「まさかの時の友」
使徒の働き27章1―8節
1. さて、私たちが船でイタリアへ行くことが決まったとき、パウロとほかの数人の囚人は、親衛隊のユリウスという百人隊長に引き渡された。
2. 私たちは、アジアの沿岸の各地に寄港して行く、アドラミティオの船に乗り込んで出発した。テサロニケのマケドニア人アリスタルコも同行した。
3. 翌日、私たちはシドンに入港した。ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところへ行って、もてなしを受けることを許した。
4. 私たちはそこから船出し、向かい風だったので、キプロスの島陰を航行した。
5. そしてキリキアとパンフィリアの沖を航行して、リキアのミラに入港した。
6. ここで、百人隊長はイタリアへ行くアレクサンドリアの船を見つけて、それに私たちを乗り込ませた。7. 何日もの間、船の進みは遅く、やっとのことでクニドの沖まで来たが、風のせいでそれ以上は進めず、サルモネ沖のクレタの島陰を航行した。
8. そしてその岸に沿って進みながら、やっとのことで、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる場所に着いた。
礼拝メッセージ
2024年1月28日
使徒の働き 27章1―8節
「まさかの時の友」
皆さんにとって日々の交通手段は自動車でしょう。今日ここにも、ほとんどの方がご自分で運転されて来られています。また遠出をされる場合は、電車や飛行機を使ったりもします。しかし、そういった交通手段が普及する以前、船が大事な足であったと思います。人や荷物をのせ、海や川、湖を船は行ったり来たりしていました。九頭竜川にもかつて舟の渡し場があったでしょうか。
今日の聖書箇所はパウロの船旅の記録です。今日のトルコ西部にあった港町=アドラミティオ所属の船に乗せられ、地中海を渡って、都ローマへと連行されていく場面です。「シドン」や「キプロス島」など多くの地名が出てきます。ぜひ地図でご確認ください。
ローマの総督府があったカイサリアで船に乗せられ、そこからシドンへ、そして各地の港町に停泊しながら、地中海を西へ西へと横切って行きます。乗った船は、二千年前の船でした。風を受けて進むか、大勢の奴隷たちが手で漕いで進む船でした。
「イタリア・ローマへの船旅。地中海を豪華客船に乗ってクルージング!」
これだけ聞きますと、私たちも行きたくなりますね。美味しそうな本場のスパゲッティやピザなどが待っていて、古代の遺跡や美術館を巡り、有名ブランドのお店を見学(あるいはお買い物を)する。サッカーが好きな人はプロの試合を観戦。観光客はスリに狙われるので油断は禁物。それでもローマ、フィレンツェ、ベネチアと一度は行ってみたい場所です。
しかし、2,000年前のパウロの旅は、そんな楽しげな、観光気分では決してありませんでした。イエス・キリストを宣べ伝えたために逮捕され、同胞ユダヤ人から殺されそうになり、囚人となってローマへ連行されて行くのです。その時代、全世界に君臨しているように思われていたあのローマ皇帝の前に立つために、皇帝に判決を下してもらうために、ローマへ引っ立てられていくのです。パウロの両手両足には、手かせ・足かせや鎖が付いていたかもしれません。あるいは綱(つな)で縛られていたかもしれません。それほどきつく身柄を拘束されていなかったとしても、夜になれば、脱走しないように、出入り口にカギをかけられ、獄舎に閉じ込められていたでしょう。
船旅も最悪でした。27章を続けて読んでいきますと、パウロたちが乗った船は、やがて地中海上で大変な暴風に巻き込まれ、遭難してしまいます。沈没しそうになり、かろうじて命拾いする過酷な経験をさせられます。
ローマに行って、本物をその目で見ること。それはパウロにとって長年の夢でした(ローマ人への手紙1:10)。これまで何度もローマに行こうと計画しましたが、なかなか実現できずにいました(ローマ15:22)。二千年前の世界にあって、この時のローマは、なんと100万人以上もの人口がいたそうです!大都市、世界の中心のローマで、主イエス様の福音を宣べ伝えたいと強く願っていました。ローマの町にすでにあった教会を訪問し、そこにいるクリスチャンたちと会いたいとも願っていました。さらにローマを足がかりとして、続いてイスパニア(今のスペイン)へ、世界の果てにまでという「宣教のビジョン」が与えられていました(ローマ15:23、24)。そしてローマへ行って宣教することは、イエス様からはっきり示されていました(使徒23:11)。それでも囚人となって連行されていくことになるなど、思いもしなかったでしょう。
世の中の結婚式で語られるお祝いスピーチの定番として、「人生には三つの坂がある。一つ目は上り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目はまさかという坂。どのような坂に直面しても、夫婦で手を取り合っていってください」というフレーズがありますね。
パウロにとって、囚人となってローマへ連行されることは「まさか」の出来事だったのでしょう。想定外の形で念願だったローマへ行くのです。パウロの人生は「まさか」の連続でした。けれども、それはパウロひとりだけの戦いではありませんでした。ひとりぼっちで、誰も味方がいない状態ではありませでした。
「まさか」の出来事によりそってくれる友人が、どんなことが起きても、いつも一緒にいてくれる友人が与えられていました。
一人目は、この使徒の働きを書いたお医者さんルカです。27章、ローマ行きの場面になりますと、1、2、3節で「私たち」と出てきます。著者であるルカも同行していました。一緒に船に乗り、一緒に嵐に巻き込まれ、一緒にローマで裁判の時を待ってくれたのです。お医者さんでしたから、パウロの健康管理もしていたかもしれません。
後に、パウロは殉教の死が間近に迫って来た時、ローマの牢獄から弟子のテモテに手紙を書き送りました。テモテへの手紙 第二 1章15節に「あなたが知っているとおり、アジアにいる人たちはみな、私から離れて行きました」と、仲間だと思っていたクリスチャンたちはみんな、処刑されそうな私を見捨てて行ったと書かれています。そんな中、第二テモテ 4章11節に「ルカだけは私とともにいます」と語られています。
どんな時にも、どんな状況に陥っても、パウロに仕えようとしたルカの誠実さが、表れています。まさかの時にも友であり続けるルカの姿です。
もう一人、一緒に苦しみを背負ってくれた友がいました。使徒の働き27章2節に出てくる、船に同乗してくれたテサロニケのマケドニア人アリスタルコです。聖書の中で華々しく活躍が描かれている有名人物ではありません。目立たない無名の存在です。でもこのアリスタルコを調べていきますと、本当に良い男だと分かります。使徒の働き19章28節から、
28. これを聞くと彼らは激しく怒り、「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」と 叫び始めた。29. そして町中が大混乱に陥り、人々はパウロの同行者である、マケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場になだれ込んだ。30. パウロはその集まった会衆の中に入って行こうとしたが、弟子たちがそうさせ なかった。
第3回目伝道旅行の際、パウロはエペソの町で大暴動に巻き込まれます。エペソの町の守護神である偶像アルテミス神殿の模型を作っている人たちが「みんながキリストを信じるようになっちゃ、うちらの商売上がったりだ」と、パウロに迫害を加えようとしました。その時、パウロの身代わりとなって、怒り狂う群集の前に立ち、非難の矢面に立ったのがアリスタルコでした。
アリスタルコは、パウロがエルサレムに帰る際にも同行していますし(使徒20:4)、今回のローマ行きにも同行しています。さらにローマで投獄された時、パウロが書いたコロサイ人への手紙の最後にも、アリスタルコの名前が登場します。コロサイ4章10節。「私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。」
いつも、どんな時も、パウロがどんな状況に陥っても、友であり続ける。試練の時だからこそ、苦しみの時だからこそ一緒にい続ける。本当に良い男です。
いつも「私たち」だよと、そばにいてくれるルカの存在。苦しみをともにしてくれるアリスタルコの存在は、パウロにとって、どれほど大きな励まし、慰め、力だったでしょうか。そんな友がいつもかたわらにいてくれることが、大きな支えだったと思います。
また使徒の働き27章3節を見ますと、シドンの町にもパウロを支えてくれる友人たち、同じ主イエス様を信じる信仰の友がいました。
ルカやアリスタルコ、そしてシドンの友人たち。この箇所を読みながら、私は高校生の頃、英語の授業で習ったあることわざが頭に浮かんで来ました。
A friend in need is a friend indeed. まさかの時の友こそ真の友
宣教師の先生に「このことわざは、アメリカでもよく使いますか?」と聞いたところ。「使うよ。特に震災のような状況下でよく聞くね」と教えてくれました。
都合が良い時だけ友達でいるのは、本当の友達ではないということでしょう。本当の友とは、利害関係や損得勘定ではなくて、たとえ自分に害が及ぶと分かっていても、それでも友情を大事にしてくれる。それが真の友人だということです。
まさかの時の友です。皆さんには、そのような友人がいるでしょうか。何かあった時、すぐに「家族の問題、仕事の課題、健康上のことなど」自分の抱える悩みや弱さを正直に話せて、祈ってもらえる。そして私の秘密をもらさないでいてくれる。そんな真の友人がほしいと思います。そして私たちも誰かのそんな友となりたいと願います。
この友情の出発点はいつも主イエス様です。まずイエス様が私たちの友となってくださいました。先ほど交読したヨハネの福音書15章12節から語られている通り、私たちのためにイエス様は、尊い命を捨ててくださいました。イエス様のこのお姿があるからこそ、イエス様のこのお姿にならって、私たちは互いに「まさかの時の友」となっていきたいのです。
「あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」イエス様は繰り返しそうおっしゃいます。― なかなか、そうは生きられない私たちです。自分の身を守ることばかり考えてしまい、自分の正しさばかり主張して、イエス様のような自分を捨てる愛を持てない私たちです。
そんな私たちの友にまずイエス様がなってくださったこと。まずイエス様が、私たちのためにご自身を犠牲としてくださったことを覚えていきましょう。いのちを、すべてを捨てて、私たちを救い出し、愛してくださっています。このイエス様によって、私たちも互いのために、自分を捨てていける者となりたいのです。教会の神の家族が、互いに「まさかの時にも友」となっていけますように。
お祈りします。