掲示伝道(1月no2)
「汝を救うものは ただ汝自らである」暁烏敏師
「宗教とは?」という問いを、旧統一教会などの問題と向き合いながらずっと考えさせられています。カルト問題によって、一層宗教とは恐ろしく、胡散臭いものだというイメージが強くなりましたが、本当に宗教とは恐ろしいものなのでしょうか?
ここに、宗教への私たちの向き合い方が問われているのではないでしょうか。私たちが宗教を求めるとき、それはそこに何らかの「救い」を求めているのでしょう。その求めている「救い」とは、生きていく上で、自分にとって都合のいい条件や環境を外から与えてくれることを望む心ではないかと思うのです。
しかし、宗教とは私たちに「How to」を与えるものでも、絶対的、カリスマ的存在によって救ってもらうことでもないのです。「いま・ここ・私」に目覚めること以外にはないのです。ですから、仏法を依り処としてたずねていくものは、「いま・ここ・私」以外にはないのです。その我が身の事実に目覚めることを「救い」というのでしょう。
私が迷い、苦しむのは、そのありのままの我が身を、我が思いでありのままに引き受けられないということにあると教えられます。我が思いは、いつでもできる自分、優秀な自分になって我を立てていこう、自分の思いどおりにしてやろうとして生きています。しかし、我が思いの通りに生きることなどできないのです。思い通りにならないとどうなるのかといえば、自らを自らの思いで切り捨てるのです。
仏さまはそのような私たちに対して、その我が思いを破り、「いま・ここ・私」のありのままのいのちに目覚めさせようとはたらきかけてくださっているのです。
大事なことは、仏法を依りどころとし、その教えによって「いま・ここ・私」としっかりと向き合って生きていくこと以外にはないのではないでしょうか。