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「命の潮流」

2024.10.07 04:54

Facebook清水 友邦さん投稿記事 「命の潮流」

4月30日は吉福さんの命日です。

吉福さんはニューエイジ、ニューサイエンス、スピリチュアル、トランスパーソナル、ホリステック医療と呼ばれる潮流の日本における中心人物だった人です。

その潮流に関連する本を200冊近く翻訳・監修しています。

日本時間の2013年4月30日12時頃ハワイの自宅にて肝臓がんで他界しました。69歳でした。

吉福さんと最初に会ったのは1974年か75年頃です。

吉福さんは74年にアメリカから戻ってきたばかりで、日本社会の何処に着地をするか模索している最中でした。

何冊か本を翻訳していましたが全然売れていませんでした。

そこで若い人の意見を聞きたいというので、20代の若造だった私を友人の伝法さんが、大久保の吉福さんの所に連れて行ってくれたのです。

それが吉福さんと会った最初の出会いです。

それ以来、ことあるごとに大久保を訪れるようになりました。

吉福さんは決して口あたりのいいことは言いません。歯に衣着せぬいい方をします。

とにかく、言っている内容と本人の実体がかけ離れていると無事ではいられませんでした。

そのために吉福さんから離れた人もいます。

私のたわいのない質問にも吉福さんは翻訳中で忙しいにもかかわらず用事が済んでから、めんどくさい顔をせずにきちんと向き合って答えてくれました。

本格的なシャーマンとは、自分が探訪してきた世界を、所属している文化にもちかえって、その文化内の言語体系のなかできちんと語れる人と吉福さんは語っていました

吉福さんはアメリカで自分が経験してきたことを日本社会に伝えようとして書いたり話したりしても理解されないことで挫折感を味わっていました。

言葉は比喩として、使うので、同じ言語を使用しても文化や価値観、体験などの共通の基盤がないと意味が通じません。

表象システムが異なると人は何を聞いても自分に都合の良い自己納得的な解釈をしてしまいます。私たちは極めて個人的な関係性の中で育った経験を投影して世界を見ています。

個人的なマインドで世界を解釈しているにもかかわらずそれを現実だと思い込んでいます。

私たちが思っている現実は砂上の楼閣です。

世界を認識している土台が実体のない思考でできているので意識が変容すると簡単に倒壊してしまいます。

西洋近代文明のバランスをとるかのように60年から70年にかけてアメリカではヒッピー、ニューエイジと呼ばれる運動が盛んになりました。

1943年4月16日スイスの製薬会社サンド社で化学者のホフマンはLSDの合成に成功しました。

1950年に商品化され1967年に完全に禁止されるまで驚くほどの早さで世界中にLSDは広がりました。

サイケデリック革命が起き、ヒッピーが社会現象となっていた66年にジャズミュージシャンとして吉福さんは渡米しました。

1967年にサンフランシスコ、ゴールデンゲートパークで「ヒューマン・ビーイン」集会がおきて、1969年に「ウッドストック・フェスティバル」が開催されています。

吉福さんはそのサイケデリック・ムーブメントの真っ最中に放り込まれたのです。

スティーブ・ジョブズの愛読書として知られていたラムダスの「ビー・ヒア・ナウ(Be Here Now)」を79年に日本で出版したのも吉福さんです。

「ビー・ヒア・ナウ」は70年代の精神世界のバイブルです。

今読んでも古さを感じさせません。それは永遠の哲学に属するからです。

「ビー・ヒア・ナウ」はティモシー・リアリーと共にLSDを研究した元ハーバード大学心理学教授、リチャード・アルパート博士がラムダスという精神世界のグルになるまでの体験を綴った本です。

ラムダスはLSDでいくらトリップしても薬が切れると冷めてしまうのが面白くなくて、絶望的になりました。

そこでハイでいられる方法を探してインドを旅をしてニーム・カロリ・ババというグルに出会い弟子となりババ・ラム・ダスというヨガ行者となったのです。

ニーム・カロリ・ババはニーム・カロリ村に住んでいた聖者という意味です。

ババは尊称なのでインドに滞在すると道の物乞いから私もババと呼ばれます。

ラムダスが旅用に持っていた強烈な効き目(普通の人が飲む6倍もの量)の LSDを大量に飲ませてもニーム・カロリ・ババはニコニコと笑って全く変わりがありませんでした。

精神世界の旅のゴールは、ドラッグや瞑想やセラピーでハイになることでありませんでした。

今ここにあるがままでいること、今に在る事が究極のハイなのです。

ニーム・カロリ・ババはドラッグなど飲まなくとも最初からハイだったのです。

ハイとローの二元性を超えていました。

このマスター、あの覚者、このセラピスト、あの先生とマインドは最高のものを得ようと忙しく探しまわりますが、欲しい物は今ここに最初から持っていたというのが「ビー・ヒア・ナウ」の教えです。

高収入のハーバード大学教授だったリチャード・アルパート博士は、高級車だけでなく、ヨットも飛行機も持っていました。

人生の意義や幸せはお金や物や地位を得ることだという従来の社会的な価値観を「ビー・ヒア・ナウ」は全部ひっくり返してしまったのです。

「ビー・ヒア・ナウ」はニューエイジ運動からトランスパーソナル心理学に至る入り口にあたる本でもあります。

実存主義心理学やゲシュタルト心理学はLSDを使用して形成されたと吉福さんは話してくれました。

LSDは日本で1970年に禁止になり日本にはその表面的なファッションだけが輸入され真のサイケデリック・ムーブメントは起きなかったといいます。

そのためトランスパーソナル心理学を導入する土台の部分がすっぽり抜け落ちていたといっていました。

知識や理論をいくら詰め込んでも日常の意識状態とは異なるトランスパーソナルな意識を理解することはできません。

サイケデリックス、瞑想やボディワーク、シャーマニズム、トランスパーソナル・サイコセラピーなどを通して直接経験しなければトランスパーソナルな状態は理解できないのです。

吉福さんは、現実と違う思い込みによって作られたマインドの物語を「メロドラマ」と呼んでいました。

「健常者も統合失調症患者も、自分の思い込みに従ってメロドラマを演じ、それを何度も何度も反復し、そのメロドラマから抜け出せずにいる」

人々はメロドラマの主人公を演じてマインドに巻き込まれています。

延々と繰り返されるメロドラマの中で偽りの自分を演じ続けると主人公は疲れてしまいます。

交通事故、手術、妊娠・出産、感情的・情緒的な過度の精神的負担、強烈なセックスの体験、ドラッグなどで自我が破綻した時にトランスパーソナルな状態に移行することがあります。

アイデンティティが激しく揺らいでいる状態なので日本社会は本人も家族、友人、医師もそれを病理と見てしまいます。

ユング派の精神科医のペリー博士を吉福さんは紹介しました。

ペリー博士は精神病といわれている人の多くは病院で治療されるものではなく人間の成長のプロセスの途上で浮上してくる一つのパターンであると考えました。

スピリチュアルな体験に襲われても、たとえそれがいかに破壊的なものであろうとも、一定期間その錯乱状態を受け入れてくれる人の支援があれば、プロセスを経過して、破壊や死のイメージはしだいに終息し、それに続いて復活や再生のイメージが現れて社会に適応していく自我が再生されました。

ペリー博士の研究によると、精神安定剤を投与された場合より、投与しない患者の方がはるかに回復率が高かったのです。

死のイメージから来る痛みや恐れがあると苦を避けようとして、直面しようとはしません。

それにしっかり向き合い自覚して直面すれば、意識の成長が起きて苦しみから解放されるのです。

吉福さんは78年ころから精力的にトランスパーソナル心理学を紹介し始めました。

体験的、実験的なセラピーを行いながらものすごい勢いで専門書を週刊誌のごとく次から次へと出版し続けました。

1985年京都でユング派の河合隼雄先生の協力を得て第9回、国際トランスパーソナル学会が開催されました。

吉福さんは着た事のない背広まで着て総合司会を努めました。

そのおかげで次第にトランスパーソナル心理学が日本でも知られるようになってきました。

しかし89年、突然、吉福さんは妻子を連れて日本を去ってハワイへ引っ越しました。

日本でのセラピストや心理学者、精神科医との人間関係に嫌気がさしたということです。

そのことを吉福さんは「日本にいるときから、できるだけ等身大の自分にかえって新しい環境のなかでやっていく時期がきているという、内側からの声や警告を、いくつも感じていたんです。そのままやっていると、日本という文化のなかでがんじがらめになって、他人の視線や気持ちをくみながら生きていかないと存在しえないような状態になるんじゃないか、という怖れのようなものがあって、そこから解き放たれて、より自由に生きていきたいと感じていた。」と語っています。

あるがままの自分を受け入れるということは、それまで自分が認めていなかった衝動を認めていくということです。

同時にそれは、それまで持っていた自己イメージを捨てていくことでもあります。

欲求や執着をあるががままに受けとめるタントラの道とすべてを神にあずけて自我を放棄するバクティの道は同じ道の段階的な二つの側面なのです。

ハワイに引っ越してからの吉福さんはサーフィンに凝り、ノースショアでサーフィンの世界大会をオーガナイズしたりしていました。

吉福さんは2000年から再び日本で精力的に活躍し、そのときに、私も20年ぶりに再会を果たすことが出来ました。

吉福さんは再会した時、成長したなととても喜んでくれました。

2007年に再会した時の吉福さんは64歳で本人も元気だろうと話すくらい非常に元気だったのでこんなに早く他界するとは思ってもみませんでした。

その時聞いた話では日本でしばらくフィールドワークしたあと本を出版すると言っていました。

のちにレクチャーをまとめた本が出版されました。

その後は引退してキリバスあたりの電気もないような赤道直下で暮らしたいとも言っていました。

吉福さんはマニュアルを重視するような修行システムが好きではありませんでした。

吉福さんは音楽を止めましたがライフ・スタイルは楽譜などに依らず即興で演奏するインプロビゼーション・ミュージシャンと同じだったように思います。

この世界には宇宙全体を貫く命の流れともいうべき潮流が在ります。

その生命潮流にたいする信頼感を持つ事が出来れば、より幅のひろい自己の全体性を取り戻す事ができるでしょう。

吉福さんの著書

『トランスパーソナルとは何か』 春秋社

『生老病死の心理学』春秋社

『トランスパーソナル・セラピー入門』 平河出版社

『生老病死の心理学』 春秋社

『処女航海 変性意識の海原を行く』 青土社、

『流体感覚』 対談:松岡正剛・見田宗介・中沢新一対談吉福伸逸、雲母書房

『楽園瞑想 神話的時間を生き直す』 宮迫千鶴対談吉福伸逸、雲母書房

『意識のターニングポイント メタ・パラダイムの転換とニューエイジ・ムーヴメントの今後』 松沢正博対談吉福伸逸 泰流社

『テーマは意識の変容 徹底討論』 岡野守也対談吉福伸逸、春秋社

『無意識の探険一一トランスパーソナル心理学最前線』TBSブリタニカ

『オルタナティヴ・ヴィジョン』阿含宗総本山出版局

『サンガジャパン なぜいま瞑想なのか』田口ランディ対談吉福伸逸 サンガ

『スピリチュアル・エマージェンス・ネットワーク(SEN)』吉福伸逸講義録 C + F研究所発行

『吉福伸逸の言葉 トランスパーソナル心理学を超えて追及した真のセラピーとは? 』コスモスライブラリー

『静かなあたまと開かれたこころ』 吉福伸逸アンソロジー サンガ

『世界の中にありながら世界に属さない』  サンガ