「私たちには言葉が必要だ」を読んで考えたこと
私の感情、喜びや痛みは私のものだし、事実として変えることはできないと、私は思っていたし、今も基本そう思っている。
その理由は、主に次のようなものだ。
1. 私が悲しいとか痛いと思った場合、その感情が起こったのは私の身体において起きたことなので、私以外の人は、その喜びや痛みを経験していない。
知っているのは私だけだ。
2. 私がある時、ある感情を感じたという事実は、自分を含めて誰も変えることはできない。
3. 他の人への影響について考慮の必要はあるものの、私が感じた感情をどう解釈し、どう表現するかは基本、私の自由だ。
たとえ私の生殺与奪の権限を持っている人がいたとしても、1と2については、何もできない。私が感じた感情を体験する事はできないし、過去の事実を変える事もできない。
でもその権限を持つ者は、3に介入できる。私を脅して黙らせる事ができてしまう。あたかも私が別の感情を感じているかのように振る舞うことを強制することもできる。
自分が権力を持っている事に無自覚で生きて来たタイプの人の中には、3の私の感情の解釈について意見するだけでなく、私の感情そのものまで支配しようとする人が時々いる。
私が何かを嫌がったという事や、楽しんだという事を許せない。変えられない事なのに。「無茶言うなよ」と驚く一方、その「権力者」の考えの浅さに安心もしていた。
だから男女間や他の差別の対処に必要なのは、まず差別する側が1と2を認識する事、それから3について理不尽な介入をなくす事だと思ってきた。
でも最近は「私の感情、喜びや痛みは私のものだ」という事実も危ういかもしれないと思うことがある。
私の感情は私のものだと思っていたけど、そうではなくなる事もしばしばあることに気づいたのだ。
医者だったら、麻酔薬を使って私の感覚を麻痺させる事ができる。
精神科医だったら私の感情をコントロールするような情報や薬を与えて、感情の感じ方や解釈を変える事ができる。
少なくとも、消費社会で欲望を刺激する広告に人が操られて来たのは事実だと思う。そういえばイギリスはアヘン戦争で中国人を麻薬漬けにしたのだった。
今は、インスタグラムやFacebookなどのインターフェイスは、スロットマシンなどと同じ、中毒性の高い視覚効果を利用して、一種の中毒状態を作るように設定されている。
権力の在り方は、いろいろ進化して来たなと思う。昔は奴隷のように、物理的に身体を拘束していたが、今は感覚や意思をコントロールする方法が発達してきた気がする。
まだしばらくの間、私は自分の身体と心を、私の事をよく知りもしない「権力者」とこれ以上共有したくない。
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