鎌倉方の御家人を名乗る武士がやってきて寺院の建物の中に乱入し、本堂の壁板を合計一三枚剥ぎ取っていったというのだ。
高水寺からの訴えを受けて源頼朝は梶原景時に調査を依頼し、その結果、宇佐見実政の下男達の犯行であることが判明した。
梶原景時は犯人達を高水寺に連行し、犯人達の両手を切断して釘で手を板に打ち付けた。一見すると、この判決はあまりにも残酷で重すぎる刑罰であるかと感じる。たかが壁板を剥ぎ取っていっただけであり、仏像を破壊したわけでも、ましてや誰かを殺害したわけでもないではないかというのがそのときの論拠だ。だが、それは減刑のための言い訳にもならない。押し込み強盗を働いて略奪したことそのものが問題であり、被害の規模は問題ではないのだ。
さらに源頼朝は比企朝宗を岩手郡へ派遣した。この地には歴代の奥州藤原氏の当主達が建立させた寺院があることから、藤原泰衡の死去と奥州藤原氏の壊滅によって寺院存続の危機ではないかという懸念が渦巻いていたからである。その懸念を払拭するために、源頼朝は比企朝宗を派遣したのであるが、その理由が驚愕だ。各寺院にどれだけの建物がありどれだけの僧侶がいるかを報告させた上で、寺院の規模に応じた田畑を与えるとしたのだ。これまでは奥州藤原氏からの支援で成り立たせていた寺院の経営がこれからは自助努力で経営しなければならなくなるが、そこで得られる資産はこれまでの奥州藤原氏からの支援をはるかに超える資産だ。しかも、鎌倉方の武士が寺院に手出しする心配は無くなった。当然だ。壁板を剥がしただけで両手切断という先例ができたというのに、誰が寺院に手を出そうと考えるのか。
源頼朝の狡猾なところはこういうところだ。
このときの軍事侵攻は誰がどう見ても侵略である。それも、最初は源義経を理由とし、源義経が殺害されたら今度は藤原泰衡をターゲットに絞り込む。第三者からすれば源頼朝の主張や行動に正統性はない。しかし、源頼朝は歴史を振り返り、そして、現地の情勢を把握した上で軍事行動を展開したのである。
どんな国でも侵略を受け入れることはしない。侵略されても降伏すればいいじゃないかという主張をする人もいるが、侵略されたときに待っているのは、通常であれば略奪、殺戮、拉致、そして奴隷生活である。侵略者が支配者として君臨し、侵略された土地に住んでいた人は、解放という名目で奴隷生活を余儀なくなれ、財産という財産を全て奪われ、住んでいた土地から追い出され、抵抗すれば殺される。それが侵略というものであり、侵略された地域に住む人達が侵略者に対して抵抗するのは、崇高な理念のためというよりも生きていくためである。このときの東北地方も鎌倉方の軍勢の侵略を受けて敗者となる未来が待っていてもおかしくなかった。
ところが、源頼朝はそれを選んでいない。さらに言えば奥州藤原氏を皆殺しにしたわけでもない。それどころか、奥州藤原氏の統治機構を残しつつ、奥州藤原氏以前の東北地方を取り戻す、比喩的な意味でない方の解放者として東北地方に軍勢を展開したのである。地域の寺院勢力に広大な資産をもたらす田畑を与えたのはその一例であるし、解放者であることを忘れた武士、すなわち、寺院に押し込んで強盗を働いた武士を見せしめとして両手切断までさせた。また九月一一日には奥州藤原氏が平泉の寺院に与えていた権利を剥奪することなく守るとした宣言を布告し、戦乱で田畑が荒れてしまっていた場合でも勝手に開墾してはならず土地の所有権は戦乱以前の持ち主に存在することを明言した。
その上で、鎌倉方の軍勢は比爪を出発して北へと向かった。藤原泰衡は死を迎え、奥州藤原氏の関係者の多くが鎌倉方に降伏したが、まだ鎌倉方に抵抗を見せている者もいる。また、奥州藤原氏の本拠地である平泉を制圧したし、奥六郡の中心部にある比爪も制圧したが、東北地方全体を見渡せば平泉も比爪もまだまだ中央寄りであり、現在の地図で言うと、岩手県北部と秋田県北部、そして、青森県全域がまだ制圧とはなっていない。奥州藤原氏という存在は、良かれ悪しかれ東北地方を統治してきた存在である。その上、以前から住んでいた人達にとって奥州藤原氏はつい最近、つい最近と言っても一〇〇年以上前であるが、近年になって東北地方に新しくやってきた異質な存在であり、その奥州藤原氏がある日突然いなくなってことで奥州藤原氏登場以前の東北に戻る可能性もあった。ここで鎌倉方が手を打たなければ、奥州藤原氏登場以前の混迷の土地に戻ってしまう可能性もあったのだ。
ただし、あまりにも奥地に軍を進めるわけにはいかない。大軍になってしまっているために兵站の問題がある。解放者として東北地方にやってきたのに現地調達、正確な言い方をすれば現地での略奪で食糧を手に入れようとしたら、待っているのはこの戦いそのものの白紙化、そして、鎌倉方の軍勢全体の壊滅だ。どんなに損害が出ても鎌倉に帰ることだけを考え、源頼朝だけでもなんとか鎌倉に戻ることができたとしても、待っているのはロシア遠征に失敗した後のナポレオンと同じ結末である。行軍すべきは当初のゴールである厨川までとし、厨川に到着した後で地域の有力者と連絡を取り、その回答を経て鎌倉へと戻ることとした。
文治五(一一八九)年九月一二日、鎌倉方の軍勢は岩手郡厨川に到着した。厨川は比爪から一日で移動できる土地であり、また、平泉を出発した後の最終目的地だ。古来より地域の有力豪族である安倍氏が拠点とした居城である厨川柵が存在し、前九年の役の後は清原氏、そして奥州藤原氏へと居城の所有者が変更になっている。もっとも、実際には奥州藤原氏が直接統治するのではなく、奥州藤原氏の一氏族が統治していた。なお、厨川柵を統治していた奥州藤原氏の一氏族の素性は良くわかっていない。この氏族のことを現在の研究者は樋爪氏として奥州藤原氏と区別しているが、この時代までは奥州藤原氏の一部とみなされていた。
源頼朝は厨川で陣を敷くことを命じた。土地の収用性という点では比爪に負けるが、前九年の役の最終決戦場であり、源頼義はここの勝利を以て前九年の役の終結としたという歴史がある。源頼朝もその故事に倣ったのであるが、源頼朝は祖先が達成しなかった偉業を達成している。なお、偉業を見せる前に源頼朝は一つの指令を下している。工藤行光の功績を評するとして岩手郡の地頭に任命したのである。工藤行光はさっそく厨川柵を岩手郡統治の拠点とするべく整備をはじめることとした。もっとも、初日にできたのは城主として源頼朝ら鎌倉方の一行を歓待する、という体裁で厨川到着を祝う祝宴を主催することであった。
厨川で一晩を過ごした翌文治五(一一八九)年九月一三日、源頼朝は厨川で一つの指令を出した。
この戦乱で損害を被った東北地方の全ての一般庶民に対し、安全の保証と損失の補填、そして、今回の戦いで捕虜となり、鎌倉方に囚われていた奥州藤原氏の関係者全員の赦免を指令した上で、彼らに今までと同じく平泉を軸とする東北地方の統治の継続を命じたのである。工藤行光を平泉ではなく厨川柵に留め置くことにしたのも平泉から少し距離を置いたところに鎌倉方の武装集団がいるものの、基本的にはこれまでと同じく奥州藤原氏の統治を継続するとアピールするためだ。
さらにその翌日の九月一四日には陸奥国と出羽国の国衙が管理している台帳に基づく土地と年貢の確認を命じた。ここではじめて藤原泰衡が平泉での統治に関する書類関係を焼却処分していたことが判明した。もっとも、それで八方塞がりに陥ったと断念するような源頼朝ではない。たしかに藤原泰衡は行政に必要な書類、特に土地行政に関する書類を焼き捨てたが、土地の権利に関する記録は平泉だけに存在するのではない。もともとの国衙の業務として陸奥国府と出羽国府にも記録は存在するし、もっと大切なこととして、土地の所有権や保有権を持つ個人が土地の権利に関する書類を持っている。平泉の書類が失われても、何の問題は無いとは言えないにせよ、取り返しの付くレベルに押しとどめることは可能であったのだ。
さらに、土地の保有権を確定させるのに協力する武士は鎌倉方の御家人として受け入れるとも発表した。鎌倉方の一員になれば、今まで自分が保有していた所領を鎌倉方が安堵するだけでなく、奥州藤原氏本家の保有していた所領を自分のものとするチャンスである。実際、九月一四日にはさっそく豊前介実俊とその弟の橘藤五実昌の兄弟が源頼朝に取り立てられることとなった。これには今まで奥州藤原氏の統治下で不遇を託(かこ)っていた武士達にとって一発逆転のチャンスとなり、鎌倉方に帰順するかどうかで逡巡していた者の多くが鎌倉方への帰順を選ぶこととした。
九月一五日には奥州藤原氏の分家で比爪を根拠地としていた藤原俊衡と弟の藤原季衡が、息子達を連れて厨川に赴き、鎌倉方に降伏した。この藤原俊衡と藤原季衡の兄弟は樋爪俊衡と樋爪季衡と記す史料もあり、実際、吾妻鏡では藤原姓ではなく樋爪の苗字を用いている。「樋爪」は比爪の異字表記であり、現在の地名に残る「日詰」もまた比爪の異字表記である。つまり、奥州藤原氏の分家のうち比爪を根拠地としていたから樋爪が苗字となり記録に残るようになったとするべきである。
さらに注目したいのが、どの史料を探してもこの兄弟、さらにその息子達が記録に登場するのがこのタイミングだということである。考えられるのは、藤原泰衡が平泉を焼き払って北へと逃れていったときに藤原泰衡と同行して北上したか、あるいは、比爪に滞在しているところで藤原泰衡と落ち合い、比爪館を焼いてから藤原泰衡と同行したかである。藤原泰衡が殺害されたのが九月三日であり、それからの一二日間、奥州藤原氏の残党をまとめていたのが彼らであり、その彼らが源頼朝のもとに降って奥州藤原氏の残党全体が鎌倉方に降伏したと言えるのである。
藤原泰衡の生年は久寿二(一一五五)年前後と推定されるから、殺害されたのも四五歳前後と推定される。正式な記録は存在しないが藤原泰衡には最低でも二人の男児がいたという言い伝えがあるものの、そのうちの兄とされる藤原時衡は父とともに贄柵で殺害されたとされ、弟とされる藤原秀安は元服を迎えたか否かギリギリの年齢であったとされている。そして、藤原秀安は樋爪俊衡のもとに匿われていたとするのが伝承だ。
つまり、奥州藤原氏の残党のうちリーダーシップを執ることができる集団が揃って源頼朝のもとに降り、伝承を含めて考えればリーダーとして担ぎ出せる人物も一緒に源頼朝のもとに降ったことになる。これで奥州藤原氏の残党のうち未だ鎌倉方に降っていない人物は、奥州藤原氏の後継者の正統性を主張することができない小規模な反抗勢力とならざるをえなくなった。
それに輪を掛けたのが、翌九月一六日に出した源頼朝からの指令である。比爪の統治権は今まで通り樋爪俊衡のもとにあり、少し離れた厨川に工藤行光がいるものの鎌倉方は東北地方の統治に直接は関与しない。ただ、これまでの奥州藤原氏一〇〇年のように朝廷から距離を置いた独自の地域となるのではなく、東北地方も他の地方と同様に朝廷と、朝廷の一部を形成する鎌倉方の統治下になることを告げたのだ。
九月一七日にはこれまでと変わらないことを宣言する布告が平泉に対しても下された。平泉にある中尊寺や毛越寺といった寺院が持っていた所領について現状のままとする布告である。岩手郡の寺院に対しては既に九月九日に同様の措置が出ているので、その適用範囲が延長されたということになる。
そして九月一八日、奥州藤原氏の血筋を引く最後の有力者である藤原高衡が源頼朝に降伏したことで、鎌倉方の奥州遠征は終わりを迎えた。藤原高衡は源義経の首を鎌倉まで運んできた人物であり、その後の藤原高衡の動静は不明である。平泉に戻ったとも、鎌倉方とともに行動したともあるが、後者である場合でも鎌倉方の御家人の一人として行動したのではなく鎌倉方に捉えられた捕虜の一人としての扱いであったろう。そうでなければ降伏することの意味が無い。降伏したときの情景も、下河辺行平のもとに囚われの身となっていたところを源頼朝のもとに連れてこられたとなっているので、鎌倉方の御家人の一人として奥州藤原氏と戦ったとは考えづらい。
源頼朝は藤原高衡の降伏を以て奥州遠征完了を宣言し、文治五(一一八九)年九月一八日付で朝廷に対して任務完了を告げる書状を送ることにした。
奥州遠征完了を宣言した鎌倉方の軍勢は、文治五(一一八九)年九月一九日に厨川を出発し、全軍で鎌倉へ向かって凱旋しはじめた。
途中、平泉で論功行賞を行い、この遠征での最大の功労者として葛西清重を東北地方における鎌倉方の代表者である平泉郡内検非違所長官に任命した。これまでと同様に平泉を中心として東北地方を統治するが、平泉にいるのは奥州藤原氏ではなく鎌倉から派遣された人物であり、奥六郡の中心地である比爪の統治もこれまでとするが、比爪と目と鼻の先にある厨川には工藤行光がいる。つまり、奥州藤原氏は滅ぼしたが奥州藤原氏の作り上げた統治システムはそのまま残して鎌倉方が利用することとしたのだ。
奥州藤原氏にしてみれば、言いがかりを付けられ続けた後、言いがかりから戦争を回避しようとしても回避できず、ついには滅び去ってしまったのであるから、源頼朝に対しては憎しみ以外の何の感情も抱けないであろう。しかも、奥州藤原氏の中心を担っていた人達は、ことごとく死を迎えたか、あるいは鎌倉方に捕らわれている。こうなると、奥州藤原氏の面々だけでなく、奥州藤原氏のもとに仕えていたことで東北地方において恵まれた暮らしをしていた人達は、それまでの一〇〇年間に亘って当たり前とされていた権勢を僅か二ヶ月で失い、いきなり路頭に迷うことになってしまったのだ。しかも、奥州藤原氏の復活を求められなくなっている状況で。
さらに問題であったのが、滅ぼされたのは奥州藤原氏だけであり、その他は破壊されていないということである。地域に住む人にとっては統治者が変わったことを認めたとしても他国に侵略されたわけではなく、さらにいえば、ここ一〇〇年ほどの例外期間が終わり、それ以前の東北地方に戻ったと言えばそれまでなのである。無論、奥州藤原氏以前は歴史として知っているだけであって実体験した話ではない。しかし、東北地方が他の地域と違うことは認識していたし、奥州藤原氏が圧倒的存在として君臨していて、そのおかげで豊かで平和な暮らしをしているのは感謝しているが、極論すれば、自分達の自由を認め、誇りを認め、暮らしを保証するのであれば、奥州藤原氏である必要はない。歴史上何度も繰り返されてきた侵略と同列に並べるよりも、現在で言うと県知事が選挙で替わったと同じぐらいのインパクトでしかなかったのである。
先にナポレオンのロシア遠征と比較して記したが、レフ・トルストイが全四巻に亘る「戦争と平和」のうち第四巻をまるまるナポレオンの敗走に宛てたのと大きく異なり、源頼朝の鎌倉帰還は何も起こっていない。侵略を受けたはずの東北地方の住人が抵抗運動を見せるでなく、行軍というより軍事訓練、あるいは行列を組んでの徒歩旅行と評すことができるほどに安穏としたものとなったのである。途中で安倍時頼の遺跡を訪問し、坂上田村麻呂が陣を築いた岩屋を訪問しているのに至っては、行軍ですらなく観光とすら言える。
また、囚われの身となっている奥州藤原氏の面々のうち、佐藤庄司、名取郡司、熊野別当の三名を自由の身とし、鎌倉方の配下でそれぞれの所領の統治を認めることとした。なお、佐藤庄司、名取郡司、熊野別当は氏名ではなく役職名である。それぞれ、佐藤庄司は現在の福島県福島市の福島駅のあたりの荘園の統治者、名取郡司は現在の宮城県名取市の一帯あたりの地域の郡司、熊野別当は宮城県名取市にある現在の熊野神社、当時の名称でいう熊野新宮社のトップを意味する役職名である。それまで奥州藤原氏の元で権力を得ていた人達のうち、朝廷の統治システムに基づく権力を得ている人について、奥州藤原氏無しで今までと同じ権力があることを保証したのだ。それまでは朝廷と一歩離れたところにある権力であったのが朝廷直属となり、今までと変わらぬ権力と今までと変わらぬ暮らしがあることを示したのである。
奥州藤原氏が苦境にあることの知らせが京都に届き、間もなく奥州藤原氏が滅びそうであることは朝廷でも把握できていた。厳密に言えば、源頼朝からもたらされた書状によって、権大納言吉田経房経由で朝廷内に伝わっていた。源頼朝からの書状は、本人直筆であろうと、鎌倉方の文人の記した書状であろうと、嘘偽りない書状であることはこの頃の朝廷では常識となっていたし、断片的であるにせよ源頼朝以外からもたらされる東北地方の情報についても源頼朝の伝える内容と一致していた。
既に起こってしまっている戦争について朝廷は無力であり、そして無関心であった。関心は後鳥羽天皇の元服に向かっており、いつ、どのように元服を迎えるかに専念していたのである。
先例重視の時代であることに加え、摂政九条兼実自身が古き良き時代への回帰を掲げて政権運営をしている人である。徹底的に先例を調べ上げ、後鳥羽天皇の元服はこれ以上文句の出ようのない式典とする意気込みであったし、その先例として鳥羽天皇と高倉天皇の例を挙げたことで難癖の付ける余地を可能な限り消すことに成功した。
ただし、やはり問題はあった。それも二点。
一点目は、三種の神器を含む御調度が無いこと。三種の神器の無い即位というだけでも先例を探すことのできない帝位であることを宿命づけられた後鳥羽天皇が、ここに来てさらに先例のない事態に直面することとなったのである。平家都落ちのときに三種の神器が持ち去られ、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を取り戻すことはできても天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)については壇ノ浦に沈んだままであることは既に著名な事実となっているが、実は、失われた皇室資産は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)だけではない。平家は安徳天皇を奉じて都落ちしたが、そのときに、天皇の政務に使用する品々も、天皇の儀式に使用する品々も持ち去っていたのである。そして、これらの儀式は元服も含まれる。さらにここに、木曾義仲の上洛時の略奪が加わる。元服の御調度を調べてみたら、めぼしいものは持ち去られ、持ち去られなかったものも破損が激しく、あるのは乱暴狼藉の痕跡だけであったというのが九条兼実の日記による記載だ。結局、修理できるものは修理し、そうでないものは後白河院に頼み込むこととなった。
二点目は、前例で一律に決まるものではない点である。特に、元服時に読み上げる賀表を誰が書き記すかで議論が紛糾した。賀表とは国家の慶事において臣下が祝いの気持ちを述べて天皇に奉る文であり、賀表の起草者に選ばれることはこの時代の最高の文筆家と評価されると同じであった。もっとも、先例を探すと、多くの場合は朝廷の人事を司る式部省の次官である式部大輔(しきぶのすけ)が起草して奉ることで当代最高の文筆家の称号を巡る争いを防いでいた。式部省は日常の業務で朝廷の名の下に記す正式な文章を書き記すのが仕事であり、トップである式部卿は親王の就く名誉職であるため、組織図上は次官である大輔が事実上のトップになっている。賀表の起草者として式部大輔が選ばれたとしても、それに異議を唱える人は普通であればいない。だが、このときは土御門通親こと権中納言源通親が、式部大輔ではなく公卿が賀表を書き記すことを強く主張した。土御門通親は公卿が書き記すことを主張したのであって具体的に誰が書き記すのかについては強く主張してはいない。しかし、誰の目にも明らかであった。賀表を書き記すべき人物として土御門通親が思い描いているのは土御門通親自身である。
土御門通親は従二位権中納言であり、九条兼実は従一位摂政であるから、この両者の間には天地の差があると言っても良い。だが、この二人は激しく対立する関係に、それも、対等な立場に立って激しく対立する関係になっていた。
土御門通親こと源通親は姓を見てわかるとおり、源氏である。ただし、今や時代を手にするまでになっている清和源氏の源頼朝と違い、これまでの歴史において、源氏の中では最大規模の権勢を手にしてきた村上源氏であり、しかもその嫡流である。村上源氏である源通親にしてみれば、いかに戦争を勝ち抜いた人間であると言っても清和源氏の源頼朝など歯牙にもかけない存在でなければならなかった。現実がそうなっていなくても、名門村上源氏のプライドが清和源氏に敗れることなど許さないのだ。
土御門通親の人生は村上源氏復権に掛けた人生であった。そのためには利用できる要素を何でも利用した。後白河院政に早々に近寄り、平家とも接近し、治承三年の政変の後で成立した高倉院政では真っ先に高倉上皇のもとに仕えるようになり高倉院の院庁別当になった。福原遷都前後の混乱においても高倉上皇のもとに仕え、高倉上皇が亡くなった後は後白河院の側近となり、平家都落ちの後で権力の空白となった京都において、三種の神器無き状態での後鳥羽天皇の即位を実現させたことで後白河法皇の信任を得た。この評価は源頼朝のもとにも届いており、元暦二(一一八五)年一二月六日に源頼朝が後鳥羽天皇への奏上を限るとした一〇名のうちの一人に選ばれている。もっとも、土御門通親にしてみれば源頼朝に選ばれることは誇りとするよりも心外とするところであったろうが。
それでも土御門通親は、平家のいなくなった京都において自分が中心を為す一人であることは誇りとすることに感じられた。そして、九条兼実の政権の一翼を担う気概も抱いていた。だが、九条兼実は土御門通親の期待に応えることをしなかった。権中納言のままで留まり、従二位のままに留まり続ける日々を過ごさざるを得なくなってしまったのである。それでも他の面々も同様に留まり続けていたのであれば納得していたが、鬱屈した思いが底の方に溜まっていた。その鬱屈は、文治四(一一八八)年一月に九条兼実の息子の九条良経が正二位に昇叙したことで爆発した。九条兼実が息子を贔屓して昇叙させたことに抗議しただけでなく自分も正二位に上がることを要求したが、九条兼実にしてみれば土御門通親からの抗議は青天の霹靂であり、従二位に上げたことを感謝されこそすれ貶される謂われはないと反発した。
さらにここに、後鳥羽天皇の婚姻問題が関係してくる。九条兼実が自分の娘を嫁がせるつもりであることは周知の事実になっていたが、決定はしていない。土御門通親も自分の娘を嫁がせることを狙っていたのだ。普通に考えれば摂政にして藤氏長者である九条兼実を差し置いて娘を嫁がせるなど無謀な話に感じられるが、このときの土御門通親には自分の娘を嫁がせてもおかしいとは思われない環境が用意されていた。
土御門通親の婚姻生活は複雑である。正妻は藤原範子であるが、藤原範子は土御門通親と結婚したときに既に二人の子を持つ母であり、三人目の子を妊娠している途中であった。藤原範子の最初の夫であったのは平清盛の義弟にあたる僧侶の能円であり、能円が平家都落ちに同行して西国へ逃れたことをきっかけに、京都に残り続けることを選んだ藤原範子は夫と離縁。その後、藤原範子は土御門通親に言い寄られる形で結婚している。土御門通親が藤原範子に言い寄ったのは、藤原範子がたまたま尊成親王の乳母であったこと、そして、その尊成親王が後鳥羽天皇として即位したからである。しかも、藤原範子はここで女児を産んでいた。土御門通親は妻が産んだ前夫との間の女児を自分の養女として迎え入れて娘として養育した。自分の妻が産んだ女児である以上、周囲からは血のつながりなどないではないかとどんなに揶揄されようと、文句なしに自分の娘だ。それに、心情ではなく打算で考えて行動する人であっても、天皇の乳母の娘となれば天皇のもとに嫁いだとしても何ら不可解に感じない。
九条兼実にとっては予期せぬライバルの登場である。しかもそのライバルは、もう一つのアプローチを用いて後鳥羽天皇への接近を狙っていた。後白河法皇の愛妾である丹後局こと高階栄子への接近である。後白河法皇の寵愛を受けている丹後局のことを快く思わない貴族は多く、九条兼実も丹後局のことを玄宗皇帝に対する楊貴妃に準(なぞら)えて批判している。実際、当時の記録の中に描かれている丹後局は絶世の美女であるという評判に満ちており、後白河法皇は丹後局の美貌を優先させて国政をないがしろにしているという批判も生まれていたのだ。しかし、その丹後局を土御門通親は支持した。そして、そんな丹後局への寵愛を隠せない後白河法皇を支持した。後白河法皇との間に生まれた女児への内親王宣下に賛成したのみならず、ありとあらゆる前例を持ち出し、文治五(一一八九)年時点で九歳である少女への内親王宣下に対する批難を潰して回ったのである。
奥州遠征を終えて平穏無事に源頼朝らが鎌倉に戻ったのは文治五(一一八九)年一〇月二四日のこと。吾妻鏡によると、鎌倉に到着して間もなく、源頼朝は吉田経房と一条能保の両名に宛てて戦勝報告の書状を出したとある。
鎌倉では多くの人が戦勝に熱狂していたが、京都ではそうした熱狂が無かった。遠く離れた東北地方で自分達と関係のない戦いがあって、自分達が意識したことのない存在である奥州藤原氏が滅んだことは、知識としては知っていても、どこか自分事とすることができずにいた。
源頼朝が鎌倉に到着したのは一〇月二四日のことであるが、戦勝と遠征終了のニュースはとっくに京都に送り届けている。いかに京都と鎌倉との間に距離があろうと、書状を発した日付を考えればいくら何でも京都に戦勝報告が届いている。それでも京都で熱狂が生まれることは無かった。
それに、このときの京都は奥州藤原氏滅亡よりも大きなニュースが蠢いていた。
後白河法皇の寵愛を受けている丹後局高階栄子の産んだ女児を内親王とすることとなったのであるが、これが大問題となっていたのだ。内親王宣下まではいい。法皇の娘にして、年齢は近いものの後鳥羽天皇にとっては叔母にあたる女性が内親王宣下を受けることは何らおかしなことではない。ところが、単なる内親王宣下だけでなく准三后と院号宣下まで加えるというのだから大問題である。
これまで院号宣下を受けた女性は一六名いる。もっとも若い郁芳門院媞子内親王は一八歳で院号宣下を受けていたが、院号宣下の時点で既に堀河天皇の准母であり中宮冊立も経験している。皇后も中宮も皇太后も太皇太后でもない院号宣下を受けた女性としては八条院暲子内親王がおり、彼女は生涯を独身で過ごしたが、甥である二条天皇の准母を務めた経歴があることから院号宣下は何の問題も無いとされている。
翻って丹後局の娘である。まだ独身である、というより、そもそもまだ九歳だ。内親王宣下まではごく普通の皇族の女性が受ける処遇であるが、准三后や院号宣下となると異例の事態となる。准三后までなら何とか妥協できても院号宣下はさすがに妥協できない。
ここに、後白河法皇と丹後局との間に生まれた娘に対する内親王宣下までで留めようとする九条兼実と、准三后も院号宣下も求める土御門通親との対立が表面化した。
それにしても、土御門通親も、そして後白河法皇も、まだ九歳の女児を准三后とし、かつ、院号宣下まで考えたのか? 普通に考えればムチャクチャな行動であるし、後白河法皇はこれまでかなり強引なことをしてきた人であることを加味すれば、このときの判断もいつもの強引として捉えることができるが、土御門通親は一廉(ひとかど)の貴族である。内親王宣下だけでなく准三后と院号宣下が何をもたらすか知らないなどありえない。知らなかったとしても一人の人間として考えたとき、一〇歳になるかならないかという年齢で人生を固めてしまうこと決断を許容できるであろうか。院号宣下を受けた女性は八条院暲子内親王を除いて天皇の妻あるいは母であることが根拠となっての院号宣下であり、唯一の例外でもある八条院暲子内親王も二条天皇の准母を務めたことが院号宣下の理由になっている。
では、唯一の例外が唯一では無くなるとどうなるか?
丹後局の娘が甥である後鳥羽天皇の准母を務め、准母として後鳥羽天皇の元服に尽力したとあれば、それが評価の材料となり院号宣下までつながることも不可能ではないのだ。
院号を得た女性は莫大な資産を手にすることとなる。たしかに、建礼門院平徳子という、平家滅亡とともに人目から離れて京都大原の地に住まいを構えて質素な暮らしをしている例があるが、多くの場合は院号に伴う資産をベースとする生活を構築している。丹後局がその女性の母として、そして、後白河法皇がその女性の父として、深く関与することも十分に考えられる。それこそ、九条兼実に対抗しうる、さらには藤原摂関家に対抗しうる巨大勢力とさせることも可能だ。忘れてはならないのは、土御門通親は村上源氏の人間であって藤原氏では無いということだ。ここで藤原摂関家に対抗しうる勢力を作り上げたところで、土御門通親にとっては何ら困ることはなく、願ったり叶ったりである。
このような意見の対立があったとき、武器を持って戦うと一方の意見が最終意見となるが、武器ではなく言論の戦いとなると、双方の中間地点を探る結果に終わることが多い。九条兼実と土御門通親との対立、立場を変えて言うと藤原摂関家と後白河院との対立は、言論を用いた戦いへと発展していた。
言論を用いた戦いでは、武器とは違った技術が必要となる。特に中間地点を探る場合、当事者が何としても実現させたい要求と同時に、掲げている当事者が本心から欲しているわけではないが相手が絶対に受け入れることのできない無茶な要求を掲げ、無茶な要求を引き下げる代わりに何としても実現させたい要求を受け入れさせるというテクニックを披露することもある。土御門通親の実践したテクニックはそれだ。賀表の要求を引き下げる代わりに、後白河法皇と丹後局との間に生まれた女児が、ただちにではないにせよ、近い未来に准三后と院号宣下を受けることを検討することを九条兼実は受け入れたのである。決定ではないところが注目ポイントであるが、検討したあとで白紙撤回するのは現実問題として難しい。これでは事実上の決定である。
それに、九条兼実には時間がなかった。後鳥羽天皇の元服は翌年一月と決まった。その前に九条兼実は太政大臣に就任しなければならない。そうしなければ天皇の加冠役がいないままなのである。
もっとも、九条兼実とて無条件で土御門通親の意見を受け入れたわけではない。自分の娘を元服後の後鳥羽天皇のもとに入内させることを既定路線とさせたのである。摂政の娘とあれば中宮位や皇后位は夢ではないし、それこと話題になっている准三后と院号宣下を得ることだって不可能ではなくなる。
そこから先は怒濤の展開である。先例主義の数多くの害悪として、決定するまでが遅いことと、誰もが責任から逃れようとすることがあるが、先例主義というのは、先例に従って行動することが決まったならば後はマニュアルに従えば良いため、動きだしてからは想像以上に早い。また、先例に則ることで誰に責任があるのかが明瞭化されるため、自分に課せられた責任については果たすという、消極的動機ではあるものの怠惰からは無縁な行動をとるようにもなる。
まず、文治五(一一八九)年一〇月二六日に、後白河法皇と丹後局の間に生まれた女児を内親王とすることが決定した。ただし、この時点ではまだ正式な内親王宣下ではない。
それからさほど日を置かない文治五(一一八九)年一一月三日、九条兼実の娘が来年一月の後鳥羽天皇の元服後に入内することが決定となり、入内に要する調度品の用意や、仕えることとなる面々の人選が始まった。それから一二日しか経ていない一一月一五日に、後鳥羽天皇の入内される予定の女性が従三位に叙せられたと同時に任子と命名された。こう書くと、承安三(一一七三)年に生まれてからずっと名無しであったかのように思われるかも知れないが、実際にはそのようなことなどない。名はあったが入内を契機として名を変えたということである。
同じく名前を変えることになったのは後白河法皇と丹後局との間に生まれた女児である。文治五(一一八九)年一二月五日に内親王に冊封されたときに名が改められ覲子内親王となった。さらに同時に准三后ともされた。准三后と院号宣下とはセットではなく、院号宣下は後回しとなったが准三后は押し通したといったところであろう。ただし、ここには九条兼実もさらに対抗策を練っており、覲子内親王の内親王宣下と引き替えに、凡そ一ヶ月前の一一月九日に高倉天皇の第二皇子が親王宣下を受けることとなった。以後、彼は守貞親王と呼ばれることとなる。
九条兼実は過去の先例に基づいて行動していた。娘の入内についても先例に則っているし、後鳥羽天皇の元服についても先例の通りである。しかし、九条兼実には先例に則ることができない、正確に言えば先例が存在しないために則ることができない問題と直面していた。鎌倉の源頼朝との関係である。奥州藤原氏を滅亡させたことはともかく、東北地方の有力者を制圧したという先例ならば桓武天皇から嵯峨天皇の時代に遡れば存在するが、その者が京都から遠く離れた場所に居続けるというのは先例が無いのだ。
この難問を、九条兼実は、後鳥羽天皇の元服と、自分の娘の入内と、土御門通親殿対立とを並行して処理していたのである。その中で唯一の救いと言えるのが、源頼朝との関係は特に混乱しておらず、直接対面するわけではなく書状でのやりとりであるということを差し引いても、ついこの間まで戦争をしていた人間とは思えぬほど穏やかなやりとりであったことである。顔を合わせる京都の面々とのやり取りよりも、顔も知らぬ遠く離れた地に住む者との書状のやり取りのほうが穏やかというのは、何とも皮肉なことである。
やり取りの相手である源頼朝もこの頃は穏やかであった。文治五(一一八九)年一一月七日には、奥州遠征に対する報償を辞退すると報告し、一二月六日にも再び恩賞の話が出たが再度辞退している。その上で、朝廷の元に戻った陸奥国と出羽国の統治についても朝廷の指示を待っている状態であり、源頼朝はその指示に従うとしている。
だが、文治五(一一八九)年も間もなく暮れようとする頃にとんでもない情報が東北地方から飛び込んできた。鎌倉にその情報が飛び込んできたのは一二月二三日のこと、そして、その出来事が起こったのは一二月九日である。
何が起こったのか?
奥州藤原氏の残党が反乱を起こしたのである。
藤原泰衡は亡くなり、藤原秀衡の子のうち唯一生き残った藤原高衡は鎌倉方の監視下に置かれている。奥州藤原氏の傍流の面々についても鎌倉方の支配を受け入れていた。
しかし、奥州藤原氏の残党がことごとく鎌倉方の支配を受け入れたわけではない。特に、比企能員らが軍勢を指揮して通過しただけの出羽国は陸奥国ほどの戦禍を被ることが無かったがためにかえって鎌倉方の軍勢がどのような戦果を残したかがイメージできずにいた。
その結果が反乱勃発である。
反乱の首謀者の名前は残っている。大河兼任がその名前である。ただし、この反乱ではじめて歴史に名が登場しており、反乱勃発前はどのような立場であったかわからない。経歴のヒントにつながりそうな点として、大河兼任には最低でも二人の弟がいること、その二人のうち下の弟は源頼朝の御家人となったことから、大河兼任は奥州藤原氏の残党のうち一度は源頼朝に臣従したものの、源頼朝を裏切って奥州藤原氏の再興を目論むようになった、あるいは、弟も鎌倉方のもとに降ってしまったために孤独感を伴う絶望感から反乱を決断したと考えられる。
経歴不明の人物が首謀者となっていきなり反乱を起こしたとしても、その反乱に加わろうとする者は少ない。鎌倉方に対する反発心は隠せないでいたとしても、反乱に参加するのは普通ならば躊躇(ためら)う。
そのことは大河兼任も考えている。
大河兼任は、自分が反乱の首謀者ではなく首謀者が他にいるとしたのだ。そして自分は、反乱の首謀者の部下であり、反乱計画の一部を担っているに過ぎないと訴えたのである。このとき大河兼任が主張した反乱の首謀者の名は二人いる。木曾義仲の息子の源義高、そしてもう一人が、源義経である。殺されたはずの二人は実はまだ殺されておらず、出羽国にまで逃れ、ここに反乱を起こすことにしたのだと主張した。
そしてこの主張が見事に成功してしまったのである。葛西清重が率いる軍勢が反乱軍と対戦したが、情勢は鎌倉方が劣勢となっていた。由利雄平、宇佐美実政、大見家秀、石岡友景といった鎌倉方の武士達が次々と討ち取られるという厳しい情勢に葛西清重は鎌倉へ応援の要請を送った。
その要請が届いたのが一二月二三日であった。ただし、この段階ではまだ反乱勃発の知らせと反乱首謀者の名前が伝わっただけであり、鎌倉方の被害については伝わっていない。この時代の交通事情に加え、時期は真冬である。書状を持たせた人のやりとりだけでも春から秋にかけての時期の倍以上は時間を要する。つまり、書状を書き記した段階と書状を受け取った段階ではタイムラグがあり、その間に現地の情勢が大きく変化しているであろうことは推測できるが、あくまでも推測であって断定ではない。それでも源頼朝はただちに越後国の御家人に対して出羽国に向かって反乱軍を鎮圧するように命じる書状を送るとともに、鎌倉でも工藤行光をリーダーとする反乱鎮圧軍を結成させた。源頼朝の対処は早かった。書状が届いたのが一二月二三日、そして、反乱鎮圧軍の出陣が翌日の一二月二四日である。不確定な情報であっても、情勢が不明瞭であっても、迅速な行動は何より優先されることであると考えたのである。
この時点での源頼朝は大河兼任の反乱がただちに鎮静化すると考えていた。その証拠に、一二月二五日に源頼朝は一つの報告を朝廷に向けて送っている。伊豆国と相模国を除く知行国の権利を朝廷に返還し、翌年には上洛するつもりであるとの書状を送ったのである。これまで何度も上洛を要請されながら鎌倉に留まり続けていた源頼朝が公表した上洛についての初の意思表示である。なお、このときの上洛の意思表示に対する朝廷からのリアクションは乏しい。絶無と言って良いほどである。後に記すような反乱の拡大をこのときの源頼朝が考えていたならば、知行国の返還も、上洛宣言もありえない。前者は反乱鎮圧のための資金源、後者は反乱鎮圧のための指揮系統に直結する話だ。
大河兼任の反乱に対する史料も、これまた乏しい。これは歴史資料全般について言えることであるが、後世まで記録が残るのは数多くの人が記録に残してくれるかどうかに委ねられている。世の東西を問わず上流階級や都市部の知識層の記録が数多く残っているのは、そうした人でなければ後世まで残る記録を残すことができなかったからである。大河兼任の反乱についての記録は同時代の記録の絶対数が乏しいことから、現存する記録も乏しいという結末を迎えることとなる。
吾妻鏡をはじめとする乏しい記録を辿っていくと、大河兼任の反乱の被害をまともに被ったのは、反乱の発生した地域の住民ともう一つ、鎌倉まで連行されていた奥州藤原氏側の捕虜であることがわかる。藤原高衡のように後に源頼朝に仕える御家人とカウントされるようになった人物もいるが、その藤原高衡とてこの時点ではまだ捕虜であり、法に照らせば国家反逆罪で逮捕された犯罪者である。さらに最悪なことに、朝廷から犯罪者に対する処罰を伝える書状が届く少し前に大河兼任の反乱の知らせが届いたのだ。朝廷からの指令は流罪である。ただし、この時点ではまだ流罪とすることが決まったのみであり、誰をどこに流罪とするかは未定である。タイミングを考えると、あと半月もすれば大河兼任の反乱の知らせが京都に届き、一ヶ月後には反乱勃発に対する怒りの声に押し出されるように、必要以上に重い処分が科せられることとなるであろうし、鎌倉の武士達にもう一度東北地方へ進軍するよう命じる知らせが届くであろう。鎌倉方は武装集団であるものの朝廷の支配下にある面々であり、基本的にはシビリアンコントロールの効く集団である。シビリアンコントロールというものは文人が軍に対する指揮命令権を有する仕組みであるため、軍の独自の行動を抑制することができる反面、軍は戦争に反対であっても戦勝に酔いしれている文人のほうが戦争を求め、しかも、命じる本人は戦争と無関係なところにいることが通常であるために、無駄で無謀な戦争を起こしかねない。
大河兼任の反乱はその条件を全て満たしている。
一つ前の戦争は圧勝に終わった。
戦争の敗者が手中にある。
その戦争の敗者の残党がもう一回反乱を起こした。
この三条件が揃えば、犯罪者となった捕虜に対する厳しい処分に加えて、反乱の早期鎮圧を命じるようになる。前回は鎌倉方の暴走を朝廷が事後承諾する形であったのが、今回は朝廷が暴走して戦争を仕掛けるようになり、そして、戦勝の一員に加わろうとする。戦争に何の役も果たしていないのに、自分が戦勝の一翼を担ったと考えるようになってしまう。無謀と思われていたプロジェクトが成功したら、二度目はやたらと関係を持とうとすると人が現れるという、古今東西どこでも目にする話だ。ついでに言えば、関係を持とうとする人間は、何かにつけて口は出し、担当者の時間を奪って平然としている人間であると同時に、カネも物資も人員も用意しない人間でもある。
鎌倉が大河兼任の反乱の対応に追われていた頃、まだ東北地方での反乱勃発の知らせを受けていない京都では、翌年一月の後鳥羽天皇の元服に向けての準備が着々と進んでいた。文治五(一一八九)年一二月一四日に予定通り九条兼実が太政大臣に就任したことで後鳥羽天皇の元服に必要な役職と人物が全て揃った。
その半月前、何であれ先例重視である九条兼実は、先例重視であるがために前例のないことをしている。藤原鎌足、藤原不比等、藤原道長という、藤原氏の三人の先祖の墓に娘の入内の成功を祈るための使者を派遣したのだ。このようなことは先例が無かったが、目的は先例の成就である。
ここでいう先例の成就とは、九条兼実の娘の藤原任子が後鳥羽天皇との間に男児を産み、その男児が次期天皇に就くことである。藤原摂関政治とはいうものの、藤氏長者の実の娘が天皇との間に男児を産んだのは藤原道長が最後で、藤原頼通以後の藤氏長者は誰一人として、実の娘が天皇との間に男児を産んでいない。養女に迎えた女性が次期天皇を産んだことや、娘が天皇の養母になったことがあるだけである。藤原摂関政治の再興を考える九条兼実にとっては、理想とすべき人物である藤原道長、藤原不比等、そして、藤原氏の始祖である藤原鎌足に報告できるだけの未来を構築することを宣言する必要がどうしてもあったのだ。行為そのものは先例踏襲ではないが、行動自体は先例踏襲のためであった。
それから京都は、延暦寺の衆徒が天台座主である全玄を追い出した以外はこれといった事件もなく、平穏な年末年始を迎えた。
年が明けた文治六(一一九〇)年。この年の新年はいつもの新年ではない。一月三日に後鳥羽天皇の元服を執り行うことが決まっており、その通りに元服の儀が執り行われた。加冠役は太政大臣九条兼実、理髪が左大臣藤原実定、能冠が内蔵頭藤原範能、式次第の運営と進行は蔵人右少弁左衛門権佐の藤原宗隆と蔵人検非違使左衛門尉の源貞綱が務めた。
ここまでは何の問題もなかった。三種の神器が揃っていないことは誰もが知っていたが、そのことを指摘する人は誰もいなかった。
ところが式が始まってすぐに問題が発覚した。
三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が壇ノ浦の沈んだまま発見できずにいる。ゆえに、この儀式に天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は存在しない。だが、元服の儀にはその他にもう一振の御剣が必要であったのだ。
ここではじめて行き違いが判明した。天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が無いという意味での剣の無い元服の儀であったはずなのに、御剣が用意されていなかったのである。厳密に言えばやはり必要ではないのかという問い合わせがあり用意していたのだが、頑なに剣の無い元服の儀であることを主張したがために、御剣が無いまま元服の儀が始まってしまい、御剣を用意するまでに時間を要してしまった。結果、本来ならもっと早く終わるべきはずの儀式であったのに、スタート時刻はもう夕方になってしまっており、式の途中で陽が沈んでしまい、太政大臣九条兼実によって後鳥羽天皇の加冠が執り行われたときは灯火のもとでの加冠となってしまった。
なお、このときに剣無き元服の儀を主張したのは近衛家第三代当主近衛家実である。九条兼実と近衛家との対立がこのような失態を演じるきっかけとなった可能性もあるが、実際のところはそこまで深い問題では無かったであろう。何しろこのときの近衛家実は数えで一二歳、現在の学齢では小学四年生の子供であり、元服をまだ迎えていない。後鳥羽天皇も、九条兼実も、幼さゆえに仕方ないと考えたのか、近衛家実は特に何の処分も受けることなく、あるいは、このときの騒動がこの後の慎重な性格を作ったのか、成長した近衛家実は近衛家の当主として藤原摂関家の中心を担うようになっていく。そして着目すべき点が一つ。この人は承久の乱に反対し、この人が居続けてくれたからこそ、承久の乱の後の朝廷の混迷をできうる限り食い止めることに成功しているのである。
後鳥羽天皇の元服の儀は文治六(一一九〇)年一月三日に開催され通常の元服の儀としてはその日のうちに終わったが、国家的祝事としての後鳥羽天皇の元服はこの日で終わらなかった。
この時代には日曜日という概念も無ければ休日という概念も無い。そもそも国民全員が一斉に休むという概念が無い。理論上、毎日が平日である。しかし、理論上は平日でも事実上は休日であるという時期が存在する。その中で今と変わらないのが年末年始だ。
後鳥羽天皇の元服を一月三日に執り行ったことは、日本中の大部分が祝賀ムードである年末年始の終わりに国家的祝事を執り行うことを意味する。理論上は日本全国、事実上は京都とその近隣に限ったとしても、いつもと違う祝日ムードが続くことは新しい時代を迎えることの高揚感を煽る効果がある。いわゆるイベント効果というものだ。
さらに、摂政九条兼実の娘の藤原任子が後鳥羽天皇のもとに入内したのが一月四日、そして、後鳥羽天皇の元服の後宴を一月五日に開催するとなったことで、いつもの年より年末年始休暇が二日間延びることとなる。
一月六日からいつもの日常が始まるかというと、一応はその通りであるが、後鳥羽天皇の元服と藤原任子の入内に伴う祝賀ムードはまだ終わらない。藤原任子の入内そのものは一月四日であるが、この時点ではまだ民間人の女性の一人が後鳥羽天皇の結婚相手候補に選ばれたにすぎず、まだ女御宣下を受けていない。つまり、皇族の一員とカウントされてはいない。藤原任子が正式な女御となったのは一月一一日のことであり、この日もまた、国家的祝事という扱いになったのである。現在でも新年が明けて働きはじめてから少し経つと成人の日を含む三連休があるので感覚としては理解いただけるであろう。
藤原任子の入内は上東門院藤原彰子の例に則っていた。一条天皇中宮にして後一条天皇と後朱雀天皇の生母である上東門院はまさに九条兼実の理想とする天皇の后の姿であり、かの時代の復活を目的とする九条兼実は様々な形で上東門院藤原彰子に自分の娘が重なるようにした。そのわかりやすい例が、入内に際して作成された中宮入内屏風である。屏風に和歌を書き記したことについては、藤原道長の時代に藤原彰子が一条天皇のもとに入内したときの有名なエピソードがある。藤原道長が貴族達に対して「これから入内する藤原彰子のために和歌を献上しても良い」との知らせを飛ばしたところ、名だたる貴族達がこぞって和歌を送り、その和歌が屏風に記されたというエピソードだ。九条兼実はそのエピソードの再現を狙った。実際に作られた屏風は現存していないが、屏風に書き記された和歌のうちのいくつかは、後に新古今和歌集に載ることとなる。
京都で後鳥羽天皇が元服を迎え、九条兼実の娘が後鳥羽天皇のもとに入内したことで、古き良き時代への回帰への期待に満ちあふれていた頃、鎌倉は大河兼任の反乱への対処に追われ、現実に反乱の戦地となっていた出羽国では期待どころではない地獄絵図になっていた。
現在の東北地方は六県からなっているが、明治維新期の令制国分割までは陸奥国と出羽国の二ヶ国しかなかった。この時代に東北地方という地域区分は無いが、陸奥国と出羽国とで一つの文化圏を構成しているという概念はあった。そして、鎌倉方の奥州遠征自体も部隊の一部こそ越後国から日本海岸沿いに北上したが、基本的には陸奥国での軍事行動であり戦闘の多くも陸奥国でのことであり出羽国は通過点であった。陸奥国で戦闘を行い奥州藤原氏を滅ぼしたことで東北地方の平定が完了したと誰もが考えたし、それまで奥州藤原氏の支配を受けていた人達は支配者の交替を受け入れることとなった。出羽国が陸奥国とは別の令制国であるということは知識としては知っていても、認識としては抱いていなかったと言っても良い。これを出羽国の立場で捉えると、それまで奥州藤原氏の支配を受けていた一〇〇年間であったのが、軍隊の通過こそ体験したものの実際の戦闘をほとんど体験することはなく、気が付けば奥州藤原氏がいなくなって権力のエアポケットが生まれてしまったのである。
無論、源頼朝が出羽国の権力のことを無視したわけではないが、それまでの奥州藤原氏の統治を利用した鎌倉方による東北地方統治の構築はまだ完了していなかった。その隙を狙って大河兼任が反乱を起こしたのである。
吾妻鏡の文治六(一一九〇)年一月六日の記事によると、大河兼任は既に述べたように、源義経や、木曾義仲の息子の源義高の名を語り、彼らがまだ生きていて鎌倉方に対する反乱を主導しており、大河兼任自身は反乱の指揮官ではなく副官であるとした。これは戦略として賢明な方法である。全くの無名とするしかない地方の一有力者が反乱を起こしたところで同調する人は少ないが、源義経や源義高といった非業の死を遂げた人物の名を前面に掲げれば反乱に同調する人は増える。さらに、反乱の目的として、これまで日本の歴史において家族や恋人の復讐のために立ち上がった者は多いが、主君のために立ち上がった者はおらず、自分は後世にまで残る先例を作り上げるために反乱に参加し、鎌倉へ向けて軍を進めることに同意したというのである。
大河兼任が反乱の根拠地としたのは、現在の八郎潟から秋田市に掛けての地域であったと推測されている。ここから軍勢を進めて鎌倉まで向かうというのであるから無謀な計画に見えるが、計画の実現性はともかく反乱参加者を集めるという視点に立てば合理的な計画である。スタートアップは非現実的な目標を掲げる方が人を集めやすい。ただし、そこから目標遂行のために必要なのは現実的な積み重ねである。
反乱軍は日本海岸に沿って南下したのち、現在の酒田市のあたりから内陸に入って、笹谷峠を越えて現在の仙台市に出て、まずは多賀城の陸奥国府を制圧することを考えた。逆説的な話になってしまうが、この行軍がもし成功していたなら大河兼任の乱は長引くことなく短期間で鎮静化したはずである。
しかし、鎌倉に届いたのは行軍に失敗したという知らせであった。行軍開始の直後、八郎潟東岸で軍勢の多くが溺死したのだ。時期は一月。この時期の秋田県の寒さは普通ならば八郎潟に注ぐ河川が凍るほどだ。そして、例年通りであれば河川が凍るからこそ橋に頼らずに軍勢を対岸に渡らせることが可能となるのである。だが、この年はどういうわけか河川に張った氷が軍勢の渡河に耐えうる固さではなく、氷が割れて多くの兵士が水に沈んでしまったのである。吾妻鏡の伝えるところによると、大河兼任の指揮する七〇〇〇の兵士のうち五〇〇〇もの兵士の命が失われたとある。この知らせを聞いた鎌倉の誰もはこう考えた。反乱が起こったが、軍事力で鎮静化させる前に大河兼任は自滅したと。そのため、大河兼任自身の安否は不明であるが反乱軍の軍事力は弱まっており、前年七月のような軍勢を再結成するまでもないと考えたのである。
鎌倉のこの判断をさらに強化させたのが、翌一月七日のことである。この日、二つの情報が源頼朝の元に届いたのだ。
一つは、奥州遠征で捕虜となった者の中に大河兼任の弟である二藤次忠季がいることが判明し、二藤次忠季自身は兄の反乱に同調せず源頼朝に従うことを宣言したのだ。この時代の武士によくあることであるが、渾名としての苗字という概念が現在進行形で形成されている途中であるこの時代、兄弟で苗字を別としていることは珍しくない。二藤次忠季の二藤次という苗字も現在の秋田県鹿角市の地名をそのまま適用した苗字であり、彼がその土地の有力者であったことを意味する。その意味では、鎌倉方においても北条義時が途中まで江間義時と名乗っていたこと、また、三浦一族に含まれるはずの和田義盛が三浦ではなく和田を苗字としていることと等しいと言えよう。
もう一つであるが、これもまた大河兼任と兄弟関係にある人物である。その人物のことを吾妻鏡は新田三郎入道という名で記していることから、彼は出家して僧体であったことがわかる。兄弟関係で言うと、大河兼任は次兄で新田三郎入道は三兄、二藤次忠季はこの二人の弟であることはわかるが何人兄弟の何番目なのかは不明である。新田三郎入道は奥州遠征によって捕虜となったのではなく、大河兼任が反乱を起こした後で反乱に同調しないことを宣言するために単身鎌倉へとやってきたのである。兄弟間の対立すら発生している反乱であることから、大河兼任の乱はそこまで長期化することないであろうという目測が立ってしまったのだ。
源頼朝は前年の奥州遠征ほどの軍勢を組織する必要は無いとは考えたが、現時点で派遣している軍勢だけで反乱を完全に抑え込むことはできないとも考えていた。もっとも簡単に反乱を鎮圧する方法を考えるなら鎌倉方で総力を結集させて遠征することであろう。だが、今は真冬だ。そもそも行軍に向いていない。また、兵糧をどうするのかという問題もある。鎌倉方の蓄えの多くを前年の奥州遠征に注ぎ込んでいるため、もう一度遠征をしようとしたら今回は補給に支障を生じる遠征になってしまう。
文治六(一一九〇)年一月八日、源頼朝は千葉常胤と比企能員の両名に軍勢出陣を命じた。太平洋岸沿い、現在の常磐線に沿って北上する軍勢については千葉常胤が、中通り、現在の東北新幹線に沿って北上する軍勢については比企能員が指揮をする。今回は前回と違って日本海岸への軍勢派遣をしない、しないと言うより、豪雪のためにできない。ゆえに、前回の三方面作戦ではなく二方面作戦となる。その代わり、源頼朝は書状を送った。東北地方在駐の武士のうち、鎌倉方に同調してともに戦うなら参加してもよいという許可を与える書状である。この書状の受取先の多くはかつて奥州藤原氏に仕えていた武士であり、奥州遠征で勢力を失ってしまった武士である。今回の反乱追討において功績を残せば奥州藤原氏の時代に手にしていたような所領の保有権を鎌倉が与えてくれるという期待も抱けただけでなく、失ってしまった所領を取り返すことも不可能では無いという期待を武士達に抱かせてくれた。
大河兼任の乱は簡単に鎮圧できると誰もが考えていたところでショッキングな内容が飛び込んできた。
文治六(一一九〇)年一月一八日、熱海の伊豆山権現のもとにいた源頼朝の元へ伝令が到着したのである。ちなみに、京都の皇族や貴族が熊野詣として京都を離れるように、源頼朝が新年には鎌倉を一時的に離れることは珍しくない。ただし、京都と熊野との距離と比べ、鎌倉と熱海との間の距離はそれほどでもない。理論上は一廉(ひとかど)の貴族としての新年の過ごし方を源頼朝もしていたということになるのだが、いざというときに駆けつけることのできる距離に留まるというのは源頼朝なりの配慮であった。
話をもとに戻すと、伝令から戦況を聞いた源頼朝は耳を疑った。大河兼任率いる軍勢との戦闘で敗れ、鎌倉方に大きな被害が出たというのである。ここではじめて鎌倉方の情勢が不利になっていること、そして、数多くの死者が出ていることが判明した。戦乱そのものは前年に起こったことであり、その間に情勢は激変していたのである。
氷が割れたことで多くの兵を失った大河兼任は進路を津軽方面に向けて遠回りをすることにした。吾妻鏡の伝える人数が真実であるとは言い切れないものの多くの兵を失ったことは事実であろう大河兼任である。大河兼任は真っ先に減ってしまった戦力を埋めることを考え、反乱に同調する者を現在の青森県のあたりで募ることにした。当初は津軽地方で、それから南部地方や下北半島に向けてアピールすることで鎌倉方の支配からの脱却を求める声を集めることに成功し、失った兵力以上の兵力を集めることに成功した。
そして鎌倉方との最初の戦闘を迎え、大河兼任の率いる軍勢は鎌倉方に圧倒した。その知らせが一月一八日に届いたのである。ここではじめて由利雄平、宇佐美実政、大見家秀、石岡友景といった鎌倉方の武士達が次々と討ち取られたことが判明した。源頼朝はただちに熱海を発って鎌倉へと戻ることとした。一月二〇日にはもう鎌倉に到着していたというのであるから、新年の保養どころではない。
鎌倉には既に多くの御家人が詰めかけていた。仲間の敵(かたき)討ちをするための出陣を求める声である。その中には既に年老いており、さらに病に苦しんでいる小諸光兼の姿もあった。源頼朝は敢えて彼の出陣要望を応えた。武士としての最後の一花と考えたか、あるいは仲間の敵(かたき)討ちと考えたか、それとも打算の結果かはわからないが、このような武士の参戦は多くの鎌倉武士を感激させたし、源頼朝はその感激に応えつつ戦意高揚に利用した。
一月二七日、大河兼任に敗れた小鹿嶋公成が鎌倉へと逃れてきた。負け戦となっただけでなく多くの仲間が討ち死にをしたのに自分は逃げて帰ってきたということで小鹿嶋公成自身も恥の気持ちが強かったし、周囲の視線も決して好意的ではなかったが、それでも源頼朝は小鹿嶋公成を受け入れた。何しろ貴重な現地体験者なのである。それに、今ここにいる誰よりも雪辱に対する強い思いを抱いている人物なのである。また、一度は大軍を失った大河兼任がただちに軍勢の勢いを取り戻しただけでなく鎌倉方との戦闘で勝利を手にしたとあっては、今回の反乱は簡単に鎮圧できないことが誰の目にも明らかとなってしまったのだ。戦闘で死を迎えるのは一人の武士の散り際としては美しいかも知れないが、戦争の勝利のための行動としては誉められたものではない。死に場所を求めるのではなく戦争に勝つことを考えるのであれば、恥を受け入れてでも生き延び、挽回し、戦勝を手にすることである。小鹿嶋公成はそれをしたのだ。源頼朝は小鹿嶋公成を許しただけでなく、小鹿嶋公成のような行動こそが戦争で勝利を手にするために必要なことであるとして広く宣伝した。
大河兼任の乱の続報が鎌倉に到着したのは文治六(一一九〇)年二月六日のことである。その前日に、源頼朝は現地の情勢を査察すべく最低でも三名の者を純粋な調査目的として派遣しているが、さすがに昨日の今日でただちに現地の情報が入ってくるわけはない。源頼朝の目的は報告の届く頻度を増やすことであり、この時点ではまだ一〇日に一度ほどの定時連絡という形になる。
このときの続報が東北地方を出発したのは一月二三日のことであり、この時点ではまだ鎌倉から派遣された軍勢は東北地方に到着していない。現地では既に大河兼任が大規模勢力となっていて、比爪、平泉、さらには多賀城まで勢力を伸ばしてきていた。ここまで来ると、全盛期とまでは行かないものの奥州藤原氏を彷彿させる勢力だ。吾妻鏡によると多賀城は既に大河兼任の支配下に入り、大河兼任は既に数万騎以上の軍勢を数える勢力になっているという。
普通に考えれば極めて厳しい情勢だ。
ところが源頼朝はそうは考えなかった。
反乱が大規模になったことは認めたが、その反乱がどこまで現地の支持を得ているのかという問題がある。さらに、反乱を起こして多くの支配地を手にしたのは事実でも支配地をどのように統治しているのかという問題がある。そして、当初はリーダーとして掲げたはずの源義経や源義高が実際にはいないという現実がある。この三番目が問題であった。源義経は生きていると考えたからこそ、あるいは源義高は生きていると考えたからこそ今回の反乱に同調したのに、いつまで経ってもリーダーたる源義経や源義高は現れないどころか、副官であるはずの大河兼任がリーダー面して指図している。おまけに、食糧も物資も現地調達だ。現地調達と言えば聞こえは良いが、やっていることは占領地からの略奪である。大河兼任の乱に加わった者の中には、まさに自分達の軍勢が故郷を、さらには自分の家族の住む家に襲い掛かって物資を奪うところを目の当たりにした者もいるし、目の前で家族が犯されたのを目の当たりにした者もいる。反乱軍に加わっている者は反乱の正義に疑問を持つようになり、夜闇に乗じて軍を離れることが続出した。反乱軍に加わっている者ですら逃亡したのであるから、そうでない一般市民に至っては大河兼任の軍勢など反乱軍ではなく強盗集団でしかなく、歓迎ではなく憤怒の対象である。こんな奴らの支配下に入るくらいなら鎌倉方の軍勢のほうがはるかにマシだった。
源頼朝は大河兼任の率いる軍勢に向けて書状を送った。国法に照らせば反乱に参加した者は死罪であるが、鎌倉方に投降した者は特例として罪を減じるとしたのである。無罪でなければ投降できないという考えの兵もいたであろうが、罪を減じるならば投降することを考える兵も現れたのだ。これは大河兼任にとって痛手であった。
文治六(一一九〇)年二月一二日、鎌倉方の反撃が始まった。
記録はその前日に鎌倉方の軍勢が平泉を出発したところから始まる。多くの兵士が大河兼任の率いる反乱軍から離脱したとは言え、それでも大河兼任のもとには一万騎以上の軍勢があった。
これに対する鎌倉方の軍勢であるが、足利義兼、小山宗政、結城朝光、葛西清重、関次郎政平、小野寺道綱、中条兼綱、中条藤次といった面々が率いており、その軍勢は雲霞のようであったとするのが吾妻鏡の記載だ。ただし、軍勢集結について綿密な計画を立てていなかったらしく、さらに冬という時期の影響もあって、軍勢が揃う頃にはもう完全に陽が沈んでいた。そのため、大河兼任との戦闘は翌日になるとの算段から、戦場となる可能性の高い場所に到着する前に一泊することとした。なお、吾妻鏡によると一迫(いちはさま)、現在の宮城県栗原市の一部をなす地域の少し手前で宿泊することにしたとある。
鎌倉方との第一戦で勝利した大河兼任であるが、その戦いは前哨戦でしかないこと、これから鎌倉方が本気になって討伐に来ることは理解できていた。また、鎌倉方が平泉の奪還を目指して軍勢を集めていることは理解できていた。そのため大河兼任率いる軍勢にとって都合の良い場所に陣を構えることとしたのだが、鎌倉方の軍勢の規模は大河兼任の想像をはるかに超えていた。これでも源頼朝の率いた奥州遠征のときよりも少ない軍勢であるのだが、大河兼任にとっては一蹴されてしまう規模の軍勢であったのだ。
おまけに大河兼任の軍勢は世論の支持を得ていなかった。自分達が何をしてきたのかを顧みて、それがいかに正義や独立の名の下で繰り広げられてきたことであろうと、鎌倉方のほうが解放軍で自分達は侵略者であることは誰の目にも明瞭であった。
さらに大河兼任にとって脅威であったのが、このときの鎌倉方は鎌倉の派遣した軍勢がまだ到着していなかったということ、つまり、その時点の東北地方で用意できた鎌倉方の軍勢だけで大河兼任の軍勢を圧倒していたということである。それだけでも脅威であるのに、夜が明けたときに鎌倉方の派遣した指揮官の一人である千葉胤正の率いる軍勢まで加わったことでもはや太刀打ちできないと判断して、大河兼任は戦闘ではなく逃亡を選んだ。多少の戦闘にはなったものの、反乱軍の大部分は敗走、撤退ではなく文字通りの敗走となり、戦闘ではなく逃げていく反乱軍の軍勢を鎌倉方の軍勢が追いかけるという図式になった。
一万を誇っていた大河兼任であったが、平泉を超えて北上し、衣川にまでたどり着いた大河兼任と同行できたのは五〇〇騎ほどであったという。数の誇張があるから鵜呑みにはできないが、逃走率九五パーセントというのは敗北以外の何物でもない。それでいて五〇〇騎を率いることができるとあれば、完敗ではなく挽回可能な規模でもある。さらに、大河兼任が多くの人をスカウトした津軽地方、南部地方、下北半島といった現在の青森県のあたりは、大河兼任のもとに軍勢を提供した一方で、大河兼任の軍勢による暴行や略奪の損害を被っていないため、大河兼任に対する支持者も多かった。その支持を土台として大河兼任は現在の青森市の浅虫温泉あたりにある有多宇末井之梯の山頂に城塞を築いて抵抗することにした。ちなみに、有多宇末井之梯はウトウマイノカケハシと読む。無理して漢字を当てはめた地名だと感じるであろうが、実際にその通りで、元来の蝦夷の地名に漢字を当てはめた結果である。
大河兼任はここまで来ればさすがに鎌倉方の軍勢も来ないであろうと考えたし、来たとしても抵抗できると考えたようであるが、鎌倉武士はそれを許すほど甘くはない。どこへ敗走していったのかを調べて大河兼任のもとまでたどり着いた足利義氏らはただちに城攻めを行い、大河兼任は防戦もむなしく城を捨てて逃走、残された者は、ある者は戦死し、ある者は降伏して投降した。
文治六(一一九〇)年二月一二日から始まった戦いの様子は、二月二三日にはもう鎌倉の源頼朝のもとへと届いていた。ただし、この時点での大河兼任は行方不明というものであり、派遣された軍勢によって捜索が行われているというのが源頼朝のもとに届いた情勢である。
吾妻鏡の記載に従うと、大河兼任についての続報が源頼朝のもとに届いたのは文治六(一一九〇)年三月二五日のこととなっている。かなりのタイムラグが生じてしまっているが、源頼朝がどのような人であるかを考えると、タイムラグが生じているのではなく、吾妻鏡に残すまでもない情報が適宜届いており、吾妻鏡編纂時に載録に値すると判断した記録となると三月二五日まで飛ぶこととなったといったところであろう。
三月二五日に届いた知らせ、それは、大河兼任の死である。それも戦場での死ではなく、逃走に逃走を重ねた末に、地元の人達に惨殺されたというものである。
大河兼任の死に至るまでの流れを記す吾妻鏡の記述は、反乱を起こした敗北者の逃避行の様子を容赦なく書き記している。
山の上に城を築いて徹底抗戦を意図したとき、大河兼任は今で言う青森市にいた。そのあと、花山、千福、山本といった土地を経て、亀山を超えて栗原寺に出たところで、地元の人達に見つかってしまい、身につけている装備がいかにも高級品であることから怪しいとみられ、現地の人達に斧で叩き殺されたというのが吾妻鏡での情景だ。
これを現在の地図で捉えると、花山は現在の宮城県気仙沼市もしくは岩手県気仙郡、千福は秋田県仙北市もしくは岩手県盛岡市の仙北町、山本は宮城県山本町に比類されている。そして、大河兼任が最期を迎えた栗原寺は現在でも宮城県栗原市に現存しており、その前にいた亀山となるとこちらもまた現在の気仙沼市だ。ここまでくると、記した地名そのものが逃避行先としては事実ではなく物語に虚飾をもたらすための無意味な地名の列挙である可能性もあるが、青森市での敗北の結果の逃避行として、東北地方各地を行く当てもなく彷徨った様子としても考えられる。
確実に言えるのは、青森市で敗北した大河兼任が、現在の宮城県栗原市で惨殺されたということである。これで大河兼任の乱は完全鎮圧したこととなるが、見過ごしてはならないこともある。反乱において多賀城が大河兼任のもとに降ったということである。平泉や比爪のように侵略されただけなら、純粋な復興で戦後対処となる。だが、大河兼任の支配を率先して受け入れた、それも、いかに一〇〇年間に及ぶ奥州藤原氏の支配によって実質的な中心地が平泉に移っていたとは言え、陸奥国を統治する行政の中心は多賀城であったのだ。地域の名目上の中心地が相手の軍門に自ら降ったというのは、大河兼任にとっては最高の、鎌倉方にとっては最悪の事態である。
源頼朝は大河兼任の乱の完全鎮圧が完了する前の文治六(一一九〇)年三月一五日に、伊沢家景を陸奥国留守職に任命して現地に派遣した。伊沢家景はもともと藤原北家の血を引く貴族であり、本名も藤原家景という。ただ、いかに藤原北家の血筋とは言え中央政界で貴族としてやっていけるほどの価格を得ていなかったこともあって、大納言藤原光頼の家司を務めるようになっていた。それだけであれば歴史の闇に消えてしまっていたであろう人物であるが、文治三(一一八七)年に源頼朝代官として上洛した北条時政が伊沢家景の才能を見いだし、北条時政が推薦したことで、大納言藤原光頼のもとを離れて鎌倉に出向き、源頼朝に仕えるようになった。
その伊沢家景を、反乱終結後の東北地方の民政責任者に任命したのである。軍事については平泉に残ることとなった葛西清重が受け持つため、伊沢家景は東北地方の非軍事的政務に専念することとなった。なお、伊沢家景はそのまま多賀城とその近郊に居住し続けただけでなく子孫もそのまま東北地方へと残り歴史をつなぎ続けた結果、伊沢家景は、直系の祖先ではないものの戦国時代の伊達政宗のルーツの一つとなることとなった。
源頼朝が定期的に京都から情報を得ていたことは何度も書いてきたことである。京都から得ている情報が重要な情報なら情報量が多く、重要でない情報のときは些事で分量を埋め尽くした内容であった。
文治六(一一九〇)年四月二〇日に届いた情報も当初は些事と思われていたが違った。
一条能保の妻が難産のために亡くなったというのである。
亡くなったのは四月一三日で、亡くなったことの知らせが届いたのが四月二〇日であったとするのが吾妻鏡での記載であるが、別史料では、四月一三日に亡くなったのではなく四月二〇日に亡くなったと記している。なお、どちらの史料においても、かなり早い段階で源頼朝のもとに彼女が亡くなったという知らせが届いたという点で一致を見ている。
一条能保の妻は源頼朝の実姉とも実妹ともされる坊門姫であり、源頼朝はこの瞬間に同じ母から生まれたきょうだいを全員無くしたこととなる。なお、坊門姫が源頼朝の姉とする説と妹とする説の双方があるのは彼女の生年について二つの説があるからで、久寿元(一一五四)年生まれとする説を採ると源頼朝の妹、久安元(一一四五)年生まれとする説を採ると源頼朝の姉ということになる。
源頼朝は坊門姫の死を知った二日後に弔いのための使者として山田重弘を京都へ派遣することとした。
そしてここで、吾妻鏡の記載に従うと整然としないことが出てくる。
四月二五日に京都から一つの連絡が来た。四月一一日に改元し、文治六年を建久元年とするという知らせである。
繰り返すが、四月一一日に改元したという知らせである。そして、坊門姫の亡くなった日付は四月一三日で、その知らせを受け取ったのが四月二〇日とするのが吾妻鏡の記録だ。つまり、坊門姫の死を告げる情報は新しい元号でなければならないのであるが吾妻鏡には新しい元号で知らせを受けたことの記載が無く、四月二五日になってようやく元号が鎌倉に届いたということになる。
これは整然としない流れである。
しかし、こう考えると辻褄が合う。
京都と鎌倉の温度差の違いだ。
大河兼任の乱は、鎌倉には大きな衝撃をもたらしたが、結果的に鎌倉方による東北地方統治をさらに加速することとなった。一方、京都にはさほどの影響を与えることはなく、何事も無かったかのような平穏が続いていた。鎌倉にとっては奥州藤原氏を滅ぼした後で反乱があったこと、その反乱によって自分達が一度は敗れたことは大きな衝撃であったが、京都にとっては、これまで一〇〇年間に亘って権勢を誇ってきた奥州藤原氏の滅亡ならばインパクトはあっても、その残党の反乱などどうでもいいことだったのである。
源頼朝という人は、情報の重要性を熟知し、情報の有無ではなく情報の定期収集の重要性を察知し、そして、実践していた人である。その源頼朝のもとに届く京都からの情報は、物の見事に大河兼任の乱を無視した、あるいはそもそも反乱そのものが視界に入っていない情報である。
文治六(一一九〇)年四月一一日のこととして京都から伝わった、正確に言えば京都から全国に向けて意図的に発出された情報は、京都ではやはり反乱のインパクトが全く生じていないのだと改めて認識させるに十分な情報であった。既に述べたように、それが改元である。この日を以て建久へと改元することが公布されたのだ。
源頼朝は京都から鎌倉まで七日間で情報を受け取ることの仕組みを構築してきた人である。仕組みに従えば四月一八日には、悪天候などのやむを得ない事情があったとしても坊門姫の死を伝える情報が届いた四月二〇日時点で改元を知っていたはずであり、四月二五日に改元の情報が届いたのは、源頼朝の用意した専用の情報連絡網ではなく、朝廷の従来の情報伝達であったとすれば、四月一一日の情報がおよそ半月で鎌倉に届くことになるわけで不都合ではない。
実際、改元だけを考えれば納得いく話であった。現在のように新帝即位だけなく、天災や人災、陰陽道によって改元するのは当然のことであり、反乱勃発というかなりの危機的な人災が起こったのだから改元という選択を朝廷が選んだとしてもおかしくはないと源頼朝は、そして、鎌倉の誰もが考えた。だが、文治から建久への理由を知ると、源頼朝は、そして鎌倉の誰もが唖然とした。文治六(一一九〇)年は陰陽道でいう三合の年であり、この年は天才や兵乱が多発することが多いとされることから、そうした災害が起こる前に建久へと改元することで災禍を逃れるというのである。つまり、既に発生した反乱については全く考慮に入っていないのだ。
大河兼任の乱のことを京都にどれだけ訴えても無駄であった。既に反乱は鎮圧されたではないか、あるいは反乱勃発は昨年のことであり今年はその続きではないかと言われて終わりだ。
こうした京都と鎌倉の温度差は源頼朝に一つの決断をさせるに十分であった。
上洛である。
平治の乱で敗れて流罪となって京都から追放されたのを最後に、源頼朝は京都と接点を持ってはいても、自身は京都まで向かうことが無かった。これまで何度も上洛を促されてきた源頼朝であるが、断固として上洛を受け入れることはなかったのだ。
それがここに来ての上洛の決意である。武士を率いる身として、また、一人の貴族として京都へ向かい、京都と地方との差を直接埋める必要性を感じていたのだ。
また、既に正二位の位階を得ていながら議政官の一員に名を連ねているわけでないばかりか、何の役職も得ていない。位階だけあって役職は無いという貴族は珍しくはないが、正二位という高い役職にありながら位階相当の役職を得た経験のない貴族というのは極めて珍しい。位階はあっても役職がないという貴族でもかつては何かしらの役職を手にしていたのであれば相応の発言権も付帯するが、役職経験がなく位階だけあるというのでは発言権も乏しいものとなる。
役職経験が無いゆえに発言権も制限されているというのならば、何らかの形で役職を得ればいい。役職に就いた経験がない理由が京都にいないからだというのならば京都へと行けばいい。京都に姿を見せて役職経験を得て発言権を獲得し、自らの意思を国政に反映させることが必要な時代を迎えたと源頼朝は考えたのである。
ここにさらに、源頼朝だからこそ可能なポイントが加わる。それが何であるかは実際に源頼朝が意思を表明したときに記すが、ヒントを二点記すと、後鳥羽天皇の即位の情景と、他の貴族は持っておらず、ただ一人、源頼朝だけが持つ要素である。
文治から建久へと改元された建久元(一一九〇)年四月一一日時点で、鎌倉から源頼朝が上洛してくるらしいという知らせはまだ京都に届いていない。当然だ。源頼朝が上洛を決意するきっかけとなったのが改元の知らせなのである。
源平合戦が終わって平家が滅び、奥州藤原氏も滅亡し、唯一の武力集団となった源氏も鎌倉に滞在したまま動かないでいる。京都は目指すべき過去の姿への回帰を求め、摂政九条兼実は藤原摂関政治の全盛期である藤原道長の時代へ、後白河法皇は過去二代の院政期への回帰を求めており、京都における政治対立を突き詰めれば、摂関政治への回帰か院政の復帰のどちらにするかという対立に終始していた。そして、その双方ともが京都とその近郊の民意のみに基づく政治であった。現在の感覚で言うと、国会議事堂のある東京とその近隣の県からの声だけで国政を動かすようなもので、ここに地方からの声が入り込む余地もなかった。この時代に議会制民主主義はないが、現代風に捉えれば京都とその近郊だけしか選挙区がなく、京都とその近隣に住む人達しか選挙権を持っていないようなものである。その他の地域には選挙区もなければ選挙権もないため、その他の地域に分類される鎌倉の声は国政へと反映されないでいる状況だ。
この状況がおかしいことを、後白河法皇も、摂政九条兼実も、そしてどの貴族も理解することはなかった。京都にいたままでは未来も期待できず時代を掴めないが、京都を離れれば豊かな暮らしや輝ける未来を期待できると考えて実行する貴族もいたが、そして、鎌倉にしても、平泉にしても、そうした貴族を抱え込むことで発展することができたのであるが、それでも京都の朝廷に自らの意見を届けることも、ましてや意見を国政に反映させることも、ありえないことだと思っていた。鎌倉から源頼朝の代理人として京都に行くことがあっても、あるいは平泉から奥州藤原氏の代理人として京都に行くことがあっても、京都において国家運営の中枢に関わることなど考えられなかった。京都を離れることは豊かな暮らしと未来への期待を手にする代わりに中央政界での出世を諦めることであったのだ。
その見識が常識とされていた時代に、あくまでも鎌倉の立場で中央政界に名を連ね国政に携わろうとする源頼朝のほうが、良く言えば時代を先取りしていた、一般的に考えればあまりにも異例なことをしていたのである。
ところが、鎌倉が抱いたようなこれまでにない認識をする人物が京都にいた。それも誰も無視できぬ存在として君臨していた。
後鳥羽天皇だ。
四月四日と言うから改元前のことである。後鳥羽天皇はこの日、南殿の御後で密々の小弓御会を中山忠季や坊門信清らと開催した。両名とも貴族であると同時に、それが象徴的称号であったとしても武官としての官職を経験してきた貴族であり、天皇が弓矢をともに楽しむという点で誰を選ぶかとなると、選ばれたとしてもおかしくない人物である。特に坊門信清こと藤原信清は後鳥羽天皇の生母である藤原殖子の実弟である。弓矢を楽しむという点に限定するのではなくプライベートの時間という幅広い視点で捉えると、叔父と甥という関係になる。また、木曾義仲の法住寺合戦においては侍従として後鳥羽天皇の身を守ったのが坊門信清である。後鳥羽天皇にとっては頼れる叔父という認識であったろう。
もっとも、いかに叔父とともにプライベートの時間を楽しむと言っても、天皇が儀式として弓矢を取り扱うならまだしも、趣味として弓矢を扱うのは異例だ。しかし、後鳥羽天皇の立場に立つと二つの側面から意味のある話になる。一つは純粋に趣味として。天皇が私的な趣味を持つこと自体はおかしな話ではない。現在でも皇室の方々がテニスをする姿や生物学や歴史学の研究をする姿を見ることは普通だ。それはこの時代でも同じで、後白河法皇のように今様にのめり込む姿は異例といえば異例であるがおかしな話ではない。後鳥羽天皇はその趣味の対象が弓矢であるというだけである。厳密に言えば和歌の趣味も加わるから、弓矢だけが後鳥羽天皇の趣味というわけではない。
問題はもう一点。時代が武芸を求めるようになっていると考えたことだ。これは幼さゆえの短絡思考と一刀両断すれば済む話ではない。この時期の後鳥羽天皇自身が一人の武人として戦場を渡り歩くことを想定していたかどうかはわからないが、少なくとも武芸に通じていなければ時流を見誤ることになると察していたことは疑いようがない。源平合戦が終わったとしても、奥州藤原氏が滅んだとしても、遡れば保元の乱からずっと武士が政界の中枢に食い込む時代を迎えており、現在進行形で鎌倉に巨大武装勢力が存在している。この現実を目の当たりにしたならば、文武両道を学んで武芸に対する知識を得なければ執政者たることはできないと考えるほうが正しく、文武両道を捨てて武をないがしろにし、文にこだわるほうがおかしいとすべきであろう。
後鳥羽天皇は元服しているので理論上こそ大人の仲間入りをしているが、元服前から摂政であった九条兼実は、関白へと転じることなくまだ摂政であり続けていた。元服を迎えたなら摂政は関白へ転じる原則があるが、元服を迎えてもまだ天皇が幼いと判断されたならしばらくの間、それも数ヶ月ではなく年単位で、関白に転じることなく摂政のままであり続けることは珍しくなかった。その意味で九条兼実が摂政のままであることについては誰も何も言わないでいた。ただ、後鳥羽天皇は九条兼実が考えていたような、そして周囲が考えていたような少年ではなかった。時流を完全に読んでいたのである。
無論、この時点で後鳥羽天皇のもとに源頼朝上洛の知らせが届いているわけはない。いかに情報に秀でた源頼朝とて、ここまで早期に京都まで自身の情報を届けることなどできない。
建久へと改元してから八日後の建久元(一一九〇)年四月一九日、後鳥羽天皇の元服のために太政大臣に就任していた摂政九条兼実が太政大臣を辞任し、摂政専任となった。
幼帝の元服自体は藤原摂関政治の歴史において頻繁に見られたことであり、後鳥羽天皇の元服から四ヶ月を経たこの時点で九条兼実が太政大臣を辞職するのも、これまでの藤原摂関政治においてごく普通のことであった。また、天皇が元服しても摂政から関白に転じることはなく摂政であり続けていることも珍しいことではなかった。
元服を迎えても摂政が存在し続ける限り、基本的には摂政が天皇の内裏としての政務を執る。それは九条兼実が事前から想定していたことである。
後鳥羽天皇の元服を終え、自らの娘を入内させることに成功した九条兼実はここで、自身と皇室とのつながりをさらに強固なものとすべく策を練った。
後白河法皇と丹後局との間に産まれた少女への内親王宣下の際に、准三后と院号宣下の双方を用意するか否かで議論が紛糾し、後鳥羽天皇の元服をスムーズに執り行うために将来の院号宣下を考慮することを九条兼実が受け入れたことは既に記した通りである。その結果として覲子内親王は将来の院号が確約された上に准三后も得たこととなったのも既に記した通りだ。
九条兼実は、組織としての後白河院の後継者となり得る覲子内親王への対抗、より正確に言えば覲子内親王の実母として権勢を振るうことになるであろう丹後局への対抗と、自身の皇室とのつながりをさらに強めること、そして、肝心の皇室の権限強化を図ることとした。
その第一段として、四月二二日に後鳥羽天皇の生母である藤原殖子への准三后宣下と院号宣下が決まったのである。以後、藤原殖子は七条院の院号を得ることとなった。後鳥羽天皇は平家都落ちの影響で急遽擁立された天皇であり、源平合戦がなければ帝位に就くことはおろか皇位継承権を考慮されることもなかった人である。将来の帝位が期待された状態で生まれた皇族は、その多くが皇后ないしは中宮を母として生まれた男児であるが、後鳥羽天皇の生母である藤原殖子は皇后位を得た経験も無ければ中宮となった経験も無い。藤原殖子の父は坊門信隆こと藤原信隆であるから、藤原北家の人間であるものの、最高位は従三位修理大夫という、藤原摂関家の中でも傍流という経歴の人物である。そうした人物の娘である藤原殖子は高倉天皇の後宮に入るところまではできても、皇后になることもできなければ中宮になることもできないという境遇を余儀なくされていた。
ところが、その藤原殖子の産んだ男児が帝位に就いたことで藤原殖子の運命は、そして、既に故人となっていた坊門信隆の運命は激変した。後鳥羽天皇の即位から間もなく亡き坊門信隆に対して従一位左大臣が遺贈されたことで、後鳥羽天皇は左大臣の娘から生まれたという扱いになり、生母の地位の低さなど関係なくなった。そして、ここに来て藤原殖子に対する院号宣下である。こうなると、覲子内親王への院号宣下を実現させたところで相対的に覲子内親王に与えられる院号の価値が下がることとなる。丹後局としては愉快な話でなかったろうが、天皇の生母である女性に対する准三后と院号の宣下である以上、文句を言う余地は無い。もっとも九条兼実は、七条院藤原殖子と、その弟である坊門信清のことを一段低く見ていたようで、日記への記述や後の態度などを見る限り、利用する対象ではあっても敬意を払う対象とは捉えていなかったことが窺える。
そして、九条兼実の打ち出した第二弾が、建久元(一一九〇)年四月二六日の中宮宣下である。後鳥羽天皇のもとに入内した九条兼実の娘の藤原任子が中宮となったことで、九条兼実は藤原摂関家内の争いにおいてゴールまであと一つまで来ることとなった。そのゴールとは、藤原任子が後鳥羽天皇との間に男児を産むこと。その男児はかなり高い可能性で帝位に就く。過去二例の院政を踏まえれば、後鳥羽天皇が退位して上皇となり、産まれて間もない男児に帝位を授けることで院政を敷くことも考えられるが、白河院政も、鳥羽院政も、天皇の生母の父親が藤氏長者であるという例はなかった。それどころか、天皇の生母の実父が藤氏長者であるという例を求めるためには後冷泉天皇まで遡らねばならず、一二二年に亘って藤氏長者は自分の娘の産んだ男児を帝位に就けさせることに失敗し続けていたのである。だからこそ院政が成立していたのであり、ここで藤氏長者たる九条兼実の娘が男児を産むことに成功すれば院政を白紙に戻して摂関政治に回帰することも不可能ではなかったのである。
それに、そのときに院政が継続するとなっても院政を敷くのは後鳥羽天皇、いや、退位を前提とするのでそのときは後鳥羽上皇と記すべき人物となる。九条兼実と後鳥羽上皇のどちらが政治の実権を手にするかを考えたとき、若さゆえに経験の浅い後鳥羽上皇ではなく、院政時に帝位に就いている男児の摂政となっている九条兼実でなければならない。仮に後鳥羽上皇が飛び抜けて優れた実力を持った政治家であったとしても、法に基づく権限を有さない上皇ではなく、法に基づく権限を有する摂政により強い権限が渡るようでなければならない。
このときの九条兼実の脳裏に鎌倉における危機感は無かったと言えよう。いや、危機感が無かったのは九条兼実だけではなく、主立った皇族や貴族のほぼ全員が危機感を有していなかったと言える。彼らは一様に同じ考えであった。源平合戦が終わり奥州藤原氏も滅亡したことで、それまでの戦乱の時代が終わって平和が蘇ったと考えた。そこまでは問題ないが、その結果は院政の再復か藤原摂関政治の復活のどちらであって、そのどちらでもない第三の道については何ら考慮していなかったのである。
ところが、ここで言う「主立った皇族や貴族」に該当しない人物にまで目を向けると鎌倉方の手が伸びていたことがわかる。繰り返し述べているように、源頼朝という人は京都からの情報を定期的に受けていた人だ。そして、情報を遠くまで伝えることができる人となると、現在のようにほぼ全ての人がネットを通じて情報を遠くまで伝えることのできる時代と違い、この時代はごく一部の限られた人でなければ不可能である。つまり、京都から鎌倉まで情報を発することのできる限られた人を鎌倉方としても常置させておかなければならない。発信者自身が交替することがあるし、交替した発信者の個人的資質による情報の質の差異もあるが、それでも源頼朝か京都に誰かしらを滞在させ続けて情報を獲得し続けていた。そして、その「誰かしら」は、京都においてそれなりの社会的地位を獲得している人物でなければならない。つまり、朝廷にしろ、院にしろ、国家組織の中枢に食い込んでいる人物を鎌倉方の人物としてあり続けさせたのである。彼らは例外なく、京都における鎌倉方の代弁者にもなりうる人であった。
彼らは何も、源義経や北条時政のように明瞭な形で鎌倉の代理人となっていた人物ではない。言わばスパイとして朝廷や院の中に紛れ込んでいた人物である。その人物が鎌倉と接点を持つ人物であったことに周囲が気づくのは、鎌倉のスパイであることの役目を終え、かつ、スパイであったことが明らかとなったとしてもその後の人生に特に影響も無くなったときである。すなわち、スパイを探そうとする側にとってはとっくに手遅れなタイミングである。
源頼朝が上洛を考えていることが京都に伝わったとき、当初はあくまでも打診であり、実際の上洛はまだまだ先のことであろうとするのが多くの人の考えであったが、日を追う毎に源頼朝の上洛が現実味を帯びるようになった。
そして多くの人がこう考えるようになった。
なぜこのタイミングで上洛なのか、と。
それまで何度も上洛を促されながら上洛することなく、当初は源義経を、次いで北条時政を、そして一条能保を代理人として京都に留め置いたことは記憶に新しいところであるし、初代の代理人とすべき源義経については、その軍事力を後白河法皇が利用しようとしたために源氏内部での争いへと発展し、さらには奥州藤原氏の滅亡へとつながった。
京都がしきりに源頼朝の上洛を求め続けてきたのは平和の構築のためである。それなのに、戦乱が幕を閉じた今になって源頼朝が京都にやってくるというのである。必要なときに来ないでいながら、用が済んだらやって来るというのは、釈然としないものがある。
もっとも、源頼朝はかなり異例なことをし続けているのである。何しろ正二位の位階を持っているのだ。これだけ高位の位階を持っている人物が京都にいないというのは例を探すのが難しい話だ。たしかに、熊野詣に出かける、平清盛のように福原に滞在する、あるいは太宰府をはじめとする地方へ赴任するといった事情で京都を離れる貴族はこれまで当たり前のようにいたから、源頼朝とて何も先例の無いことをしているのではない。とは言え、平治の乱で敗れて伊豆に追放となってから現在まで一度も京都に戻ってきていないのである。この年で四四歳である源頼朝は、三一年間もの長きに亘って京都から離れ続け、京都から遠く離れた鎌倉に滞在し続けてリモートコントロールを展開し続けているのである。
政務のリモートコントロールには先例がある。この時代の人達が何かにつけて理想としていた藤原道長だ。頻繁に病床に伏すことの多かった藤原道長は、病床にありながらも情報を受け取り続け、書状を送り続けてきた。リモートコントロールの頻度で言えば歴代の有力貴族の中で群を抜いていると言えるし、藤原道長を理想とする貴族も多かった。ただ、その理想とする藤原道長もあくまでも京都市中に滞在し続けていたのであり、源頼朝のように京都から遠く離れた場所からリモートコントロールをしていたわけではないのである。源頼朝と藤原道長とは同列に認めるわけにはいかないのだ。たとえそれが実際に同列に値すると本心では認めざるを得ないにしても、いや、同列に値すると本心ではわかっているからこそ認めることは許されないのだ。
その源頼朝が、リモートを捨てて上洛する。そこには必ず何かしらの意味がある。しかし、その意味は京都の誰もが理解できずにいる。先に、源頼朝は京都から鎌倉への連絡を送る役割を負った人物を京都に滞在させ続けさせていたことを記した。そして、その人物を鎌倉のスパイと記し、その人物がスパイであったことが明らかとなったときにはもう手遅れであるとも記した。手遅れである理由はスパイとなった人物が京都を離れて鎌倉に、あるいは鎌倉以外ではあるが鎌倉方の影響力の強いところに身を置くようになったからでもあるが、その人が仮に京都に滞在し続けたとしてもやはり手遅れなのである。
なぜか?
その人物はたしかに鎌倉へ情報を送っているし、鎌倉からその人物へ向けての情報も届いている。ただ、そこにある情報は事実だけであり、真実ではないのだ。源頼朝が奥州藤原氏を討伐すべく軍勢を北へ進めたこと、奥州藤原氏を滅ぼしたこと、奥州藤原氏の残党が反乱を起こしたこと、そして、源頼朝が上洛を考えていること。こうした事実は情報として鎌倉から京都へと送られているが、肝心の目的が送られていないのだ。どういった目的があり、何のためにそのような行動をするのかといった情報が届いていないのに、スパイであるとして捕縛し鎌倉の真意は何かを問い質そうとしても、何の答えも得られない。知らないものを答えようがない以上、スパイを尋問してこれからの鎌倉方の動きを探るなど、どう足掻いても不可能である。
源頼朝が上洛に向けてどのような行動をとってきたかを時系列で追うと、以下の通りとなる。
文治四(一一八八)年四月、後白河法皇が院御所としていた六条殿が火災に遭い、後白河法皇が源頼朝に復旧工事の協力を依頼。それに対し源頼朝は予算と人員を提供するも、源頼朝自身は上洛することなく鎌倉に滞在し続けた。
文治五(一一八九)年五月、駿河国の地頭を罷免した。
文治五(一一八九)年七月、伊勢国の地頭を罷免した。
文治五(一一八九)年一一月、奥州合戦の恩賞を辞退した。
文治五(一一八九)年一二月、奥州合戦の恩賞を再度辞退した。
ここ二年間で源頼朝はこれだけの譲歩を京都に対して示していたのであるが、それに対する答えは無かった。全く無かった。そもそも源頼朝が示していた行動が譲歩であるとする認識がなく、ただただ院や朝廷の出す命令に従っていただけとする認識であり、源頼朝が独自の政治的見解を示すために譲歩したという概念は無かったのである。
源頼朝が上洛の意思を最初に示したのは文治五(一一八九)年の年末であるが、そのときはここまで喫緊となっていなかった。源頼朝自身は上洛の必要性は感じていたものの、奥州藤原氏を滅ぼしたことに伴う戦争終結と平和再復が上洛の主目的であった。しかし、その後の京都と鎌倉との温度差、あるいは、首都と地方との温度差が、地方の代弁者たる源頼朝の上洛という形になった。
そこまでして源頼朝は何を求めたのか。
法制上で記せば既に記したように正二位の位階に応じた権利と権力の獲得であるが、本心から言えば、京都が全国的対策として打ち出している政策が、地方にとっては過重な負担になっていることへの根本対策である。要は現場を見ることなく打ち立てた机上の空論が地方の暮らしを苦しめているのだ。過剰な負担について、源頼朝の権限で排除できることは可能な限り排除していた。地頭に対する不満の声が挙がっている土地の声に応えるように過剰な年貢徴税を求めた地頭を罷免した。それでも京都が求める地方の負担は限界を超えていた。戦争の悪影響もあるし、飢饉からの回復途上という事情もあるが、それを踏まえても今の地方に京都の需要を満たすだけの税負担はできない話であった。
源頼朝が文治元(一一八五)年一一月に守護と地頭を全国に設置する権利を得たと吾妻鏡が記した内容は、五畿、山陰道、山陽道、南海道、西海道の諸国に対し田一段あたり兵糧米五升を徴収する権利である。そして、この権利については文治二(一一八六)年二月末にこの権利が白紙化している。厳密に言えば未納分の納税免除である。注目していただきたいのは、権利対象として掲げられた地域から、東海道、東山道、北陸道、すなわち、鎌倉方の勢力の強い地域が除外されていることである。
法に基づく税の重さで言えば、律令制がもっとも軽く、摂関政治、院政、源平合戦と時代を経るにつれて重くなっている。というより、律令制に記されている税率が現実を無視するレベルでの軽さであり、法の隙間を縫っての徴税となると、律令制のほうが重くなり、摂関政治になると軽くなり、院政でまた重くなって、源平合戦で冗談では済まない重さになった。
かといって、税を受け取る側が年々豊かになっているかというとそんなことは無い。貴族の豊かさで言ってもやはり藤原摂関政治のほうが豊かであり、院政、源平合戦へと時間を経るに連れて豊かさが失われていった。理由は簡単で、貴族一人あたりの収益が減ったから。かつては荘園そのものが稀少な存在であり荘園を持つ貴族もまた稀少であった。それが、時代とともに荘園が増えたものの、その増加を超えるペースで荘園を有する貴族も増えていったために、貴族一人あたりの豊かさが減っていったのである。公卿補任を見ても、年を経るごとに高い位階の貴族が増えていること、議政官の絶対数が増えていることが読み取れる。そして、そのほぼ全員が藤原北家である。少し前であれば藤原北家に生まれたというだけで絶大な権力と豊かな暮らしが待っていたのに、時代とともに権力と豊かさを失うようになっていた。先祖から伝わった日記を読めば読むほど自らの時代の不遇を嘆くしかなかった。
この嘆きが広まっている中で保元の乱が起こり、平治の乱が起こって平家が政権を握り、源平合戦で平家が滅んだ。平家政権は藤原北家が政権を握り財力を握っている最中に平家の公達を押し込んでできあがった政権であり、権力と財力を藤原北家から平家が奪ったという構図にもなっている。おまけに、京都は二度も破壊された。福原遷都で建物が破壊され、木曾義仲の劫掠で資産が破壊された。つまり、奪われた権力と資産を取り戻すという動きがあり、復旧のための資産をかつて所有していた荘園からの収入に求めたのである。
さらに復旧を求める声が強くなっていたのが平安京とその周辺の庶民である。養和の飢饉で多くの人が餓死し、その後の木曾義仲の劫掠で飢饉を乗り越えた多くの人が亡くなり、生き残ることのできた人も家族を失い、財産を失い、住まいを失っていた。首都の庶民にとって京都の復旧は喫緊の話であり、復旧しなければ生きていけないという切実な問題かあった。藤原北家を中心とする貴族達が地方から年貢として取り立てた結果が市場(しじょう)に流れ込んだならば都市住民は生活を建て直すことができるのである。地方の人達に重税を課すこととなってしまうと説得したところで通用しない。古今東西、首都の人達が地方の庶民の暮らしにまで目を向けて自らの生活レベルを削減するという話はない。
源頼朝のもとには増税に苦しむ庶民の、特に東日本の庶民の声が届いていた。苛烈な取り立てを繰り広げる地頭も見られたが、取り立てに抵抗する地頭はもっと見られた。それでも根本的解決の必要性は感じていた。守護を派遣し、地頭を派遣して個々の取り立てに抵抗するより、源頼朝のもとに届いている地方からの声を国政に反映させる方が根本的解決になる。京都の人達の意識における民意の反映とは平安京とその周辺に住む庶民の声の反映であり、京都から離れた所に住む庶民の声の反映ではない。源頼朝は地方の庶民の声を国政に反映させるために上洛を決意したのである。
それでは、源頼朝は具体的にどのような形で反映させることを考えたのか?
自分が正二位の位階を持つ貴族であることを活かして位階相当の役職を獲得し、役職に応じて国政へ関与することを考えた。ただ、そのためには京都に永住しなければならない。
そうではなく、国家から位階相当の役職を獲得した上で、鎌倉に戻ってもなおその役職を以て権力を行使する方法を考えなければならなかった。
源頼朝という人は、あるいは、政治家としての能力の高い人は、やたらと新しい役職を作り上げることも、新しい仕組みを作り上げることもしない。既存の仕組みに基づく既存の役職を利用して現状の問題の解決を図るのが普通だ。既存であるためにどんなに前例踏襲を訴える人であろうと文句を言うことができない上に、既存であるために新しい方を創出する必要もない。既存であるのに誰もそのような利用方法に気づかなかったと周囲の人を感歎させるだけである。
これがもし、六年前以前であれば何の問題もならずに成功していたであろう。しかし、六年前に同じ役職を利用しようとした者がいたために、簡単には成功しないものとなってしまった。もっとも、六年前の記録が源頼朝にとってのヒントとなったとも言えるので、六年前がなければ源頼朝の計画は誕生しなかったとも言える。
その記録とは何か?
征夷大将軍である。
六年前の寿永三(一一八四)年、当時従四位下であった木曾義仲が京都において武力を振るうために必要な朝廷の公的な武官の地位に就くとしたら、武官のトップである左近衛大将も、実務のトップである検非違使別当も不可能であった。必要となる位階が低すぎるのである。そこで従四位下でも就くことのできる武官の地位で、かつ、朝廷の介入を拒否できる職掌となると、その時点で日本史上一五回存在していた職掌となる。天慶三(九四〇)年に藤原忠文が就任した征東大将軍だ。なお、この時点で征東大将軍と征夷大将軍との間に差異はなく、単に呼称の違いであった。そして、職掌に対する名称は統一されていなかった。
ただし、木曾義仲も先例に含めた日本史上過去一六回の例のうち、木曾義仲を含む八回と、その他の八回との間には大きな違いがある。「将軍」または「大使」と、「大将軍」だ。
この二つは何が違うのか?
「将軍」または「大使」は開始から終了までの責任を持つが、その途中でより上位の官職や権威のある者、あるいは朝廷そのものからの干渉を受ける。つまりシビリアンコントロールである。こうしたシビリアンコントロールは、律令制における武官の最上位である左近衛大将に対しても、実務における武力のトップである検非違使別当に対しても適用される。延暦三(七八四)年に持節征東将軍に任命された大伴家持も、二度の征夷将軍を経験した文室綿麻呂も適用対象だ。
一方、「大将軍」となると、作戦開始から終了までが完全にフリーハンドとなる。軍事作戦の終了まで、より上位の官職にある者であろうと、朝廷そのものであろうと、一切の干渉ができなくなり、途中経過を情報として受け取ることがあっても、途中経過に基づいて何かしらの口出しをすることは許されなくなる。藤原宇合が就いた持節大将軍や、紀古佐美が就任した征東大将軍はその例であるし、木曾義仲も含まれる。
そして着目すべきは過去一六回のうち、途中までは東北地方の蝦夷を対象とした役職であったが、天慶三(九四〇)年の藤原忠文は平将門討伐を、寿永三(一一八四)年の木曾義仲は源頼朝討伐を対象とした役職になっているという点である。もっとも、藤原忠文の場合は現地に赴任する前に平将門が討ち取られ、木曾義仲の場合は逆に源頼朝の派遣した軍勢に討ち取られたので、役職に応じた責務を果たす前に時間切れを迎えてしまった。手にした権限は大きかったのだが権限を十分に発揮する場面を迎えることがなかったことになるわけで、ここで仮定の話が入り込む余地がある。権限を発揮する場面を源頼朝が手にしたらどうなるか?
この役職は基本的に朝廷から東において発生している問題を解決するために大きな権限を与えられている。しかも、作戦開始はともかく作戦終了となると明瞭なものとはなっていない。つまり、まだ作戦継続中であると宣言すれば、朝廷からの干渉を得ることなく東国において絶大な権力を行使できることとなるのだ。それこそ鎌倉に留まり続けたままであっても、作戦遂行中であることを理由として上洛要請を堂々と拒否できる。作戦遂行地域の荘園や公領に対する税の負担を求められたとしても、作戦遂行に必要な予算の確保を名目として納税先を朝廷ではなく自分の元に向かわせることもできるし、作戦遂行に必要な対処であるとして年貢の比率を下げることもできる。それこそ、荘園や公領からの年貢が京都に送り届けられないことになっても、少なくとも法的には不都合では無い。
さらに、これは後述することとなる源頼朝の血統がある。後鳥羽天皇がどのように即位をしたかを考えたとき、源頼朝に流れる血統は藤原氏ですら手出しできない一点がある。その一点を前面に掲げれば、征夷大将軍という官職は、摂政だろうと太政大臣だろうと、おや、皇室ですらどうにもならないアンタッチャブルなものとなる。
ただし、一点だけ問題がある。源頼朝の位階が高すぎるのだ。過去一六例のうちの最高位は坂上田村麻呂の正三位であり、正二位の位階を得ている源頼朝は過去最高位よりも二つも格上だ。坂上田村麻呂の場合は厳密に言うと征夷大将軍に就任したときは従三位であり征夷大将軍としての職務を遂行している途中で正三位へと昇叙したという経歴であるから、こうなると源頼朝は坂上田村麻呂より三つも上の位階となる。たしかに坂上田村麻呂が征夷大将軍を務めた延暦年間と比べて位階のインフレが起こっているために、延暦年間であれば左右どちらかの大臣であってもおかしくない正二位という位階も、建久元(一一九〇)年時点ではそこまで希少価値のある位階ではない。坂上田村麻呂と源頼朝とでは源頼朝のほうが格上の位階であるが、貴族としての序列でその時代の何番目であるかを考えると、坂上田村麻呂のほうが上になる。
位階の高さと、時代による位階のインフレとが、このときの議論の一つを成すこととなる。
そこに源頼朝が入る準備ができあがったのだ。
ただし、ここで一人の人物が官職を辞している。源頼朝の京都における武門面での代理人であった北条時定がこのタイミングで左衛門尉を辞職したのである。このタイミングで辞した理由はまだ公表されていない。
建久元(一一九〇)年八月に入ると、源頼朝の上洛がいよいよ現実のものとなった。
源頼朝は武家の棟梁であるし、率いるのも武士である。鎌倉から京都へ向かうとなれば源頼朝とともに京都まで向かうのは武士の集団ということになるのだが、京都まで戦争をしに行くのではない。名目としては平和の再復を伝えるために一人の貴族が朝廷に報告をするために上洛する、実質上は地方の現状を国政に反映させるために上洛するのである。つまり、いつ頃に京都に到着するのか、また、京都に向かうのはどれだけの人数であるのかが明言されているし、京都のどこを滞在地とするのかも明言する必要がある。
ここまでは問題ないのだが、源頼朝の場合は一つの問題が生じる。
京都のどこに宿泊するのかという、一見するとどうでもいいような、しかし、実際には極めて大きな問題だ。源頼朝はたしかに京都育ちの人間であるが、京都に源頼朝の住まいなどない。平治の乱で追放されたのを最後に京都にまで戻っていなかったし、京都における清和源氏代々の住まいである源氏六条堀川亭は源義経が京都を脱出するときに焼き払ってしまって再建されないままであった。しかも、源頼朝は歴代の清和源氏の中で群を抜いた高い位階を持つ上流貴族となっている上に、歴代の清和源氏の中で突出した軍事力を持っている。ここで源頼朝がどこに住まいを構えるかという問題は、新しい有力者が京都でどのように振る舞うのかという問題につながる。
どういうことか?
一人の貴族として平安京に居を構えるのか、軍事組織として平安京に睨みを利かせるのか、源頼朝がどちらを選ぶのかによって、今後が大きく変わるのである。
有名無実化していようと、法の上では、平安京内で武力を持つことが許されるのは、朝廷から任命された武官であるか、あるいは、現職の検非違使に限られる。これは比叡山延暦寺をはじめとする僧兵の武装デモへの対処の影響であり、保元の乱も、平治の乱も、木曾義仲の上洛も、院宣や宣旨といった公的な命令があったから平安京の内部に武装したまま入ることができたのであり、公的命令も公的地位もない人物が平安京内に武装して入ることは許されない。それは源頼朝とて例外ではなく、いかに正二位という高い位階を持っていようと武官に対する公的官職を持っていない源頼朝は、武装を解除しなければ平安京内に入ることが許されない。源頼朝の住まいが平安京の内部であったなら、源頼朝は自ら武装を解くことを意味する。
ところが、この法が有効となるのはあくまでも平安京の敷地内であり、平安京と目と鼻の距離であろうと平安京との敷地から一歩でも外れれば法の適用対象外となる。こうした法の隙間を利用したのが平家である。平家が六波羅に本拠地を築いた理由、それは、六波羅は平安京ではないこと、それでいて平安京に行くには鴨川を東から西へ渡るだけでいいこと、そして、広大な武力を抱えておくことのできる敷地を持っていることである。平安京建設時、鴨川東岸の六波羅は頻繁に河川氾濫に見舞われる土地であり、埋葬地として利用されることはあっても住宅地とするのは厳しかった。六波羅よりさらに東に行けば清水寺があるが、清水寺は山の上の寺院であり、さすがに高さがあれば洪水被害に見舞われずに済む。清水寺のような高さを持たない河川沿いの平坦な地である六波羅であったが、時代とともに鴨川の河岸段丘が形成されたことで洪水被害に見舞われることのない土地へと変わっていった。この六波羅に最初に目を付けたのは平清盛の祖父である平正盛で、鴨川東岸に数千人規模の兵力を常備させることが可能な広大な敷地があることから伊勢平氏の京都における本拠地として造成し、六波羅は時代とともに賑わいを見せるようになって平家の一大拠点となったのである。
なお、仮に七月一八日に北条時定が左衛門尉を辞していなかったならば、選択肢として左衛門尉北条時定を利用するという手段も選べたのだが、既に辞しているために北条時定を利用するというのは選択肢から外れる。もっとも、北条時定が左衛門尉を辞職した理由は公表されていなかったのだが、その理由が八月に公表されると、北条時定が辞職に追い込まれたのはやむをえないと誰もが考えた。北条時定が何をしたのかというと、河内国の国衙領を勝手に占拠していたことが判明したのである。占拠を解かなければ地頭職を解職すると源頼朝から言われたため、左衛門尉を辞すと同時に占拠も解いたのである。この瞬間、源頼朝と直結する京都在駐の軍事統率者が消えた。
北条時定が選択肢から外れたこともあって、源頼朝が目を付けたのは六波羅であった。平家都落ちを最後に無主の地となった六波羅を、今後は鎌倉方の京都における拠点とすることにしたのだ。それも、源頼朝は狡猾な手段で手に入れることに成功した。
カレンダーは少し遡るが、建久元(一一九〇)年七月一五日に勝長寿院で万灯会を開催して平家の冥福を祈ったのである。現在は八月一五日の前後をお盆休みとしてある程度の長期休暇に入ることがあるが、これは明治維新後のことであり、それまでは旧暦七月一五日を盂蘭盆としていた。厳密に言うと、太陽暦を採用した後でも新暦七月一五日を盂蘭盆とするよう明治政府は求めたが、特に農耕において新暦七月一五日を盂蘭盆とすると支障が出るので、旧暦七月一五日に近く、かつ、同じ一五日であるということで八月一五日をお盆休みとする風習が広まった結果である。話を建久元(一一九〇)年に戻すと、当然ながら七月一五日が盂蘭盆であり、勝長寿院で万灯会を開催すること自体はおかしな話ではない。
だが、盂蘭盆会で出迎えるのが祖先ではなく平家の死者であるとなるとどうなるか?
源平合戦は源氏の勝利に終わったが、敗者となってあの世へと旅立った平家の面々は勝者である源氏によって許されたと宣言したこととなる。ただし、あくまでも許されたのは、死を迎えたか投降したかで源氏に敗れたことが明瞭となった平家のみであり、平家の残党として抵抗の意思を隠さない者は除く。
さらに、源頼朝はたしかに六波羅の地を上洛時に住まいとすることを決めたが、六波羅全体を源氏のテリトリーとするとしたのではない。亡き平頼盛の住まいが荒廃してしまっているので修繕して住まいとすることとしたのである。平頼盛は、平家都落ちに帯同することなく鎌倉に降り、前権大納言という経歴を活かして鎌倉における朝廷との交渉窓口をつとめ、源平合戦終結後に出家して政界を引退した人物である。平頼盛自身は政界を引退したが彼の子らは鎌倉における有力者の一翼を担い続けており、その縁もあって平頼盛の住まいであった邸宅が源頼朝の京都における住まいとなっても誰も異議を唱えなかった。とは言え、立地条件こそ文句なしでも邸宅そのものは放置されていたままであるため、修繕にかなりの費用と労力を要している。
当初は建久元(一一九〇)年中に源頼朝が上洛するものの具体的な日時は未定という話であったが、次第に一〇月中の上洛ということで話がまとまってきた。
源頼朝一人が上洛するのではなく、戦争をしにいく軍勢でないにしてもかなりの規模の武士が大挙して京都へと押し寄せることになるため、かなりの人数の移動となる。こうなると、受け入れる京都だけでなく、その途上の各地点で用意しなければならない物資も多くなる。特に問題なのが食糧だ。全くの手ぶらで移動するのではないにしても全員が鎌倉から京都までの食糧を背負って移動するわけではなく、途中でその地の有力者の私邸や寺院に宿泊させてもらい、食事を饗してもらうのであるが、そのためにはその地に食べ物が無ければ話にならない。飢饉が起こっているような情勢ではないから上洛途上やその帰路で飢饉に苦しむ光景を目の当たりにするわけではないにしても、有力者一行がやってくるというのは通過する側にとってそれなりに重荷になる。その重荷を多少なりとも軽くするのが、まだ地域に食糧の余裕のある時期に移動することだ。旧暦一〇月、現在のカレンダーに直すと一一月頃ならば収穫時期を終えて食糧にまだ余裕がある頃であるから、一行が通過するのであってもさほどの負担とはならない。
また、戦争の場合は相手を出し抜く意味もあるので行軍路を可能な限り秘匿とするが、今回は戦争では無いので、どのルートを通って鎌倉から京都まで行くかを事前に通知することとなる。
さらに、旅程を秘匿としないことは源頼朝の暗殺を企む人間に絶好の機会を与えることを意味する。都市鎌倉は、武士の、武士による、武士のための都市であり、その設計も武士としての最良を、すなわちこの時代における最高の防御機能を考えて構築されている。後の源実朝がどうなったかを我々は知っているし、鎌倉の御家人達の迎えた運命も知っているためにイメージが湧かないかも知れないが、少なくとも建久元(一一九〇)年時点の都市鎌倉は要人を暗殺させづらい都市構造になっている。これを暗殺者の立場で考えると、暗殺できる隙もタイミングも無い鎌倉から源頼朝が離れるという千載一遇のチャンスだ。
暗殺計画を立て始める前までは。
実際にはそのような甘い話などない。源頼朝の周囲を百戦錬磨の武士達が固めているのだ。建久元(一一九〇)年九月一五日に源頼朝の周囲をどのように固めて上洛するかを検討させているのだが、それが実に細かい。
まず、行列の先頭は侍所別当の和田義盛が受け持ち、最後尾は侍所所司の梶原景時が受け持つ。道中の宿泊は葛西清重が手配し、その他の休憩地点については八田知家と千葉胤信が準備する。鎧などの武具類については三浦義連と大曽根時長が、その他の日用品については堀親家が用意する。同行する人の管理監督については梶原景季と梶原景高の両者が責任を持つ。
院への進物については二階堂行政と一品房昌寛が、京都六波羅の屋敷の整備と周囲のへの贈り物については中原親能と大江広元は受け持つ。
つまり、源頼朝率いる一行の周囲を固めるだけでなく、行き先に事前に連絡を送って宿泊の準備をさせ、京都での滞在場所とその周囲の整備も進めることを前提とした計画である。そのため、建久元(一一九〇)年九月二〇日には、中原広元と北条義時の率いる先陣が一足先に鎌倉を出発、源頼朝率いる本隊は月が変わった一〇月三日に出発した。吾妻鏡によるとこのときの源頼朝の率いる一行は一〇〇〇騎を数えたとある。なお、鎌倉の留守を預かるのは北条時政が担当する。
吾妻鏡は何月何日に源頼朝ら一行がどこに滞在したかをある程度は記している。
まず、鎌倉を出発した建久元(一一九〇)年一〇月三日には相模国懐島、現在の神奈川県茅ヶ崎市に宿泊した。初日からあまり急がなかったのではなく、先頭が相模国懐島に到着したとき、最後尾はまだ鎌倉を出発していなかったと吾妻鏡にはあることから、長く伸び切ってしまった隊列を考慮した上での現実的な行動を選んだというところであろう。吾妻鏡によくある誇張表現と言ってしまえばそれまでであるが。
翌一〇月四日は酒匂宿、現在の神奈川県小田原市に泊まり、翌五日には関下、現在の神奈川県南足柄市に泊まった。現在の東海道新幹線を念頭に考えると距離を稼げていないように感じるが、これから大人数で箱根の山を越えようというのである。いきなり箱根に突入するより、箱根の手前で宿泊するほうが正解である。それに、源頼朝は上洛中であろうと移動に専念するのではなく政務も執らねばならない宿命がある。関下に滞在するというのは政務に専念できる環境整備を作り出すという目的もあった。
源頼朝ら一行がどのように箱根を踏破したのかの記録は無いが、一〇月九日に駿河国蒲原、現在の静岡市清水区で後白河法皇からの書状を受け取り返信を送っているので、この間に箱根越えをしていることとなる。現在の鉄道や高速道路なら簡単に箱根を越えられるが、この時代だけでなく明治時代に鉄道が敷設されるまで箱根は一日二日で越えられるような場所ではなく、京都から鎌倉まで七日で使者のやりとりをできるようになったとはいうものの、それはあくまでも急ぎの馬に乗ってのことであり、普通に鎌倉から上洛するのであればこれぐらいの時間を要するのはおかしなことではない。
一〇月一二日に駿河国岡部宿、現在の静岡県藤枝市に到着し、翌一〇月一三日には遠江国菊川宿、現在の静岡県島田市まで到着している。ただ、そこで一行はペースを少し落として、一〇月一八日に浜名湖西岸の橋本、現在の静岡県湖西市新居町に到着している。ここで遊女との時間を過ごしたとあるので後ほど北条政子に怒られたであろう。
一〇月二五日に尾張国須佐浦、現在の愛知県知多郡南知多町に到着した後、源頼朝は野間庄へと出向いた。浜名湖では遊女との一時を過ごした源頼朝も、このときは極めて真面目な面持ちであった。父の源義朝の墓がここにあるのだ。父の墓が丁寧に手入れされていることを確認し、朝敵となった源義朝の墓を丁寧に整えただけでなく維持管理のために三〇町もの田園を寄附した平康頼については、源平合戦期に所領を与えて厚遇を以て受け入れていた源頼朝である。このときは平康頼への報奨とはならなかったものの、亡き父の墓を守り続けてくれている寺院に対して布施を与えている。
さらに二日後の一〇月二七日には熱田神宮に参詣した。何度も記してきたことであるが源頼朝の母は熱田神宮の宮司の娘である。源頼朝にとっては自分の母方に関係の強い神社であり、源頼朝が利用できる最大級の強力な組織でもある。このときの源頼朝は父の墓に手を合わせたのと同じような神妙な面持ちであると同時に、今後を見据えた覚悟を認(したた)めたものであった。
建久元(一一九〇)年一〇月二八日、美濃国小熊宿、現在の岐阜県羽島市に到着した一行であったが、予定を変更して少し先にある美濃国墨俣まで移動して宿泊している。先に源頼朝暗殺を企む者がいると書いたが、その者が狙っていたのは小熊宿から青波賀、現在の岐阜県大垣市への移動途中であった。ただ、源頼朝はそれを逆手にとって小熊宿に到着したものの宿泊することなく美濃国墨俣まで移動したのである。一方、美濃国墨俣で待機していた高田重家は狙っていたタイミングを逃したばかりか計画が漏れてしまっていたことに慌てふためき、さらには流罪判決を受けて追放されていなければならなかった身であるにも関係なく自らの所領である墨俣に住み続けていたということで、暗殺計画を慌てて白紙撤回して、自分は謀反など企んでいないと弁明することとなった。
もっとも、この日のうちに美濃国墨俣に移動できたことは暗殺回避以外にももう一つ理由があった。青波賀は、源頼朝の次兄である源頼長が亡くなった場所であると同時に、平治の乱で敗れたために敗走せざるをえなくなった源頼朝が、父と兄の死を知らされた場所でもある。源頼朝は時間を稼ぐために前日に墨俣まで移動し、一〇月二九日の早い時間に青波賀に到着するというスケジュールの組み直しをした。それは、一つの計略も含んでいた。
源頼朝は、自分の父を風呂場で騙し討ちにした長田忠致とその息子の長田景致の親子を自分の御家人として迎え入れただけでなく、懸命に働けば美濃国と尾張国を与えることを約束していた。そして、源頼朝はこの親子に文字通り「ミノオワリ」を与えた。父の敵討ちとして斬首し、「身の終わり」を与えたのである。
長田忠致と長田景致の親子にとっては人生の終焉たる大惨事であるが、源頼朝にとっては些事である。長年に抱き続けてきた予定通りの復讐であり、上洛の途上で青波賀に立ち寄った際に果たさねばならないことであったのはその通りであるが、源頼朝は復讐のために人生を捧げてきたのではない。親子の首を切り落とした後で源頼朝は何事もなかったように西へと向かって近江国に入り、一一月二日に近江国柏原、現在の滋賀県米原市に到着し、一一月五日には近江国野路、現在の現在の滋賀県草津市に到着した。京都では、もう少し早く源頼朝が到着する予定なのに、まだ近江国で、到着が遅れそうだと知って戸惑いを見せている。その答えは吾妻鏡にある。表向きは大雨のせいで身動きできなくなっているということになっている。近江国、現在の滋賀県の天候は、ほとんどの場合京都でも同じ天候となる。京都でも大雨を観測しているときに、近江国から大雨のせいで動けずにいるという情報が届いたなら納得するしかない。
名目上は。
実際にはそのような名目で留まっているのではない。
後白河院から、源頼朝に与える新たな官職を何にするかの問い合わせがあり、その返信を届ける使者を派遣していたのだ。
一言で言うと茶番である。源頼朝にはもう権大納言の席が用意されているのだ。正二位の位階を持つ貴族に対する役職としては低いが、既に源頼朝と同じ位階の貴族や源頼朝より上位の位階を持つ貴族が数多くいる上、参議も中納言も経験したことのない人物がいきなり権大納言という高位の職務に就任するのは異例である。その異例を事前に打診し、返答を届ける使者を派遣したのだ。
雨が上がった建久元(一一九〇)年一一月七日の午前中に、京都は一つのニュースが響き渡った。
源頼朝らが間も無く京都へ到着するというのである。
それも一〇〇〇騎もの武士を従えての上洛である。その軍勢は戦争をしにいくための軍勢ではなく儀礼的なものであり、軍勢の装飾も実用ではなく見栄えを優先させている。要は軍事パレードだ。
京都とその周囲に住む人たちにとっては人生で一度でも目にできるかわからない一大イベントであり、多くの人が沿道に繰り出した。庶民は沿道に立ってパレードの登場を待っているが、貴族達は牛車に乗ったままパレードを待ち構えている。その中には後白河法皇もいた。皇族でありながら庶民の趣味に傾倒していた後白河法皇らしいと言えばその通りである。
京都滞在中の源頼朝は、亡き平頼盛が住まいとしていた六波羅の邸宅を仮の住まいとすることとしたので、源頼朝率いる軍勢も当然ながら六波羅へと向かうこととなる。六波羅は平安京ではなく平安京とは鴨川を挟んで東に位置する土地である。また、武官の公的地位を得ているわけではない源頼朝は武装したまま平安京の中に入ることができない。そのため、源頼朝率いる軍勢は平安京の中に入らず、現在の三条大橋のあたりで南に折れて鴨川東岸を六波羅へと向かって進んでいった。三条大橋のあたりで鴨川を東から西に渡ればそれはもう平安京であり、源頼朝は法令違反ギリギリの線を進んだこととなる。もっとも、平安京の手前まできて鴨川東岸を北上したり南下したりするのは寺社の武装デモで頻繁に見られた光景であり、平安京内外の住人にとっては、これまでに無い壮大な規模の軍勢であるという一点を除いては見慣れた光景である。
吾妻鏡にはこのときのパレードの様子が詳細に残っている。
まず、先頭を進むのは御家人ではない。後白河院への贈り物である砂金を入れた唐櫃一合である。院への贈り物としては最上級の部類であるが、同時に、砂金は東北産のシンボル的存在であり、鎌倉方が奥州藤原氏を倒したことを示す何よりのアピールになっている。
次に馬に乗った畠山重忠が進む。畠山重忠の周囲には家子が一名、郎従が一〇名付き添っている。
畠山重忠の背後には、三名六〇組、計一八〇騎からなる随兵が続く。随兵と言ってもその全員が鎌倉方の御家人であり、それぞれが源平合戦を乗り越えてきた歴戦の強者である。全員が馬に乗っているが、一頭の馬だけで一騎を構成しているのではない。一騎ごとに、当人と当人の乗る馬、替えの弓持ちとその弓持ちの乗る馬、矢を背負った小舎人が付き従っている。なお、畠山重忠と違って郎従は付き従っていない。
この一八〇騎の後ろに源頼朝が続く。乗り換え用の馬一頭、鎧周り品持ちが一騎、弓の入った袋持ちが一騎、源頼朝の鎧を着る者が一騎と続いて、馬上の源頼朝が続く。
源頼朝の後ろには水干をまとった面々一〇騎が続く。
水干の一〇騎の後には後陣随兵が一三八騎続き、最後に梶原景時と千葉常胤が来て、パレードは終わりだ。
そうした武士達の多くは京都に来た経験がある。源平合戦時に木曾義仲を京都から追い出した後に京都に入り、木曾方の武士達とは違って京都での略奪を働かなかった武士達である。また、その後の一ノ谷の戦いで勝利を収めてきた武士達であり、それから一年後に壇ノ浦の戦いで勝利を収めてきた武士達である。その後の凱旋でパレードをなす武士達の多くが京都を経験しているし、沿道に詰めかけた人達もパレードをなす武士が見慣れた顔の武士であることを理解している。
だからこそ沿道に詰めかけた人達は圧倒させられる。五年前の壇ノ浦の戦勝で凱旋してきた武士達が、五年の歳月を経て鎌倉方の隊列の一員となり、壮麗さで圧倒するようになったこと以上に、鎌倉方の勢力を、そして鎌倉方のトップである源頼朝の勢力を、これでもかと見せつけることなどない。
このパレードの中に、源邦業、中原親能、中原広元、宇都宮朝綱、小山朝光といった面々はいない。彼らは事前に六波羅に到着しており、六波羅で鎌倉方を出迎えたからである。
鎌倉方の上洛は事前通達のあった上で繰り広げられたパレードであるため、興味を持つ人は前から沿道に詰めかけてパレードを待ちわび鎌倉方の壮麗さに圧倒されたが、興味を持たない人にとってはその日の出来事のうちの一つというだけであった。たとえば、九条兼実の日記に記載されているのは源頼朝らが武具を纏い武器を持って六波羅に到着したというだけのことでだけであり、建久元(一一九〇)年一一月七日の日記の記述のうちの一つでしかない、ということになっている。
しかしいったい誰がこのときの源頼朝を無視できるというのか。源頼朝上洛は一年以上前から噂され続け、一ヶ月以上前から話題になり続けていたのである。
世情の話題を独占する源頼朝に対し別の話題で抵抗しようとした人ならばいた。たとえば後白河法皇は源頼朝上洛のおよそ半月前である一〇月一九日に東大寺大仏殿上棟式を開催させた。文治元(一一八五)年八月二八日に開催した東大寺大仏開眼供養の大盛況を、五年の年月を経てもう一度手に入れようと考えたのであろうし、それまで野晒(のざらし)になっていた大仏が無事に大仏殿の中に戻り、そして、平家の南都焼討に遭って廃墟と化した東大寺が復活するというアピール的なイベントを大々的に開催するのだから効果は抜群だ。ここで注意すべきは、大仏殿の完成ではなく上棟を祝う式であるということである。柱や梁などが完成し、屋根を支える棟木(むなぎ)も取り付けることに成功したのであって、工事そのものは続く。無論、上棟を祝うことは珍しくも何ともなく、開眼供養であれだけの大規模イベントを開催させた奈良の大仏なのだから大仏殿の上棟でも大規模なイベントとなってもおかしくないし、工事の進捗を考えてこのタイミングとなったとしても理由としては納得だ。ただ、源頼朝が京都へ向かっている、そして、京都内外の話題を源頼朝が独占している最中に開催するのは偶然であろうか?
後白河法皇は考えた。これで世間の話題を源頼朝から自分のもとへと取り戻すことになるはずだと。これが源頼朝ではない他の人物を相手とするならば後白河法皇の計画は成功したであろう。だが、源頼朝相手にこのような小細工など通用しない。京都の連絡を取り続けての上洛の途中であるにもかかわらず、源頼朝は後白河法皇の開催させた東大寺大仏殿上棟式を利用することに成功するのである。それは何も悪辣な企みではなく事実の公表でしかないのだが、事実の公表であるがために後白河法皇の計略は完全に失敗に終わったのである。
源頼朝は何を公表したのか?
東大寺大仏殿の復旧工事に用いる木材は全て鎌倉方が用意させたものなのだ。それも、関東から運び込んだのではなく現在の山口県東部にあたる周防国の守護である佐々木高綱に命じて、周防国から海路で奈良まで運び込ませたのである。源頼朝はそのことを公表させたのだ。源頼朝は京都から遠く離れた関東の人なのに周防国にまで影響力を伸ばすことができ、それでいて奈良の復興に手を尽くしているというアピールが成立した。後白河法皇が壮麗なイベントを開催しても、イベントのもたらす効果を源頼朝が手に入れてしまったのである。