岩田奎『膚』
https://fragie.exblog.jp/32921554/ 【天才とは呼びたくない。(しかし…)】より
思い出のプーケットの夕日。
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夕日をみる舟。
タイの島プーケットでこんな風に夕日をみたということが、すでにわたしにとっては現実のものと思えなくなっている。
いやすでに現実ではなく、これはわたしの頭のどこかにはりつけられた一片のおぼろげななにか、なのだ。
だからこうして写真で確認して一瞬の現実だったそのなにかを取り戻そうとしているのかもしれない。。。。
今日も来客の多い一日となった。
取引先の印刷屋さんが二組み社長さんと一緒に新年のご挨拶にみえたりしたが、印刷屋さん同士がかちあったりして、丁寧な応対もできないままにお帰りになった。遠くからいらしてくださった方もあり、申し訳ないことである。
こんなことはあんまりないのだけれど。。
そして、目下句集制作をすすめている俳人の仁平勝さんが、装釘の打ち合わせにお見えになった。
使いたい絵がある。そのレイアウトと絵の確認である。担当のPさんが対応。
打ち合わせを終えた仁平勝さん。楽しいおしゃべりをたくさんして帰られたのだった、、、、。
句集刊行まであと少しである。新刊紹介をしたい。岩田奎句集『膚(はだえ)』
46判小口折表紙クータ―バインディング製本。 176頁 二句組。
すでに12月半ばには刊行されていたのであり、目下好評のうちに話題となっている句集である。
岩田奎(いわた・けい)さんは、1999年京都生まれの今年24歳を迎えられる若い俳人だ。2015年開成高校俳句部にて作句を開始。2018年第10回石田波郷賞新人賞受賞、2019年第6回俳人協会新鋭評論賞受賞、2020年第66回角川俳句賞を受賞。俳誌「群青」所属。本句集は第1句集であり、「群青」の櫂未知子代表が帯文を、佐藤郁良代表が跋文を寄せている。
「熱い帯文を櫂未知子先生に、温かい跋文を佐藤郁良先生に頂いた。」と岩田さんは「あとがき」に書く。
「ありきたりの身体感覚を彼は言語にしない。自らの体も心も凌駕する言葉を、力強く選び取る力が岩田奎にはある。天才とは呼びたくない。俳壇は今、畏るべき青年をたしかに得たのである。」櫂未知子代表の「熱い帯文」である。
この才ある青年を、言葉を惜しむことなく絶賛している。「天才とは呼びたくない。」というくだりにハッとさせられる。
佐藤郁良代表の「温かい跋文」は、岩田さんとの出会いから今日までを時系列にそって句をあげ鑑賞しながら、そのおどろくべき弟子の才能について語っている。抜粋となるが一部のみ紹介したい。
赤い夢見てより牡丹根分かな にはとりの歩いてゐたる木賊かな
日に揺るる藤の実の裏おもてかな
『膚』にも収録されているこれらの句は、角川俳句賞受賞作「赤い夢」の中の句である。一句目の表題作はかなり感覚的だが、二句目や三句目は決して派手ではない写生句と言ってよいだろう。だが、一見地味に見えるこれらの句にも、どこかそこはかとない華がある。そこが岩田奎という俳人の魅力だと、私は思っている。(略)
立てて来しワイパー二本鏡割
雪国での生活が生んだ一句である。奎君の作品には、多くの若者が陥りがちな浮ついたところが全くない。現場に足を運び、自らが経験したことを基に、言葉を紡ぎ出してゆく。これは私自身が大切にしていることでもあるが、奎君もそれを基本としつつ、さらに自分の感性によって独自の世界を構築している。『膚』が、第一句集にしてこれほどの佳什に満ちているのは、そうした姿勢のなせる業だと思っている。
本句集の担当はPさん。
Pさんはこの句集の制作をすすめているときから、「すごくいい」と言っていた。
「なんというか景の切り取り方が違う。ああ、そういう風に世界を見るのかって、思ってしまう」とPさん。
そして「そこはかとない色気を感じるとも」
わたしは始めから終わりまで読んでみて、ふっと小林秀雄の言葉があたまをよぎったのだった。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という言葉。そう、どう言ったらいいのだろうか、鑑賞をするとちょっと陳腐になってしまう、通俗に堕してしまう、そんな気持を抱きながらどうやって紹介をしようかなあって悩ましかった。
まずはPさんの好きな句をあげてもらった。(好きな句ありすぎて困る、しぼれない、と言ってたくさんの句をあげてあるのだが、あえてしぼってもらったのはが次の句。)
耳打のさうして洗ひ髪と知る まだ雪に気づかず起きてくる音か
もう雨の日を知つた白靴でゆく 逃水をいふ唇の罅割れて
入学の身体から血を採るといふ 夏痩や宝物なべて火を知らず
昼の子のものの囲める夜学かな 二種類の吸殻まじる夕焼かな
Pさんの精選句(?)はわたしの好きな句とほとんどダブっている。
鑑賞をこばむような句の佇まいがあるゆえに、できるだけ饒舌にならないようにすこし紹介をしていきたい。
まだ雪に気づかず起きてくる音か
ふたり(たぶん)の人間がみえる、すでに外に降り積もるあるいは降り積もった雪を、知っている人間とこれから知る人間だ。その関係性はさだかではない。朝の時間だろう、起きてくると音の気配、その音を通して、音を発している人間が「まだ雪に気づかす」ともう一人が推測しているところが、面白い。なにゆえに「起きてくる音」のみで、雪に気づかないって推測したのか。ふっとその関係性にまで踏み込んだ思いをはせてしまう。この句、末尾に「音か」とおくことで音に読み手の意識をそこに集約しつつ、しかし、この一句が指向し、この一句を支配しているものは「雪」だ。散文的に一人の人間の認識をさらりと詠んでいるようだけれど、朝の寒気、静寂、すこしの薄闇、生活の匂い、人間の肉体の動きと音、そして雪、それ等が立ち上がってくる懐のふかい一句だとおもった。
もう雨の日を知つた白靴でゆく
この一句は、季語「白靴」を詠んでいる。これから履こうとしている白靴が「もう雨の日を知った」と擬人化されている。つまり一度は雨で濡れたことのある白靴だけれど、そのことを「もう雨の日を知つた」という表現であることが、白靴への愛おしさがあっていい。ただ、「雨の日を知つた」ことが可哀想とかそういう感情は詠まれていなくて、その「白靴」はあえてわたしが感情移入してしまうと、ちょっといっぱしになってランクが上になった「白靴」にしたい。きっと作者はそんな風な感情の味付けはしていないかもしれないけど、読み手は自由に想像をふくらませてもかまわないと思うのよね。単なる靴ではなく「白靴」であるがゆえに「雨を知る」こともひとつの事件となる。白靴をとおして自身の肉体に関わるものを日々愛おしんでいる作者のありようが感じられる一句でわたしは好き。
生まれつき静脈透いて朱欒剥く
この句はPさんの好きな句にあがってないが、予備軍としてPさんが選んだものにあった、わたしも〇をつけたもの。どこが好きかって、「生まれつき静脈透いて」というこの肌の状態にゾクゾクしてしまう。綺麗な白い腕を思う。しかも「生まれつき」なのよねー。この腕はまだ十分に若い人間の腕だ、しかし、逞しい腕ではもちろんなくて、青い静脈が透けて見える皮膚の皮がうすくてやけに白い、そんな華奢な腕、その腕の持主が、大きな果物である朱欒を向いているのである。林檎や梨などとは違ってもっと力のいる作業だ。その物質感がこの一句の重心となっているのではないか。上5中7の儚さをうけて「ザボン」という音の重さが朱欒の存在感を増し、句を落ち着かせている。この句も肉体に関わっている一句だ。
靴篦の大きな力春の山
これもPさんの予備軍に選ばれていて、わたしも好きな一句である。好きというより、「春の山」を詠んだ句で、「靴篦」というこんな小さなの生活上のグッズが登場したことがあったろうか。しかも、「靴篦」の「大きな力」を詠んでいるのである。下5の「春の山」がいいのかどうか正直わからないけれど、惹かれる一句だし面白い。「夏の山」では、「秋の山」、それとも「冬の山」って順番においてみた。やはり「靴篦」がどうどうと似合うのは「春の山」をおいてない。どんな体験からこの一句ができたのだろうか、「靴篦」か春の山を立ち上がらせる。それが岩田奎という俳人の力なのだろう。この一句も人間の肉体をほのと感じさせる。
夜店から見えてうすうす木の膚
この句はとても好きな句である。この句から句集名「膚(はだえ)」が生まれたのかしら。わたしは木が好きなので、木の膚を詠んでいるというだけでいいなと思うが、その「木の膚」が夜店から見えているというのがなんとも、である。夜店の暗さをともなう明るさ、そして人の賑やかな気配、そこからふと木に目をやったときの木のざらつく膚の感じ、夜店から離れて立つ木は薄暗闇のなかだ。その膚だって、そうはっきりとはせず薄ぼんやりとみえてくるのみ。ただそれだけを叙しているのだが、妙にものの存在感があるのだ。景色が顕ってくる一句だ。まさにPさんいうところの「景の切り取り方がちがう」ということを思わせる一句だ。
とここまで鑑賞を頑張ったが、ひょっとするといいやひょっとしなくても、櫂未知子さんいうところの「ありきたりの身体感覚」に落とし込んで鑑賞をしてしまったかもしれない。そうでしたらおゆるしあれ。
ほかにも紹介したい句はたくさんあるが、是非にこの句集を詠んでほしいと思う。
驚くことばかりだ。
「題は膚にした。事物の表面にある、ありのままのグロテスクな様相を写しとることをちかごろは究めたいと思っている。またアレルギー体質の私にとって皮膚とは激しいヒステリーのたえず生起する自他の境界でもある。」
「あとがき」である。
あるいは、「生まれつき静脈透いて」の腕は、岩田さんの腕かもしれない。
アレルギー体質でいらっしゃるのね。能天気な鑑賞をやはりおゆるしあれ。。。
本句集の装釘は、岩田奎さんの会社の同僚である森相岩魚氏。出来上がった本をみて、わたしはその清潔さと繊細さに目を瞠った。とても素敵な一冊である
表紙につかわれているこれは何だろう。風船のようなものの中に赤い液体となにかが入っている。赤い液体は、タイトルが「膚」であるので、血を連想させる。
しかし、生臭くなく硬質で洗練された趣がある。
タイトルの置き方、活字、レイアウト、すべてがスマートかつ繊細。見返しは白。
折り返しに「hadae」と置かれている。
扉は赤。、やや材質感のある用紙を用い、赤のインキで印刷。
クータ―バインディング製本により、ノドのところのクータは赤で印刷。
岩田奎、この豊かな才能と出会えたことは、私自身の教員人生・俳句人生にとって、何よりの宝である。この若い才能がどこまで伸びてゆくのか、そしてどんな大輪の花を咲かせてくれるのか、これからも楽しみに見守ってゆきたい。(佐藤郁良・跋)
岩田奎さんにご上梓後の感想を伺ってみた。
(1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか?
意外と、届いたときの感動はありませんでした。小山玄紀さんの『ぼうぶら』、斉藤志歩さんの『水と茶』(左右社)など、直近に出た若手の句集と並べてやっと実感が湧いてきました。
(2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい。
「肉」「脈」「髄」の三章仕立にしました。「肉」は2020年初頭までの作品です。私の句作は新型コロナの流行する2020年4月にターニングポイントを迎えたと感じており、つづく「脈」は同年の角川俳句賞受賞作が多く入っています。
「脈」「髄」の方向性はこれからも追求すると思いますが、「肉」には訣別の思いをこめて纏めました。
(3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。
今回、俳壇の諸先輩方や、また俳句をされていないさまざまな知己からそれぞれのご感想をいただき、俳句というものの鑑賞可能性の広がりを強く感じました。今後、これらに意識的になって句を書いていきたいと思います。
岩田奎さま
第1句集のご上梓おめでとうございました。
さらにさらに俳句表現に果敢に挑戦をしていってくださいませ。
なお、句集『膚』は電子書籍でも販売しております。
https://note.com/oho_kisui/n/ne3ab5f0a8110 【岩田奎『膚』】より
岩田奎句集『膚』(ふらんす堂)
岩田奎の第一句集『膚』(はだえ、と読む)。その名の通り肌に関する句が印象に残った。もっと広く言えば、外部と内部、それらを隔てるもの、に関する句。
たとえば、
鶯やほとけを拭ふ布薄き 仕舞ふときスケートの刃に唇映る
しりとりは生者のあそび霧氷林 雪兎昼をざらざらしてゐたる
寒鯉を暗き八雲の中に飼ふ ただようてゐるスケートの生者たち
この句集の表紙に描かれているように、人間は薄皮一枚を境にしている血袋のようなものであるけれども、それは目に見えるものではないし、そんなことは普段考えない。しかし、目にしてない、考えていないだけで、この宇宙のなかの現実として、それらは常にある。その現実を、言葉にしたとき、俳句にしたときに、なぜか心が動いたりする。それがとても面白い。
以下、好きな句。
天の川バス停どれも対をなし 孕鹿日はうつとりと水に死す
履歴書と牛乳を買う聖夜かな もう雨の日を知つた白靴でゆく
夜のはてのあさがほ市にふたり来し 手袋を銜へ高崎行を買ふ
にはとりの骨煮たたする黄砂かな 栓抜けば七味こぼるる滝見かな
岩田奎と知り合ったのは、2021年に出した阿部青鞋俳句全集の有志の読書会がきっかけだった。細村星一郎の発起によるこの読書会で最も目立っていたのも、岩田奎だったと思う。
そんなわけで彼と僕はなんとなく知り合いになっていたのだが、偶然、彼が波多野爽波を題材の一つとして卒業論文に取り掛かっていることを知り、それがちょうど暁光堂の爽波俳句全集を作成していた時期と重なっていて、いくつか資料を提供した。結局は、その縁で彼に爽波の句集未収録作品を選句してもらうことになった。ありがたいことである。
靴箆の大きな力春の山
ところで、僕が爽波の第一句集を読んだときに抱いた感想は「最初からずっと上手い」だった。岩田奎への印象も、それに重なる。注目すべき才能が同時代にいてくれて、とても嬉しい。
※この句集は作者からご恵贈いただきました。感謝いたします。
岩田奎句集『膚』(はだえ)
◆第一句集ありきたりの身体感覚を彼は言語にしない。自らの体も心も凌駕する言葉を、力強く選び取る力が岩田奎にはある。天才とは