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手袋を卓に境界線として

2024.01.24 07:10

マノマノ🌾@manomano_farm

人は食べものという「命」を頂くことで生きています。

そこに神聖を感じた先人は食べものと口との間の「橋渡し」をする道具を「箸」と名づけました。

料理の手前に箸が横に置かれるのは箸の向こう側は神様からの賜り物の聖域だから。

箸は食べものと口との橋渡しをする道具であり結界でもあるのです。


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65983990Z01C20A1000000/ 【コロナで再注目 石器時代からある手袋の意外な歴史】より

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、温暖な季節にもシックな手袋を少しだけ復活させるかもしれない。人類は何千年も前から、暖をとるため、ファッションのため、手を保護するために手袋をはめてきた。手袋は、英国王室の儀式から20世紀初頭の医療に至るまで、あらゆる場面で大きな役割を果たしてきた。

ステータスシンボルとして

古代の洞窟絵画を見ると、氷河期の石器時代にも、人類は何かを編んで作ったようなシンプルなミトンを使っていたことがわかる。現存する最古の手袋は、1922年にエジプトのツタンカーメン王の墓から発見された。紀元前1343~1323年に作られた、手首で結ぶタイプの麻製のおしゃれなものだ。

「馬で引く二輪の戦車に乗るときに使うものだと思われます」と、革と手袋の専門家で、『Gloves and Glove-Making(手袋と手袋づくり)』という著書があるマイケル・レッドウッド氏は言う。「これをはめて手綱を握るのですが、実用品というよりは象徴的なものだったのでしょう。古代の手袋は、王族にとっても、宗教にとっても、法制度にとっても重要な品でしたが、ツタンカーメンはこの3つを兼ねた存在でした」

当時、貧しい人や労働者は家庭で編んだ手袋を使っていて、上流階級の人々は布製や革製の手袋を使っていた。上流階級の人々にとっても、手袋は実用的なものだった。ホメロスの『オデュッセイア』にも、登場人物たちが棘(とげ)のある木から手を守るために手袋をするくだりがある。ヨーロッパの騎士は身を守るために(そして威圧感を与えるために)手首より長い金属製の「篭手(こて)」を身につけていた。

中世ヨーロッパでは手袋がさらに普及したが、五本指の手袋の製作にはミトンより多くの資源と技術が必要になるため、非常に丈夫なもの(戦士が使う鎖帷子(くさりかたびら)製の手袋や鍛冶屋が使う厚手の革製の手袋など)か、上流階級のファッションや儀式用のものしかなかった。

英国君主の戴冠式では、西暦973年のエドガー王の戴冠式以来、宮中の役人が君主の右手の手袋を外し、薬指に指輪をはめる儀式がある。1559年にエリザベス1世が即位式に臨んだときの手袋は、白のスエード製で、銀のふさ飾りがついていた。エリザベス2世が1953年6月2日の戴冠式で着用した真っ白な革手袋は、見た目に大きな違いはないが、より凝った作りになっていて、金糸で女王のイニシャル「ER II」の縫い取りが施されていた。

古代ヨーロッパでは、手袋を贈ることには、土地の譲渡や優遇措置を与えるという意味があった。騎士たちは戦いを挑むときに相手に向かって篭手を投げたが、この伝統の精神は後世に受け継がれ、紳士が決闘を申し込むときに手袋を投げるようになった。

エリザベス1世の時代には、ヨーロッパの上流階級は男性も女性も手袋なしで人前に出ることはほとんどなかった。ファッション史家で、米ニューヨーク州立ファッション工科大学博物館の館長でもあるバレリー・スティール氏は、「手袋の製作は複雑だったので、非常にぜいたくな品でした」と言う。ベネチア派の画家「ティツィアーノが肖像画を描いた16世紀の金持ちたちは皆、手袋をしているか、手袋を手に持っています」。またカトリック教会では、神父たちは純潔を示すために手袋をしていた。

ヨーロッパの宮廷では、宝石をちりばめた長手袋が男女を問わず人気だった。「長手袋にはしばしば香りがつけられていました。香りをつけることで、瘴気(しょうき)のせいでうつる病気を払えると信じられていたからです」とスティール氏は言う。香り付けにはハーブやスパイスが使われ、動物の排せつ物でなめされた革の悪臭を消すのにも役立っていた。

イタリア生まれのフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、16世紀のフランス宮廷で甘い香りのする手袋を広めただけでなく、これを使ってスペインの王族に毒を盛ったとして非難された。この噂話は証明されることはなかったが、何十年にもわたってささやかれ続け、アレクサンドル・デュマの1845年の小説『王妃マルゴ』に影響を与えた。

手袋産業の隆盛

18世紀から19世紀にかけてヨーロッパと米国が繁栄するにつれ、乗馬から宗教行事まで、あらゆる分野で多くの手袋が必要とされるようになった。「手袋は、中流階級や上流階級に属している証になりました。手袋をしていることは、それを買うお金があることと、太陽の下で素手で働く必要がないことを意味したからです」とスティール氏は言う。「つまり、何もする必要がない身分の証明でした」

19世紀の金持ちは1日に何度も手袋を取り換えていた。午後の外出には馬車遊び用の短い手袋を着用し、女性はパーティーで肘の上まであるオペラ手袋なども着用した。手袋は絹、綿、革(なかでも山羊革が珍重された)などで作られ、その多くが白かった。スティール氏は、「白い手袋はすぐに汚れるのでたくさん買わなければならず、頻繁に取り換えなければなりませんでした」と言う。

「手袋は、家の外に出るようになった女性たちの心もつかみました」と、英ヨーク大学の文化史研究者のスーザン・J・ビンセント氏は言う。「ガーデニング、ドライブ、氷河のトレッキングなど、女性たちが外で参加できる活動が増え、そのような場所に出て行くための服装が必要になったのです」

手袋に関連する複雑なエチケットや象徴も生じてきた。男性が手袋を外して握手をするのは信頼の証であり、女性が手袋を外してよいのは食事をするときだけとされた。手袋の普及とともに、手袋を収納するための細長い箱や、長手袋のボタンをかけるための編み針のような道具など、専用の品々も登場した。

 手袋を着用する人が増えると、最初はイタリアやスペインに、やがて英国や南北米大陸に、手袋の取引を中心とする町やコミュニティーが生まれた。英国では、1349年に設立され、今日も王室の行事などで活躍するロンドン手袋職人名誉組合を筆頭に、多くの手袋職人組合が組織された。米ニューヨーク州グラバーズビル(Gloversville)では、「手袋職人の場所」というその名にふさわしく、20世紀半ばまで、世界の手袋の約90%と、米国のなめし革の大半を生産していた。

手袋職人の男性は工場で働き、女性の多くは自宅で縫製をしていた。彼らは革の裁断の仕方や縫い方を工夫して、よく伸びつつも形を保ち、指にぴったりとフィットする手袋を作った。ほとんどの職人は、1764年にフランスで出版されたディドロとダランベールの『百科全書』に記されていたのと同じ、4つのピースからなる単純そうな型紙を使っていた。この型紙は今日の工場でも見られる。「この数百年、手袋の作り方は何も変わっていません」とレッドウッド氏は言う。「伸縮性のある素材は増えましたが、型紙はほとんど変わっていません。一見、単純そうですが、ぴったりフィットする手袋を作るのは非常に難しいのです」

ある愛の物語

職人たちは昔から手袋を使っていた。鍛冶屋は肘の上までくる耐火性の手袋をしていたし、庭師は丈夫な革手袋をしていた。しかし、医師が手術や検査の際に手袋を着用するようになったのは1894年からだった。それはラブストーリーとして始まった。

当時、米ジョンズ・ホプキンス大学病院の初代外科医長をつとめていたウィリアム・スチュワート・ハルステッドは、手術室看護師のキャロライン・ハンプトンに引かれていた。キャロラインの手は、病院内の消毒に使う石炭酸などの強い薬品でひどく荒れていたので、ハルステッドはゴム会社に彼女専用のラテックス手袋を作らせた。手袋のおかげでキャロラインの手荒れは治り、ほかの医療従事者たちも手袋を着用するようになったという。のちにキャロラインとハルステッドは結婚することになる(彼らの関係とハルステッドの生涯は、クライブ・オーウェン主演の2014年のテレビドラマシリーズ『ザ・ニック』のモデルになった)。

2018年、中国河北省の工場で医療用手袋を製造する工場労働者たち。中国は年間130億組以上の医療用手袋を製造して世界に輸出している(PHOTOGRAPH BY YANG SHIYAO, XINHUA/EYEVINE/REDUX)

1960年代に帽子とともに衰退

20世紀に入っても手袋はまだ日常的に使われていた。ドライブ用手袋は男性が自動車を運転するのに便利だったし、女性たちは前世紀と同じぴったりした長手袋をつけていた。不思議なことに、1918年から1919年にかけてのインフルエンザのパンデミック(世界的な大流行)の際にも手袋は広く着用されていたが、手袋が感染を防ぐという認識はなかったようだ。「新型コロナウイルスではものの表面に付着したウイルスによる感染が警戒されていますが、『スペインかぜ』の時代には、人々は咳とくしゃみによる感染しか警戒していなかったのです」とレッドウッド氏は言う。

スペインかぜのパンデミックが終息した1920年代になると、新たな楽観主義と自由の風潮から、女性用の膝丈のフラッパードレスや男性用のカジュアルなスポーツウエアなどの新しいスタイルが生まれた。「女性の髪やスカートの丈が短くなっていったように、手袋も短くなり、フォーマルさは薄れていきました」とビンセント氏は言う。それでもドレッシーな手袋は消えなかった。女性たちは1960年代になっても社交や仕事の場で手袋を着用しつづけた。レッドウッド氏は、「女性たちはタイピングをするときにも手袋をしていました。すぐにインクで汚れてしまうので、非常に高くつきました」と言う。

1960年代後半の社会やファッションの激変により、とうとう「きちんとした社会では誰もが手袋をしなければならない」という考え方がなくなり、手袋は冬場や庭仕事に使う実用品になった。「女性が帽子をかぶらなくなったのもその頃です」とスティール氏は言う。「帽子やネクタイをしていないと品位を保てないというブルジョワ的な慣習は葬り去られ、人々は好き勝手な服装をするようになりました」

しかし、誰もがマスクをし、ひっきりなしに手を消毒している今日の世界では、そんな手袋が復活してくるかもしれない。スティール氏は、「おしゃれな人たちは、醜い紫色のラテックス製手袋を着用しつづけたくはないでしょう」と言う。「リトル・ブラック・ドレスならぬシンプルな黒い手袋を製造すれば、欲しがる人はきっといます」


季語が手袋の句

 手袋を脱いで握りし別れかな

                           川口松太郎

男同士の別れだ。いろいろな場面が思い浮かぶが、たとえば遠くに赴任地が決まり旅立っていく親友との駅頭の別れなどである。日頃は「手袋の手を振る軽き別れあり」(池内友次郎)程度の挨拶であったのが、もうこれからは気軽に会うこともできないとなると、お互いがごく自然に手袋を脱いで固い握手をかわすことになる。力をこめて相手の手を握り、そのことで変わらぬ友情を誓いあい、伝えあう。このような場合に手袋を脱ぐのはごく自然なふるまいだし、礼節の初歩みたいなものだけれど、脱ぐべきか脱がざるべきか、判断に迷うことが日常には多い。とくに、女性の場合は迷うのではなかろうか。映画で見る貴婦人などは、まず手袋を脱がない。それは貴婦人だからであって、貴婦人でない現代女性は、いったい着脱の基準をどのあたりに定めているのだろう。山口波津女に「花を買ふ手袋のままそれを指し」という句がある。こんな場面を句にしたということは、この行為が自分の価値基準に照らしてノーマルではないからである。本来ならば、手袋を脱いで店の人に指示すべきであったのだ。おタカくとまっているように思われたかもしれないという危惧の念と、急いで花を求めなければならなかった事情との間で、作者の心はいつまでも揺れ動いている。(清水哲男)

 手袋にキップの硬さ初恋です

                           藤本とみ子

現在のやわらかいキップ「軟券」に対して、昔の硬いキップは「硬券」という。改札で、パチンと鋏を入れてもらったアレだ(写真参照)。「手袋」をしていても、確かにキップの硬さが掌に感じられた。それを「初恋です」と言っているわけだが、現在進行形の初恋ではなくて、昔のことを思い出している。しかし「初恋でした」と言わないのは、作者が当時の少女の気持ちにすっかり戻っているからなのだ。そして、このキップの硬さには、二つのニュアンスが重ねられているのだと思う。一つは、初恋を覚えたころの時代背景を硬券に代表させ、もう一つは、手袋を通した硬い感触の心もとなさを表現している。きっと、毛糸の赤い手袋だろうな。具体的なシチュエーションはわからないけれど、電車の中で硬いキップを握りしめ、ずうっとその人のことを想っている少女の純情は伝わってくる。想っただけで緊張する思春期特有の心身のありようも、また手袋を通したキップの硬さに通じているようだ。いまのように、高校生が町中を堂々とペアで歩けるような時代ではなかった。でも、そんなころの初恋のほうが、いつまでも甘酸っぱい思い出として新鮮に蘇りつづけるのではなかろうか。これぞ、まさに「初恋です」。いい句です。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)

 反論のありて手袋はづしけり

                           西村弘子

季語は「手袋」で冬。これは、ただならぬ雰囲気ですぞ。喧嘩ではないにしても、その寸前。と、掲句からうかがえる。作者自身のことを詠んだのかどうかは知らねども、句を見つけた俳誌「鬼」(2004/No.14)に、メンバーの野間一正が書いている。「弘子さんは、意見をはっきり述べ納得するまで自説を曲げない。一方、頭脳明晰、理解早く、後はさばさば竹を割ったようなさっぱりとした性格の、大和撫子である」。いずれにしても、こういうときの女性特有の仕草ではあるだろう。男が「手袋」をはずしたって、別にどうということはない。ほとんど何のシグナルにもならない。しかし、女性の場合には何かが起きそうな気配がみなぎる。状況としては、相手と一度別れるべく立ち上がり、手袋をはめたのだが、立ち上がりながらの話のつづきに納得できず、もう一度坐り直すという感じだ。周囲に知り合いがいたら、はらはらするばかり。知り合いが男の場合には、口出しもならず、ただおろおろ。決して喧嘩ではないのだけれど、私も周囲の人として遭遇したことは何度かあって、疲れている場合には内心で「いい加減にしろよ」とつぶやいたりしていた。でも、女性がいったんはめた手袋をはずすだけで、その場の雰囲気が変わるのは何故だろうか。それだけ、女性と装いというのは一心同体なのだと、いかにも知ったふうな解釈ですませてもよいのだろうか。ううむ。『水源』(2004)所収。(清水哲男)

 漂へる手袋のある運河かな

                           高野素十

おい、おい、ちょっと待てよと虚子は慌てたに違いない。「素十よ、確かに俺は写せとは言ったけれど」と。虚子が「ホトトギス」内の主観派粛清の構想を練ったのは、飯田蛇笏や渡辺水巴、前田普羅などの初期の中核が、主観へのこだわりを持っていたから。見せしめに粛清され破門となったのは主観派原田濱人。そして、虚子は素十の作品を範として示して、「ホトトギス」の傾向かくあるべしと号令を発する。標語「客観写生」の始まりである。素十はいわば虚子学級の学級委員長として指名されたのである。心底虚子先生を尊敬して止まない素十は、言われるままに主観を入れずただひたすら写しに写した。その結果こういう句が生まれてきたのである。「客観写生」に対する素十の理解は、素材を選ぶことなく眼前の事物を写すこと。その結果、従来の俳句的情緒から抜けた同時代の感動が映し出される。たとえばこの句のように。虚子が考えていた「客観写生」はそれとは違う。従来の俳句の「侘び、寂び」観の中での写生。虚子のテーマは写すことそのものではなく、類型的情緒の固定化だった。運河に浮く手袋のどこに俳句的な情緒があるのか。虚子は自分の提唱した「客観写生」が、その言葉通り実行された結果、自分の意図と違った得体の知れない「近代」を映し出したことに狼狽する。モダニズムが必ずしも一般性を獲得しないことを虚子は知っていたから。虚子は慌てて「客観写生」を軌道修正し、「花鳥諷詠」と言い改める。「写生」が、本意と称する類型的情緒と同一視されていく歴史がこの時点から始まるのである。『素十全集』(1971)所収。(今井 聖)

 床に児の片手袋や終電車

                           小沢昭一

職業柄、決算期には仕事を終えるのが夜遅くなり、渋谷駅で東横線の終電車に飛び乗ることも少なくはありません。朝の通勤ラッシュには及ばないまでも、終電車というのはかなりの混みようです。それも仕事帰りの勤め人だけではなく、飲み屋から流れてきた男女も多く、車内はがやがやとうるさく、本を読むこともままなりません。それでもいくつかの大きな乗換駅を過ぎるころには、車内の混雑もそれほどではなくなってきます。それまで、大きな体のサラリーマンの背中に押し付けられていた顔も、普通の位置に戻ることができました。前の席が空いて、ああ極楽極楽と座った目の先に、小さなかわいらしい手袋が落ちています。そういえばあの混雑の中に、子供を抱いた女性がいたなと、思い出します。もうどこかの駅で降りてしまったもののようです。おそらく、子供だけが、手袋が落ちた瞬間に「あっ」と思ったのでしょう。「おかあさん」と知らせるまもなく、母親は人ごみに押されるままに、電車を下りてしまったのです。終電車という熱気のなかの雰囲気、抱かれた子供の、落ちてゆく手袋への視線、子供を抱きかかえて乗り物に乗ることの不自由さ、などなど、さまざまな思いがない交ぜになって、この句は感慨深いものを、わたしに与えてくれます。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)

 手袋は手のかたちゆゑ置き忘る

                           猪村直樹

暦の上ではもう春です。それはわかっているのですが、依然として風は冷たく、もう少し冬に、はみ出してもらっていてもよいでしょうか。今日の句の季語は「手袋」、まだ冬です。この句を読んで印象に残ったのは、脱いだそのままの手袋が、手の形のすがたで、テーブルの上に置いてあるという視覚的なものでした。手はまだ冷たく、かじかんでいるがゆえに、脱いだ手袋をすぐにたたむことが出来なかったのでしょう。あるいは、家に帰ったら、ただならぬ出来事がおきあがっていて、手袋などにかまっていられなかったのかもしれません。いったい、脱ぎ捨てられた手袋の形は、どんなふうだったのでしょうか。何かを掴まえようとするかのように、虚空へ差し伸べられていたのでしょうか。あるいはテーブルにうつむいて、疲れをとっている姿だったのでしょうか。さきほどまで、びっしりと人の手が入っていたところには、今は冬のつめたい空気が流れ込んでいます。ところで、読んでいてひどく気になったのが「ゆゑ」の一語でした。朝の通勤電車の中で、僕はこの「ゆゑ」の意味するところをずっと考えていたのですが、どうにもすっきりとした解釈には至りませんでした。自分の手なら、どこかに置き忘れることもたまにはあると、言っているのでしょうか。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)

 夕日いま忘れられたる手袋に

                           林 誠司

こういうセンチメンタルな句も、たまにはいいな。忘れられている手袋は、革製やレースの大人用のものではない。毛糸で編まれて紐でつながっているような子ども用のそれだろう。どうして、そう思えるのか。あるいは思ってしまうのか。このことは、俳句という文芸を考えるうえで、大きな問題を孕んでいる。つまり俳句はこのときに、どういう手袋であるのが句に落ち着くのか、情景的にサマになるのかを、どんなときにも問うてくる。要するに、読者の想像力にまかせてしまう部分を残しておくのだ。だからむろん、この手袋を大人用のそれだと思う読者がいても、いっこうに構わない。構わないけれど、そう解釈すると、「夕日いま」という配剤の効果はどこにどう出てくるのか。「いま」は冬の日暮れ時である。忘れたことにたとえ気がついても、子どもだと取りに戻るには遅すぎる。すぐに真っ暗になってしまう。そういう「いま」だと思うからこそ、そこにセンチメンタルな情感が湧いてくる。赤い夕日が、ことさら目に沁みてくるのである。『退屈王』(2011)所収。(清水哲男)