オブラートとブッダの伝記
今日は円覚寺での稽古。
昨年の暮れに、管長である横田南嶺老師に『オブラートを一枚挟む感覚』をお伝えしたところ、新年のご挨拶のメールで次のような感想を頂いた。
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オブラート1枚を挟む感覚を教わって
驚くほどの変化がありました。
習っていた時には、なんとなく、こんなものかなという感じだったのですが、
終わって境内を歩くときの足の感覚がまず違っていました。
ブッダの伝記に、ブッダはガンジス川の水面をあたかも陸のように歩いたという記述があるのですが、
そんな感覚です。
なにか地面の抵抗もなく、すーっとすべるように軽く歩けるのです。
また部屋で杖を持って復習しようとすると、杖の重さを全く感じません。
全く自分の手となったような感じなのでした。
これは驚きでありました。
以来、手を合わせても、オブラート1枚を挟む感覚を意識し、
時には壁に手をはわせながら、オブラート1枚を挟む感覚を意識するようにしています。
手のひらをそのように意識するだけで、身体全体が変化するのを感じています。
いつも年末年始は、行事が多く、くたくたヘトヘトになっているのですが、
今年は何故か身体が軽やかな状態が続いているのです。
この接触の感覚はすごいと実感しています。
坐禅の時の手の組み方もオブラート1枚を挟む感覚を持つと、それで身体全体が調うのであります。
誰に対してもこれだけ鮮明に伝わるのかどうかは分かりませんが〜中略〜
これは六十年の人生で特筆するほどの変化であります。
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今日直接お会いしてお話を聞いていると、
「階段を登る時も掌にオブラートの感覚が入ると全然違います。息切れなくスイスイ登れます。」と更に新たな体験談も話して下さった。
老師の感想にもあるように、習った時はこんなものかなと思っていると、後に動いてみてかなり違うというのはたまにある事だ。
これは、頭で理解するより身体はすでに分かっている良い例で、老師ともやはり身体は賢いですねと話をした。
感覚から入る面白さは余白がある事。
知識で入るといつの間にか知識そのものに縛られてしまい、余白もない、もしくは見えない。
余白があれば、考える余地が生まれる。
考える余地から、感覚を表現し身体言語が生まれる。
という訳で余白を愉しむような稽古をしていきたいなと思う。
老師との御縁に心から感謝しております。
新刊もご恵贈頂き、重ねて御礼を申し上げます。
般若心経は初めて暗誦できるようになったお経なので、これから読むのが楽しみです。
※感想はあくまで個人の感想です。
※横田南嶺老師に掲載許可を頂いています。