阪神淡路大震災〜母と私〜(もみこ)
このたびの令和6年能登半島地震で被災された皆さまへ、心からお見舞い申し上げます。
おはようございます。
新年から落ち着かない日々が続いております。
当会にも、かつて能登から神奈川へ来てくださった
ご参加者様がいらっしゃいました。
どうかご無事で、、
一日でも早く平穏な日々が戻られますことを
心よりお祈り申し上げます。
.
.
そんな今日1/17は、
阪神淡路大震災から29年目の日です。
スタッフ樅山(もみこ)は、
当時、統合失調症の母と
兵庫県の祖母の家に泊まりに行っていたところ、
被災をしました。
.
母と私が眠っていた2階は、
階段を真ん中に挟み、
左の部屋に母が。
右の部屋に私と祖母が寝ていました。
.
当時3歳だったので記憶が曖昧ですが、、
.
指しゃぶりをしながら寝ていた私に
祖母が四つん這いになり
覆い被さってくれたおかげで、
倒れてくる物や、
2枚目の写真にあるような
祖母の家の隣の全壊したアパートの柱が
私たちの眠る部屋の外壁を突き破る中、
命が助かったと聞いています。
※写真中央が全壊したアパート。
コンクリートブロックが祖母の家の敷地(写真だと庭)。
コンクリより上がアパート2階部分で、
1階部分はコンクリの隙間に入り込んでいる(?)
.
揺れがおさまった後、
祖母が母を助けに行こうとするも、
倒れて来た物で部屋の間口が塞がり、
母のようすは一切見えなかったそうです。
そこで、祖母は私を抱っこして、
一旦、私をこたつのある一階の居間に移動させ…
祖母👵から
「ママを助けに行くからここで待っといて」
と言われたのを覚えています。
オレンジ色の豆電気💡だけが
点灯していた部屋に1人…
段々心細くなってきた私は居間で待てず、、💦
結局このあと、
2階の母がいる部屋までついていきました。
祖母が母を助け出した頃、
母は倒れてきた物で
鼻に切り傷を負っていたのを覚えています。。
.
.
その頃、神奈川にいた父は、
地震のニュースを知り
祖母の家に何度も電話するもつながらず…
安否を確認しようと、
すぐ神奈川→兵庫まで
飛行機✈️で駆けつけてくれたそうです。
羽田空港の待合室ロビーに映るテレビで、
私と母がいる
祖母の家の住所の表示とともに
「ガス漏れ発生!危険区域⚠️」
という文字を見たときの父は、
私たちの死を覚悟したと話していました。
また、
伊丹空港から兵庫の祖母の家まで
何時間も歩く中、
倒壊した家々や
まともに歩けない道路に
歩幅を進めているときも
『生きてないかもしれないな…』と思ったそうです。
.
.
父が迎えに来てくれた後は、
同じ兵庫県内にある
従姉妹の家に数泊させてもらい、
神奈川へ戻ったと聞いています。
.
.
本当に、いつ起きるかわからない災害。
今日5:46、
奇跡的にある命に感謝をしながら
祈りを捧げます。
#阪神淡路大震災
#阪神淡路大震災を忘れない
#阪神淡路大震災117のつどい
#兵庫県川西市