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ZIPANG-8 TOKIO 2020 ~ 令和6年歌会始御製御歌 ~おちこちの旅路に会える人々の笑顔を見れば心和みぬ

2024.01.19 12:25

令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、
能登半島地震で被害を受けた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)


御 製

おちこちの旅路に会える人々の笑顔を見れば心和みぬ


天皇皇后両陛下(当時は皇太子皇太子妃として)東北震災地の岩手県にて 編集局イメージ

平成23年8月5日(金)被災状況ご視察(大船渡市大船渡町地ノ森地内(大船渡市))
被災地域をご訪問になり、皇太子同妃両殿下(現:天皇・皇后両陛下)は、大船渡市長より被災状況をご聴取になられました。


天皇皇后両陛下には、皇太子同妃両殿下時代を含め、日本のほぼ全ての都道府県時代を含め、日本のほぼ全ての都道府県に行幸啓で訪れておられます。(天皇陛下は47都道府県全て。皇后陛下にはオンライン2県を含め45都道府県。)令和になってからは、両陛下おそろいで、オンラインも含め28の都道府県の行幸啓になられています。


行幸啓で訪ねられた際、両陛下には、その地の皆様に温かく迎えていただかれたことを嬉しくお思いになり、この御製では、天皇陛下が、各地でお会いになった方々の、笑顔をご覧になってご自身のお心も和んで入らっしゃるお気持ちをお詠みになりました。


抜粋 (拡大できます。)


歌会始とは


人々が集まって共通の題で歌を詠み、その歌を披講する会を「歌会」といいます。既に奈良時代に行われていたことは、「万葉集」によって知ることができます。


天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに、毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始(うたごかいはじめ)」といいました。


歌御会始の起源は、必ずしも明らかではありません。鎌倉時代中期、亀山天皇の文永4年(1267年)1月15日に宮中で歌御会が行われており、『外記日記』はこれを「内裏御会始」と明記しています。以後、年の始めの歌御会として位置づけられた歌会の記録が断続的に見受けられます。このことから、歌御会始の起源は、遅くともこの時代、鎌倉時代中期まで遡ることができるものといえます。


歌御会始は、江戸時代を通じほぼ毎年催され、明治維新後も、明治2年(1869年)1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれました。以後、改革を加えられながら今日まで連綿と続けられています。


明治7年(1874年)には一般の詠進が認められ、これまでのように皇族・貴顕・側近などだけでなく、国民も宮中の歌会に参加できるようになりました。


明治12年(1879年)には一般の詠進歌のうち特に優れたものを選歌とし、歌御会始で披講されることとなりました。これは宮中の歌会始の歴史の中でも画期的な改革であり、今日の国民参加の歌会始の根幹を確立したものであります。


明治15年(1882年)からは、御製を始め選歌までが新聞に発表されるようになり、明治17年(1884年)からは官報に掲載されるようになりました。


大正15年(1926年)には、皇室儀制令が制定され、その附式に歌会始の式次第が定められました。これにより、古くから歌御会始といわれていたものが、以後は「歌会始」といわれることになりました。しかし、大正15年12月、大正天皇崩御のため昭和2年には歌会始は行われなかったので、実際に歌会始と呼ばれたのは昭和3年(1928年)の歌会始からです。


そして、先の大戦後は宮内省に置かれていた御歌所が廃止され、在野の歌人に選歌が委嘱されました。また、広く一般の詠進を求めるため、お題は平易なものとされました。預選者は、式場への参入が認められ、天皇皇后両陛下の拝謁や選者との懇談の機会が設けられるようになりました。


召人は広く各分野で活躍し貢献している人々を選び、陪聴者の範囲や人数を拡大しました。また、テレビの中継放送が導入されて、さらに多数の人々が歌会始に親しむことができるようになりました。こうして歌会始への国民参加は、ますます促進されました。


長い歴史を有する宮中の歌会始は、明治と戦後の改革によって世界に類のない国民参加の文化行事となりました。短歌は、日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものといわれています。この短歌が日本全国のみならず海外からも寄せられ、これを披講する宮中の年中行事が皇室と国民の心を親しく結ぶものとなっていることは、誠に喜ばしいことであります。


歌会始の儀(宮殿 松の間)


毎年1月の歌会始の儀では、天皇皇后両陛下の御前で、一般から詠進して選に預かった歌、選者の歌、召人(めしうど)の歌、皇族殿下のお歌、皇后陛下の御歌(みうた)と続き、最後に御製(ぎょせい)が披講(ひこう)されます。皇嗣殿下をはじめ皇族方が列席され、文部科学大臣、日本芸術院会員、選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。


この儀式は、読師(どくじ)(司会役)、講師(こうじ)(全句を節をつけずに読む役)、発声(はっせい)(第1句から節をつけて歌う役)、講頌(こうしょう)(第2句以下を発声に合わせて歌う役)の諸役によって進行されます。



令和7年歌会始のお題

「夢」と定められました。

※お題は「夢ゆめ」ですが、歌に詠む場合は「夢」の文字が詠み込まれていればよく、「夢幻」、「夢中」、「夢路」のような熟語にしても、また、「夢見る」のように訓読しても差し支えありません。


編集後記

この度の能登半島地震被災地からも参加されたと聞いております。ありがとうございます。
できることなら天皇家の被災地ご視察には愛子様にもご訪問いただけるならば、能登の人々(国民も)にはどれほど大きな励みとなる事かと、ひそかに願っております。


熊野三山「熊野那智大社」八咫烏


昔々

神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原の地へお入りになられ、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。

先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて休んでいるといわれています(烏石)。

愛子様ご視察の折には、きっと復活してその役目を果たすことと存じ上げます。



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

宮内庁

東海新報社

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


東日本大震災 ’’岩手県大船渡市より’’

岩手県 大船渡 (大船渡市大船渡町、1月21日)撮影:鈴木英里 東海新報社


あまりの僥倖に

まさか先客がいるとは思わなかった。朝日を拝む特等席、一番乗りはカモシカだった。邪魔者はこちらであることを自覚しながら見つめ合っていると、背後に昇るは「だるま太陽」…まれにしか見られない蜃気楼の一種…ではないか。

ゆっくり歩み去ったカモシカは、もしや神の国の使者だったのか。

(大船渡市大船渡町、1月21日)撮影:鈴木英里 


気仙杉を使い、気仙大工の意匠にて

複合型コミュニティー施設「陸前高田アムウェイハウスまちの縁側」


古今折衷

気仙杉ふんだん 知事賞に、複合型コミュニティー施設「陸前高田アムウェイハウスまちの縁側」、いわて木材利用優良施設コンクールで陸前高田市高田町の複合型コミュニティー施設「陸前高田アムウェイハウス まちの縁側」が、本年度いわて木材利用優良施設コンクール(県、県木材需要拡大協議会主催)で最高賞の県知事賞(優秀賞)を受賞した。建築家の隈研吾氏が設計し、気仙杉を使い、気仙大工の意匠を・・・


黄金の国ケセン

気仙(けせん)は、伝統文化がいまも豊かに息づく土地です。 歴史的には「黄金の国ジパング」の名の元となった金の産出地としても知られ、 信仰、祭礼、踊り、建築物や美術工芸などを今に伝えているのです。


柳田國男が絶賛した地としても知られ、宮沢賢治の創作の源の一つでもありました。 現在は、大船渡市、陸前高田市、住田町の2市1町に分かれていますが、 文化財の宝庫として、今もケセンは「黄金の国」と呼ぶにふさわしいエリアなのです。


ZIPANG-5 TOKIO 2020 忘れまい「3・11」/東海新報 写真が語る東日本大震災 ’’岩手県大船渡市より’’(15)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/15593168



白髭神社と紫式部

『白髭神社』湖中の大鳥居 その伝説とは・・・ 


白鬚神社 

御 祭 神・御 神 徳について

御 祭 神  猿田彦命(猿田彦大神)  御神紋 左三つ巴

御 社 名  白鬚神社   別社名 白鬚大明神・比良明神

御 神 徳  

古事記によると、猿田彦神は「天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は芦原中津国を光す神」だと見えている。高天原からこの国土に降る道の途中に、四方八方に分岐する道があり、猿田彦神はそこに居られて道を守り、道を教えた神様である。このことは天孫の降臨について、天孫の一行にその行く手を教え導かれた功績を褒め称えたものである。


これは大にしては国の行く手を示す神であり、小にしては道の守り神として悪いものを防ぎ、よき方への導きの神であったことを示したものと言えよう。


古事記には更に、この神の出自をいって「吾は国つ神」とあり、この国土にあって国民のための導きの神であったことを知らしめる。その導きの神徳は「御前に仕へ奉らむとて参向に侍らふ」ともある。天孫を始め、延いては多くの人々の前に立ち、人の世のすべての業や営みを善い方に誘導されたことは、私どもはこの神を信じ奉ずることによって、常にこの神が自分の前に立って善き方に導いて下さることを知らしめるものである。


日本書紀によると、この神は強い力の持ち主で威風堂々たる容姿の持ち主であったようだ。 「その鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余、また口尻明りて耀れり、眼は八咫鏡の如くにして耀輝けること、赤酸醤(ホウズキ)に似たり」とある。らんらんたる眼を持った偉丈夫の姿を彷彿とさせる大神である。


そしてその威力はこの神に「目勝つ神」はなかったとあるように、その眼力が窺えるのである。この神が岐れ路道におられて睨みを聴かせているのだから、悪いものは近寄ることさえできない。


紫式部の若き日を偲んで、白鬚神社の境内に歌碑が建立されています。


「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」

この歌は「源氏物語」の作者紫式部が、この地を通ったときに詠んだものです。
平安時代の長徳2年(996年)越前の国司となった父藤原為時から船路にて湖西を通り越前に向かいました。途中、高島の三尾崎の浜辺で、漁をする人々の網を引く見なれぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのがこの歌です。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「創建は約2000年前、近江最古の大社『白髭神社』湖中の大鳥居 伝説」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2786158/



熊野三山「熊野那智大社」

熊野那智大社鳥居・本殿


熊野那智大社について

熊野那智大社は、神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)の御東征を起源としている。


西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸されました。 一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の現れたる御神体としてお祀りされました。


神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原の地へお入りになられ、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。


先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて休んでいるといわれている。(烏石)


その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしておりましたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。


これが熊野那智大社の始まりとされている。

熊野那智大社別宮飛瀧神社

那智の御瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体としてお祀りされている。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「御創建1700年 熊野那智大社 光り輝く山『那智御瀧』から始まる神社誕生(その壱)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2862097



※現在、2200件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/


ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/


ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/


ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
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ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
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ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
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