キトラ古墳
https://www.asahi.com/articles/ASR3T6WSMR3QPOMB01Z.html 【キトラ古墳壁画って?】
より
オシドリの「はなくいどり」は朝日新聞奈良総局の公式キャラクター。正倉院宝物にも描かれた吉祥文様です。花をくわえて、最新のニュースや身近な話題を求めて県内を飛び回ります。
はなくいどり 奈良県明日香村の文化財で、またすごい話題があったって?
A キトラ古墳の極彩色壁画のことだ。辰(たつ)、巳(み)、申(さる)の図像があったことが、科学的な調査で確実になった。頭が獣で体が人間の姿をした「十二支像」だ。「今年のえとは卯(う、ウサギ)」というように、十二支は今もポピュラー。これまでに、寅(とら)や午(うま)など6図像が確認されている。
は これを機にキトラ古墳の基本を学びたいな。
A ちょうど良い時期かも。今年はキトラ古墳の石室に描かれた壁画が見つかって40年を迎える。1983年11月7日、ファイバースコープによる石室内の調査で、アルファベットの「Q」のような図像があることが判明。古代中国の方角の守り神・四神で最初に確認された玄武だ。北壁に描かれていた。
は ほかの四神は?
A すべて確認されている。東壁には青龍、西壁には白虎、南壁には朱雀。朱雀をデザインした「飛鳥ナンバー」の車を見かけた人もいるかもしれない。数あるご当地ナンバープレートの中でも上位にくるクールさだろう。
は 四神以外の壁画は?
A 日像・月像や天文図も。天文図は現存する世界最古の本格的な星図とされる。天文図のある天井壁画は、「日本天文遺産」に認定されている。十二支像は、東西南北の壁面に四神とともに3体ずつが描かれたと推測されているが、卯、未(ひつじ)、酉(とり)の3図像は失われたとみられる。
は キトラ古墳そのものの特徴は?
A 7世紀末~8世紀初めに造られたとされる2段になった円墳だ。石室は二上山の凝灰岩の切り石を組んで造られている。古墳は特別史跡、壁画は国宝だ。葬られた人は男性らしいけど、特定されていない。昨年、極彩色壁画発見50年を迎えた高松塚古墳(同村)と重なる点も多い。
は 逆に違いは?
A 高松塚古墳にある「飛鳥美人」でおなじみの人物群像がキトラ古墳にはない。一方、今回話題となった十二支像は高松塚古墳にはない。
高松塚古墳にも四神は確認されたが、朱雀は見つかっていない。盗掘で壊された南壁にあった可能性が指摘されている。キトラ古墳も盗掘されたが、朱雀は大部分が損傷を免れた。
は 貴重な壁画はどうやって守っているのだろう?
A 高松塚古墳の壁画と同じく、いまは古墳の外の施設で管理されている。壁画は石室に塗られた漆喰(しっくい)に描かれていた。しかし調査で、漆喰層が浮き上がるなど崩落の危険性があることが判明。石室から取り外して保存処理するという方針が決まった。作業は2004年に始まり10年に終了。22年発行の「国宝キトラ古墳壁画修理報告書」によると、1千片以上のピースに分けて取り外したそうだ。
は 壁画の実物を見たくなった。
A 文化庁は、古墳そばにある「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」で年に4回、壁画を無料で一般公開する機会を設けている。昨年は「高松塚50年」で様々な展覧会やイベントがあった。キトラ古墳にとって節目にあたる今年も、飛鳥地域の歴史の奥深さを学ぶ取り組みが増えたらと願う。(清水謙司)
https://yaseta.hateblo.jp/entry/2019/10/24/185437 【キトラ古墳の四神の壁画と高御座(たかみくら)台座の麒麟の絵の関係】より
令和元年10月22日、徳仁(なるひと)天皇陛下の即位を内外に宣明する「即位礼正殿の儀」が皇居宮殿で行われました。参列された世界180カ国の高官と日本国民により祝福されました。
天皇陛下が高御座(たかみくら)にお立ちになり、即位を宣明するおことばを話された時、その高御座の上部には鳳凰(ほうおう)の飾りが取り付けられ、下部の壇には麒麟(きりん)の絵が描かれているのに気がつきました。
そして、今年の1月から毎月、私のブログに絵をアップロードしていますが中国の古代思想の五行説由来の5獣とキトラ古墳壁画の四神の関係を描いた平成31年3月の絵が抜けていることに気がつきました。
700年頃に作られたキトラ古墳は1983年11月に奈良県明日香村で発見され、古墳の石槨(石棺)内部の東西南北の壁にそれぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武の絵が描かれていました。(5獣のうちの麒麟は別の壁に描かれているかもしれませんが見つかっていないようです。)
送らばせながら「キトラ古墳壁画の4神の絵」をアップロードしました。
【参考】
1.皇后の御張台(みちょうだい)の上部の飾りは雌(めす)の鳳凰の鸞(らん)で鳳凰とともに中国伝説の霊鳥だそうです。
2.「陰陽思想」は中国で紀元前(BC)2000年頃、作られ、「五行思想」はBC1900年頃の殷の時代に作られたと言われています。
中国最古の暦は紀元前1700年~紀元前1100年(殷の時代)の殷暦で十干と十二支を組み合わせた六十干支を日付に用いられ、1ヶ月30日、2ヶ月で六十干支が一巡する太陰太陽暦を作りました。
この頃、陰陽思想と五行思想が一緒になり陰陽五行思想(説)ができ、暦にも取り入れられました。
紀元前700年頃、太陰太陽暦の季節のずれを調整し、改良されました。
日本に初めて暦(太陰太陽暦)が入ってきたのは紀元後の西暦553年の欽明天皇の時代でした。
太陰太陽暦陰の伝来とともに、陰陽五行説など関連書物などもこの頃入ってきたと思われます。