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南方小麦牧場

白煙に面影

2024.01.30 02:18

 性格の悪い女が好きだ。

 タイプの女性は? と訊かれたら絶対に一番に、「性格の悪い女」と答える。綺麗めのお姉さん系の美人だったらもっと最高。長い髪の毛をゆるくウェーブに巻いて、柔らかい素材の清楚なワンピースなんか着て、花みたいな香りを漂わせて、意地悪く笑いながら人をこき下ろしているのを見ると堪らなくなってしまう。綺麗な薔薇には棘があるとか言うが、それならその棘に刺されて気持ちよくなりたい。

 あたしが優美花さんを大好きなことについても、それは例外ではない。優美花さんの好きなところはいっぱい、それこそひとつひとつ真っ白なノートに書いていったらきっとノートを真っ黒にしてしまえるくらいにはたくさんあるけれど、その中でも「性格が悪いところ」というのはかなりあたしの中で重要なポジションにある。

 優しく美しい花、と書いて優美花。なんて彼女にぴったりな名前なんだろう。しかもあたしの名前と並べたときの相性も良い感じだと思う。あたしの名前の莉の字は茉莉花、いわゆるジャスミンのことだけど、そこから取ってる字で、それに月、で莉月。どちらも花を連想させる綺麗な名前で、おまけに月だって付いてる。優美花と莉月。可愛い。

 プチ旅行と称して麻布のお洒落なホテルに泊まった夜、ベッドの上で優美花さんが「りっちゃんは私のどこがそんなに好きなの?」と尋ねた。だからあたしは、「性格悪いとこ」と即答した。そうしたら優美花さんは、「えーっ、なにそれぇ」と綺麗な眉毛をハの字にして、笑っているのか怒っているのかわからない声を上げた。

 そういう話を光にしたら、光は「意味わかんねぇ〜」と顔を顰めて、ゴキブリを見るような目であたしを見た。そう言って彼がゴボゴボと吸っているシーシャパイプはあたしのオデュマンなんだから、もう少し敬ってくれてもいいと思う。

「だって、そういうことってない? 一般的には短所とされるようなことが、むしろ愛おしくなるってこと」

「俺は知らんけど、まあよく聞く話ではある。でもお前のそれはなんかちょっと違うじゃん。どっちかっつーと変な性癖みたいな」

「え〜、性癖かぁ」

 まあそれも間違っていないのかもしれない。だってあたしは優美花さんの「性格悪いなぁ」って感じる瞬間を見るたびに、胸がキュンとしてゾクゾクして欲情しているのだから。好きだからマイナスな部分も許せちゃう、ってことではなくて、そのこと自体がただ純粋にあたしにとってはプラスの要素として働く。性格が悪い男を見ても同じようには思わないから、やっぱりそれはあたしのロマンティックにおける嗜好性に関わっているのだと思う。

 光があたしの住んでいるアパートの隣の部屋に引っ越して来たのは、だいたい一年くらい前のことだ。その頃、光は元々住んでいた下高井戸のアパートで、隣人の騒音に悩まされていた。さして広い部屋でもないのに、光と同世代くらいの隣人はしょっちゅう何人も友達を呼んで夜中まで騒いだり、またそうでなければ夜通しベッドの軋む音と馬鹿デカい女の喘ぎ声とが聞こえてくることもあったし、最悪の場合にはどう考えても複数人で乱交のようなことをしている日もあったらしい。焼鳥屋で飲みながらそのことをあたしに愚痴った光はまさにノイローゼ寸前で、本人にクレームを入れたところでどうにかなるとも思えないし早く引っ越したいと言っていた。そのときちょうど阿佐ヶ谷のあたしのアパートが一室空いたところなのを思い出して勧めてみたら、なんやかんやで最終的にあたしが彼の新しい隣人になったのだった。

 ラグの上で胡座をかいてベッドに寄り掛かっている光が、ベッドに寝そべるあたしに向けて「吸う?」とマウスピースを外したホースを持ち上げてくるので、あたしはちょっとだけ勢いよくそれを奪い取った。今日はダブルアップルとブルーミスト、あとカルダモンを少し。

「吸う? も何も、あたしのだから。そりゃ吸うよね」

「そーか」

「光さぁ、最近店来ないじゃん」

「当たり前だろ、なんでタダで吸えるのにわざわざ金払いに行かなきゃいけねーのよ」

「だから! あたしのなんだって! シーシャ屋扱いするならちょっとは金払えや」

「しょっちゅうメシ奢ってやってるからそれで相殺だよ」

「えぇ〜……」

 うちのアパートの他に二軒、別の部屋を内見して、いざ最終決定の直前というときに光は疑心暗鬼な目で「でもさ、お前もお前で女連れ込んで騒いでんじゃないの?」と訊いてきた。まあ全く連れ込まないとまでは約束できないけれど、そんなにしょっちゅうではないし、どちらかというとホテルか相手の家のことが多いし、そんなにうるさくはならないと思う。隣に友達が住むならこちらもマナーとしてそれなりに気は遣うつもりだ、とそういうことを話したら、最終的にはちょっと気の抜けた表情で「まあいいか……」と言っていた。

 シーシャ屋扱いはされるものの、同じアパートの違う部屋に気の置けない友人が住んでいるというのは結構良い。何かあったら頼れるという安心感もあるし、ちょっとさみしいときに今日一緒にごはん食べない? とかいうこともできる。特に意味もなくどちらかの部屋でだらだらすることもできる。

「てかさ、俺転職決まった」

「えっ。マジ?」

 思わず上半身を起こした。先月から転職活動をしているとは聞いていた。社会人四年目にして、理由は年収を上げたいから。転職サイトのプロフィールに資格やプログラミングのスキルを書いておくだけで、あちこちから読み切れないほどのスカウトメールが届いたらしい。さすがエンジニア。あたしが同じことをやってもそうはいかない。

「どこ? 在宅?」

「オフィスが原宿。出社は、まあ半々?」

「年収上がる?」

「上がる上がる」

「そしたら光、もっと良い部屋に引っ越す?」

「どうだろ。そこまで住むとこにこだわりねーからな、俺。阿佐ヶ谷結構気に入ってるし、いずれは引っ越すかもだけど、すぐには考えてない」

「ふぅん」

「なに、実は寂しいわけ?」

 光は首を捻ってこちらを振り返り、にやっと笑みを浮かべて見せた。

「そりゃ寂しいよぉ。光がいなくなったら寂しくて酒量増えそう。無駄に飲みに行っちゃって」

「寂しくなくたって飲んでるだろ」

「それは否めないけど」

「否めよ」

 だって事実だから仕方ない。返事の代わりに、またこちらに後頭部を向けてしまった光のその頭の横に向かって煙をもわもわと長く吐き出した。口の中の粘膜に、ブルーベリー味の柔らかな水蒸気が沁み込む。光の耳たぶに噛み付いている真鍮のピアスを、白い煙が淡くぼかした。


   *


 あの頃、あたしと光と、そして朝陽がいて、あたしたちは西多摩という東京の隅っこにいた。今は朝陽がいない。あたしと光だけがふたりぼっちで取り残されて、阿佐ヶ谷に、ときどき高円寺にいる。

 別にいつも同じタイプの女ばっかり好きになるわけではないから特におかしなことではないのだが、朝陽は全然、優美花さんには似ていない。優美花さんは綺麗なお人形みたいな人で、ファンデーションが汚く崩れている瞬間なんて一秒たりとも無いし、すっぴんのときも赤ん坊のようなフワフワの肌で、優しく弧を描く可愛い眉毛と、少し色の薄い茶色のビー玉みたいなクリクリの目に、桜貝みたいなピンク色の唇が付いていて、あたしが思うに花びらの生まれ変わりなのだと思う。

 朝陽はそういう感じではなかった。大きな口を全開にしてギャハハとガサツに笑ったし、腰のところをクルクルと巻き上げて短くした標準服のプリーツスカートからパンツが見えそうなほどのガニ股で座っていることもしょっちゅうだった。ただ、美人ではあったと思う。思う、というのは、あたしが自分の客観的で一般的な美的感覚というものに全く自信がないからだ。でもむしろ、自信があるというほうがおかしくないだろうか? そんなもの、ありとあらゆるファクターに左右される程度の不安定な物差しなのに。

 そんなことはどうでもいいのだけれど、とにかく朝陽は可愛かった。ぱっちりとした二重の目も含めて、顔の中の色々なパーツが大きくてくっきりしていた。身体つきは、儚げで華奢な優美花さんに比べると骨太でむっちりしていたが、それが魅力でもあった。

 高二の夏、朝陽の部屋で、あたしと朝陽はお互いのまっさらな耳たぶにピアスの穴を開けた。両耳にひとつずつ。ピアッサーと消毒液は立川のドンキで買った。朝陽があたしの右耳に穴を開けたとき、ぱちんっと輪ゴムで耳たぶを弾かれたような感じがしたけれどそれは一瞬で、本当に今開いた? と思うほど、痛いとは思わなかった。左を開けても同じだった。それなのに、あたしが渾身の力を込めてひと思いにばちんとピアッサーを握り込んだとき、コンマ数秒遅れて朝陽は「痛ッッた!!!!」と潰れた声で叫んだ。

「え、うそ、痛かった?」

「やばすぎ、耳取れたかと思った。うわ、涙出てきた」

「そんなに? えぇ、あたしが下手なのかなぁ。それとも朝陽、耳たぶ厚いから?」

 それで朝陽のもう片方を開けるまでに少し時間がかかった。痛すぎる、開けるのやめようかな、どうしようかな、でも片方だけじゃヤだ、と愚図る子どものように朝陽がうにゃうにゃと言うので。一瞬だけだよ、もうちょっと頑張ろ、今度は痛くないように頑張るから、とあたしも無責任なことを言って宥めすかして、なんとかもう一度ピアッサーを握り締めたけど、朝陽は同じように絶叫した。朝陽が痛みに敏感だったのかもしれないし、あるいはもしかするとあたしの耳の痛覚はちょっとブッ壊れているのかもしれない。そのとき二個開いたあたしのピアスは今は軟骨も合わせて九個になっていて、あと唇の下にもラブレットと言われる位置に一個ある。身体の穴なんて何個だって構わないけれど、あのとき朝陽の手でふたつ開けてくれたとき、あたしも朝陽のように強烈な痛みを受け取れればよかったのに、と今は少し思う。

「ピアスふたつ買って、片方ずつ交換するとか、ちょっと良くない?」

「うわー、ありがち。カップルがやりがち。てか朝陽おまえ、そんなガラかよ」

 ファーストピアスをそれぞれ耳に光らせ、あたしたちは朝陽のベッドの上で互いに折り重なるように凭れながら止め処なくだらしなく喋っていた。朝陽が緑、で、あたしが濃いピンク。エメラルドとピンクトルマリン、なんて書いてあったけれど名前だけで、そんな感じの色が付いているだけの五百円のジルコニアだった。

「光にプレゼントしてさ、片方交換しよって言ったらキモチワリィって言うかな」

「言うね、ぶっちゃけ絶対言う」

「だよねぇ。ん〜、でもやってみたい。言うだけ言ってみよっかな。そんで断られたら莉月が貰ってよ。で、片方交換してよ」

「え、それ酷くない? あたしが滑り止めってこと?」

「ちっがうよぉ、好きだからってこと」

 そんな適当なことを言ってけらけら笑いながら、朝陽はだぼだぼのデニムを履いたあたしの腰にぎゅうと抱き着いてきた。上から覆いかぶさるように、ぎゅうと全身で抱き返した。フィアンセのボディミストの香りがした。大好きだとか、愛してるとか、可愛いとかキモいとかヤバいとかお腹空いたとか、脊髄反射と同じくらい意味なく出てくる、喧嘩して落ちた鳩の羽よりも軽い朝陽の言葉があたしは好きだった。いや、好き。今も。

 朝陽は光のことが好きだった。光とセックスしたいと思っていた。朝陽は光に直接「あたしと付き合って」と言っていたけど、光は誰とも付き合いたいと思わなかったから断った。それを朝陽があたしに話したのであたしも知っていたし、あたしが知っていることを光も知っていた。そして、あたしは朝陽のことが好きで好きで大好きだった。いや、好き。今も。

 ずりずりと身体を半回転させて、朝陽はあたしの太腿を枕にした。黒々とした瞳が、蛍光灯の白い光を反射させながらあたしを見上げた。「熱中症」

「熱中症?」

「ねっ、ちゅー、しょぉ」

「しょうもね〜」

 あたしは笑いながら朝陽のもちもちのほっぺたを掴んで、身を屈めて上から唇に唇を押し付けた。朝陽も肩を震わせて笑っていた。

 朝陽は二十一歳の年、立川のキャバクラで働いているときにテキーラの飲み過ぎで急性アルコール中毒を起こして死んだ。と言っても直接の死因は急性アルコール中毒ではなくて、吐瀉物誤嚥による窒息死だったらしい。泥酔している人間を仰向けのまま放置しちゃいけない程度のことを、飲み屋にいる人間が誰も知らなかったなんてことあるんだろうか。死んだ瞬間の朝陽はきっとゲロまみれでどろどろだったんだろうけれど、通夜で見た、棺の中で眠っている朝陽の顔はつるんとしていて綺麗だった。

 形見分けをすると言って朝陽のお母さんが入れてくれたので、中神のマンションと実家を彼女と一緒に漁り回って、緑のジルコニアが無いかなと探したけれど全然見つからなかった。そりゃそうか、と思った。あたしだってあの安物のピンクはもうどこに行ったかわからない。それは諦めて、服とかアクセサリーを幾つか貰った。片方ずつを交換したピアスの片割れは両方あたしのところにやってきて、結果的に二組揃いのピアスを手に入れた。一組は光にあげた。アシンメトリーで使うつもりで朝陽が買ったピアスは、シンメトリーに戻ってあたしと光の耳たぶにある。

 告別式のあと、立川の雑居ビルの地下にある大衆居酒屋で光とふたり向かい合った。「飲み過ぎて死ぬなんてサイコーに朝陽っぽいよねぇ」とあたしは涙でぐしゃぐしゃの顔で言った。光は通夜のときに少し泣いたけど、そのあとはぎゅっと唇を噛み締めた無表情で黙っていた。

「しかも別に強制されたわけでもなく自分から飲む飲むって言って飲んだって言うじゃん。やっぱすげぇわ、あの女」

「そんなのわかんねーじゃん。飲むって言わないといけない雰囲気だったのかもしんないし、仮に強要されてたとしても店側はその通りには言わねーだろ」

「そんなん知らないよ」とあたしはその声音で光を突き刺した。「あたしの中だけでもそういうことにさせといてよ。じゃないと嫌だ。あの子が無理やりテキーラ飲まされて死んだとか、そんなん一番嫌だ。キャバ嬢なんかやってたらやっぱそういう目に遭っちゃうんだね可哀想になんて、そんなの朝陽に一番似合わない。あの子はどうしようもないバカの酒カスで、いけると思って飲んだら死んじゃいましたって、やっぱバカだねぇって笑い飛ばしてさ、そっちのほうがよっぽどマシ。朝陽だって絶対そう思ってる」

 酔っ払って大声で喋る人間ばかりで埋め尽くされた店内は騒がしくて、泣いてるあたしの声が高くなっても周りは誰も気にしていないみたいだった。

「……笑い飛ばせてねーじゃん、お前」

光は空っぽな目であたしの顔をしばらく見つめたあとで言った。

「そうだよねぇ」とあたしは鼻を啜った。


   *


 ネットのニュースか何かで梅雨入りしたらしいとチラ見したのでそうなんだと思っていたけど、梅雨入りしてからよりもその前の五月頃のほうがよっぽど雨が降っていたような気がする。そういう夏前。暑すぎて冷房無しでは耐えられないし命に関わりそうだから開き直ってガンガンに使っているが、しがない雇われシーシャ屋店員なのでやっぱり電気代の請求が怖い。そういう夏前。

 スーパーで適当に肉とか海老とか烏賊とか野菜とか餃子とかを買って、あたしの部屋に光のホットプレートを持って来て油を敷いて適当に焼く。赤霧島を水で割りながら光が「やっぱ炭酸作るやつ買おうかな」と呟いた。

「あのさ、お前の彼女。名前なんだっけ」

「優美花さん?」

 じゅわじゅわと食べ物が焼けていくと、湯気と熱気で部屋の温度が上がるので負けじと冷房の設定温度を下げる。

「そう、それ。名字なんていうの」

「古川。なんで?」

「フルカワ……じゃあ違うか」

「でも職場では旧姓使ってるって言ってた。木村」

「え、マジ? うわ、じゃあやっぱそうじゃん」

 光が目を丸くしてぱっと顔を上げるので、あたしは訝しんで「なにが?」と重ねて訊いた。

「ユミカさん、新しい会社の先輩だわ」

「えぇっ? 嘘、やば。木村優美花? 世間狭すぎない?」

「や、まあ、あの人はマーケだからやってることは別なんだけど。でも社員全部で七十人くらいしかいねーから、普通に顔合わせる。うわマジか、すげー嫌なんだけど。お前から散々いろいろ聞かされてんのに」

「あはは。優美花さんキレーだし表向き人当たり良いし優しいけど、裏表すごいしめちゃくちゃ毒吐くよ。人の好き嫌い激しいから、逆に言ったら気に入られれば贔屓してもらえるんじゃない? 頑張って〜」

 光は心底嫌そうな顔で「別に贔屓されたいわけじゃねーけど、嫌われるとめんどいよなぁ」とぼやいて烏賊の足先を口に放り込んだ。優美花さんが、神宮前にオフィスを構えるWEB系の自社開発企業でデジタルマーケをしているとは聞いていたけれど、まさか同じ会社に光が入るとは想像していなかった。東京に幾つITのベンチャーがあると思っているのか。ひょっとしてあたしが引き寄せたんだろうか。

 嫌われるどころか、あたしはむしろ優美花さんが光に「そういう意味」で興味を持っちゃったら嫌だなあ、と思った。光みたいな、ちょっと涼し気な顔をしていて、一見素っ気なく飄々として見える感じの男が、優美花さんは結構好きな気がする。彼女の旦那の蒔人さんだって、光に似てるっていうわけでもないが言ってみればそういうタイプだ。彼女が光を好きになろうがなるまいが光のほうは興味ないだろうけれど、気に入った男がどうやらちっとも振り向かないと気づいたときの優美花さんも相当面倒臭そうだし。

「職場の優美花さんってどんな感じ?」

「どんなっつっても別に普通だけど。ニコニコしてて愛想良くて、でも仕事はバリバリって感じだし指摘も鋭いから、ポワンとして見えるのはフェイクなんだなってのは気付いてた。お前から聞いててイメージしてたユミカさんの像と被ったんだよな、木村さん」

「へぇ〜、なんか想像つくなぁ。優美花さん賢いから絶対仕事できるんだろうなぁって思ってた。ますます好きになっちゃう」

「お前って頭良い女が好きなタイプ?」

「だとしたら朝陽なんか好きになるわけなくない? まぁでも、朝陽もある意味では賢いとこあったか。世渡り的なっていうか、相手が言われて気持ちいいことをノータイムで言えるみたいな」

「間違ってはない。キャバ向いてたよな」

「あたしは無理だわ。ムカついたらすぐ顔に出ちゃうしキレちゃうから」

「お前も接客業ではあるじゃん」

「まあそうだけど。うちはなんていうかユルいし。理不尽なこと言われたら怒ってもいいよ、ってオーナーがスタッフに言っちゃうくらいだし」

「はぁ、ホワイトな職場だな」

 鉄板の上に広げたものをざっと食べ尽くしたあとで、光が餃子を並べて水をかけて蓋を閉めた。そうしている間に煙を吸いたくなったあたしは卓上の電気コンロで炭を燃やして、ボトルに水を入れ、大きな段ボール箱にごちゃまぜで詰めてあるフレーバーの箱たちを漁った。パッションフルーツとドラゴンフルーツのミックス、それからテキーラ。酒そのものではなく、そういう種類の葉っぱで、吸うとテキーラっぽい味と香りがする。水を入れているボトルに本物の酒を入れることもできるけれど、あたしはそんなに好きではない。

 二十歳になりたての頃、地元の先輩に福生のシーシャバーに連れて行って貰って、それが初めて水煙草というものを吸ったときだった。朝陽も一緒にいた。あの頃はまだあたしは大学生だった。朝陽が死んだことと、あたしが大学を辞めたことはそれほど関係がないと思う、たぶん。いずれにせよあたしに大学なんて向いていなかった。光のようにオフィスワーカーとして働くこともあまり想像できなかった。

 幾つかのアルバイトを転々としたあと今のシーシャ屋に落ち着いた。人生でやり遂げたいことも別に無く、成りゆきと行き当たりばったりで流されるように生きている、と思う。優美花さんと会ったのは半年くらい前で、赤羽のバーだった。初めて会った夜にもうホテルに行って、その数時間だけであたしはすっかり彼女に落ちてしまったのだ。


   *


 ぴったりと密着させたふたつのヴァギナが、ぐちゃぐちゃと音を立てて擦り合わされるぬるついた感触が、頭の芯が痺れていくほど気持ちよくて夢中になって腰をうねらせた。あたしの鼠蹊部の上を跨いで伸びる優美花さんの白い膝をほとんど抱き抱えて、喉から漏れる息と声のあいだに「きもちい、ゆみかさん、だいすき」と必死になって単語を押し出すと、優美花さんはあたしの目を見て艶っぽく微笑み「わたしも、りっちゃんのことだぁいすき」と囁いてくれた。

 ベッドの下に脱ぎ捨てていたハイウエストのミニスカートを拾って履きながら、ランジェリー姿で横たわったままの彼女の肢体を惚れ惚れと見つめていた。Tシャツを着てから太腿をちょんとつつくと、優美花さんは「やん」とわざとらしく高い声を上げて身を捩った。

「ね。優美花さんの会社に井上光っているでしょ?」

「いるよぉ。六月から中途で入って来た子。知ってるの?」

「高校の同級生で、あたしの親友」

「えーっ、嘘ぉ。もしかして隣に住んでるって言ってた子?」

「そうそう」

「そうなんだぁ。なんか、すごい優秀みたいだよ。開発チームの人が褒めてたもん」

 それに、結構イケメンだよね。と悪戯っぽく楽しそうに言うので、あたしは思わず唇を尖らせて顔を顰めてしまった。その顔を見た優美花さんはくくくっと肩をすくめてまた笑う。

「ヤなの?」

「別にあたし、優美花さんのこと独占しようなんて思ってないけど、光に行かれるのはなんかやだ。てか、マジで光はやめときなよ。あいつは恋愛しない人だから」

「そうなの? でもそういう子を恋愛に目覚めさせるのって燃えない?」

「ゆみかさんっ」

「冗談だよ。だいじょうぶ、私そこまで見境無くないよ」

 そう言って優美花さんがするりとあたしの手に伸ばした指を絡めて引っ張って、それに合わせて顔を寄せ屈み込むとチュッと音を立ててキスをくれた。

 リビングのウォーターサーバーからコップに水を注いでいると、玄関の方でがちゃんと音がした。廊下をスリッパが摺る足音のあと、リビングの扉が開く。

 蒔人さんは、立ったまま水を飲んでいるあたしの顔を見て特に表情を変えないまま「うおっ」とだけ言った。

「おかえり。休日出勤おつかれさま。早いね」

「うん、さすがにダルかったから早めに切り上げた。終わった?」

「終わったぁ」

「タイミング良かったな。メシ行く?」

「え。行く」

「イタリアンでいい?」

「最高〜」

 蒔人さんは品の良いベージュのジャケットを脱ぎながら片手でスマホを触って、どこかに電話を掛け始めた。優美花さんと蒔人さんと三人でこの家で食事をしたことは前に一度あったけれど、外食は初めてだ、と思い至る。普通は逆なのかな。そんなことが頭に浮かんでから、世の中的にはあたしは不倫相手に当たるわけだから、夫と妻と妻の不倫相手が一緒に仲良く飯を食うなんてことがそもそも普通ではないのか、と思うとどうでもよくなった。

 蒔人さんが運転して優美花さんが助手席、あたしは後部座席。荻窪の駅ビル地下の駐車場に白いポルシェを停めて、地上に出て北口ロータリーを過ぎ、路地の小さなビルの入口から階段を登る。洒落た木の蔵のような店で、壁の一面がぎっしりとワインボトルの並んだ棚になっていた。

 蒔人さんがドリンクメニューを開くなり「ボトルでいい?」と言い、優美花さんはその顔も見ず料理のメニューを見ながら「うん」とのんびりした声で相槌を打った。あたしは何でもいいし、たぶん奢られる身なので任せた。四人がけのテーブル席で蒔人さんと向かい合ってあたしの隣に座った優美花さんはさりげなくあたしに肩を寄せて「ね、生牡蠣だって。食べたくない?」と紙のメニューを見せてきた。

「ほんとだぁ、食べたい」

「ね」

「夏の牡蠣って旨いの?」蒔人さんが純粋な疑問という調子で口を挟む。

「え、美味しくないのかな」

「さあ。冬が旬だって言うけどね」

「そっかぁ、やめとこっかなぁ」

「トリッパって何?」

「胃袋。たぶん牛じゃね?」

「じゃあトリッパのトマト煮がいい」

「お野菜も食べよ。夏野菜とアンチョビのサラダにしよ。あとキャロットラペ」

「ウサギの餌ね」

「違いますぅ。ウサギなら丸齧りですぅ」

 蒔人さんが選んだ白ワインは色が薄くて透き通っていて、美味しい水みたいだった。チェイサーにビール頼んでもいい? と訊いたらいいよと言われたので料理を頼むときについでに注文したけれど、あとで蒔人さんは「どっちがチェイサーかわかんねぇな」と言った。

「蒔人さん最近遊んでんの?」

「最近は遊んでないな」

「ティンダーやってるじゃん」

「え、そうなの? 誰かイイ子いた?」

「いないいない」

「どんな女とマッチしてんのか見してよ」

 蒔人さんが見せてきたスマホを優美花さんが当たり前のように奪って、二人で覗き込んだ。画面には黒髪で特徴的な不揃いのヘアカットの女性が頬にぴったりくっつけたピースサインで映っていた。

「え、あいみょん?」

「意識してるよな」

「蒔人さんこういうタイプ好き? 意外」

「や、別にそういうわけでもないんだけど」

「これは地雷でしょぉ。あいみょんに憧れてマネしてる女にロクなのいないって」優美花さんは鈴が鳴るような可愛い声のまま顎を引いて首を振った。

「あたし好きだよ、メンヘラっぽくて可愛いじゃん。何歳?」

「二十四だって。ここ、書いてある」

「若っ。歳下かぁ。え〜、あたしがマッチしたい」

「いやぁ、これはノンケだよ絶対」

「そうだろうけど、こういうタイプは押せばワンチャン流されてくれるよ」

「蒔人、会うの?」

 優美花さんに視線を向けられた蒔人さんは、ナイフで切り分けたトリッパを口に入れて咀嚼し、飲み込んでから「や、会わないかな」と言った。

「今、増やす気ないんだよね。むしろ既存を切ろうかと思ってるくらいで」

「え〜、なんで?」

「もうすぐ東京から居なくなるからさ」

「えっ? なにそれ」あたしはフォークで突き刺して口に入れようとしていたサラダのトマトを落としそうになった。

「優美花、言ってないの?」

 蒔人さんはびっくりしたように優美花さんを見た。優美花さんはあたしの腕に両腕を絡めて「りっちゃんごめんね!」と抱き着いてきた。

「今日言おうと思ってたの。実はね、八月末に引っ越すの。蒔人が福岡に転勤で、私もついてくことにしたんだ」

「えぇっ? 福岡? 優美花さん、会社は?」

「今月いっぱいで辞めるの。あ、そうそう、だから井上くんのことは心配しなくたって大丈夫だよ」

 いやそういうことじゃないでしょ、光のことはこの際どうでもいいでしょ。と言いたくなった。

「優美花さん仕事好きじゃん。勿体なくないの?」

「うーん、でも蒔人と違って私はずっと今の会社にいるつもりもなかったし。福岡で就活しようかなって」

「そうなんだ……」

 優美花さんが福岡に行ってしまう。あたしは呆然としてしまって、間抜けな返事しかできなかった。たった今、心にばちんと空けられた穴に風が通るようなさみしさを覚える片隅で、彼女が愛用しているディオールの香水の甘い匂いを感じた。優美花さんはあたしの顔を上目遣いで至近距離でじっと見上げている。

「りっちゃんも福岡来たら?」

「はっ?」思わず声が裏返った。

「博多は都会だし、きっと楽しいよ。りっちゃんならどこでも住めるよ。それにりっちゃんは、別にどこに住んでもかまわないんでしょ?」

「それはそうだけど」

「優美花、あんま我儘言うなよ」と蒔人さんが穏やかな声でたしなめた。

「だってぇ」

 優美花さんが甘えたような声をあげたところで店員がサルシッチャとブロッコリーのトマトクリームパスタを運んで来て、会話が一時中断した。あたしは行ったことのない福岡のことを想像してみた。彼女の言う通り、あたしは良くも悪くも確固たるものを何も持っていない。絶対に東京にいなければいけない理由は何もない。今の職場は良いところだけど、縋り付かなければならないほど最高の条件でも、ここでしか出来ない仕事でもない。やり遂げたいこともない。それなら別に、どこにいたっていいんじゃないかと。

 

  *


 一階にトルコ料理屋が入った、綺麗とは言い難い雑居ビルの階段を昇って三階。入口のビニールカーテンを捲って中に入ると甘くて香ばしい匂いにワッと包まれる。

「おはようございま〜す」

 おはよう、とのんびり返した店長のキングさんは、あたしの顔を見ると人さし指で自分の頭をちょんちょんと指さして「いいじゃん。髪色」と言った。

「いいでしょ」

「うん、可愛い。かき氷にかけるイチゴシロップみたい」

「わかるようなわかんないような喩えですね。もうすぐ墓参りだから新しくしたんすよ」

「墓参りでその色にすんのはイカれてるだろ」

 キングさんの呆れた声を通り過ぎて、店内の掃除に取り掛かる。トイレと洗面所から始めて、ざっと綺麗にして予約を確認してから入口の手前とビルの一階に看板を出すと、待ってましたとばかりに常連のお姉さんが来たので「はやいじゃん」と声をかけた。

「今日は何がいい?」

「んー、適当にお花系。に、ザクロちょっとだけ入れて」

「おっけ」

 ボウルに葉を詰め込みながら、紙巻煙草を吸っているキングさんに「福岡にもシーシャ屋ってあるんですかねぇ」と投げかけてみると事も無げに「あるよ」と返ってきた。

「天神っていうの? あのあたり結構あった。前行ったとき、警固公園の近くの店行ってみたけどフツーに良かったよ」

「けごこうえん?」

「そういう公園があんの」

「へぇ」

「行くの?」

「福岡で働こうかなぁって思って」

「えっ! ガチ?」

 キングさんが素っ頓狂な大声をあげて、フロアの隅っこのソファ席で備え付けのディスペンサーから注いだアイスコーヒーを飲んでいた常連のハルカさんが「りっちゃん福岡行っちゃうの?」とついでに声を張り上げてきた。

「なんで?」

「なんか好きな人が福岡行っちゃうらしくて」

「りっちゃんの好きな人って既婚者じゃなかった? 別の人?」

「や、既婚者の人」

「いやそれはまずいってぇ」

 キングさんとハルカさんは口を揃えてブーイングした。

「意味わかんないじゃん、既婚者が地方行くのについてくとか。いくら夫公認の間女でもさ」

「そうだよ、だってそこまでしてついてったって将来的に家族とかパートナーになれるわけでもないし、結局その人には夫がいるんだよ。最後には絶対、そっちを選ぶよ。福岡で捨てられたらどうすんの」

 ハルカさんのそこそこ厳しい言葉に、あたしは怒るでも悲しむでもなく「そうだよねぇ」と無駄なほど語尾を伸ばした。別に、福岡で優美花さんに捨てられたらそのときはそのときと言うか、もちろんあたしは優美花さんが大好きなのだからそんなこと考えたくもないけれど、たぶんそれはそれであたしは福岡あるいは日本のどこかで生きていくんだろうとも思う。でも所詮、「じゃああたしも行っちゃおうかな」なんてのが単なるタラレバで、どうせ来年も再来年もあたしはここにいるんだろうなということは、あたしが一番わかっている。

 調整のためにゴボゴボと吸い込んで吹き出したハルカさんのための煙は、薔薇とジャスミンとラベンダーの花束を撒き散らしたような、くらりとするほどの香りがした。そして奥のほうに、ちくんと甘酸っぱい柘榴の実が残っていた。


   *


 目が覚めるとカーテンの隙間から、強すぎる日光が差し込んでいた。緑のカラコンを入れて、ラメ入りのグロスを塗った。半分はあたしの、もう半分は朝陽のものだったピアスを着けた。扉を開けて部屋の外に出ると、もう光が欄干に凭れて立っていた。

「はよ」

「はよぉ」

「行くか」

「ん」

 立川より西の奥に行くのが、随分久しぶりの気がした。オレンジ色の中央線が立川で青梅線に切り替わると、横のボタンを押さなければ駅に停車してもドアが開かなくなる。車窓の外は晴れていた。少しずつ人が降りていく電車の中で、あたしと光はほとんど喋らなかった。

 百円ライターとビニール袋に入れた雑巾だけは持って来ていた。目的よりふたつ手前の駅で一度降りて、スーパーで買い出しをした。安物の線香。ペットボトルの水。あいつが好きだったエンゼルパイ。缶ビールを三本。毎年のことなのに、アサヒスーパードライをカゴに入れるときに光と一瞬目を合わせてちょっとだけニヤついてしまう。くだらない駄洒落だ、と思って。

 蝉がひっきりなしに喚いていた。駅から少し歩いたところの寺の墓地に、朝陽の墓はあった。その寺は、たしかまだ生きているはずの朝陽のおじいちゃんがお世話になっている寺なのだそうで、松本家が代々遺骨を置いている墓に彼女も入った。朝陽としては家も先祖も仏教も寺も宗派も知ったこっちゃないと思うから、あいつが大人しく霊園にいるとは思えない。別にどこをほっつき歩いていてくれても構わないが、命日くらいはここにいてくれないと困る。そうでなければ、あたしたち生きている人間にとっては花を手向ける、もといビールを傾ける先もないのだから。

「朝陽〜、来たよ」

 ペットボトルから水をかけて、「松本家之墓」と文字が入った墓石を雑巾で拭く。ライターから直で線香に火を点け、線香皿に置いた。隣の光が同じようにしたのを見届けてから、酷い暑さのせいですでに温くなっていそうなビールをレジ袋から出してプルタブを開けた。ひとつは墓石の前に置く。横にはエンゼルパイを。さっさと持って帰らないと、この熱された石の上に置いておいたらあっという間にどろどろになりそうだ。

 朝陽の缶にあたしと光はそれぞれ銀色の缶をぶつけて、ほろ苦い炭酸の液体を呷った。陽射しは絶え間なく降り注いでいて、朝に日焼け止めを塗った肌がじりじりと灼かれ、汗を流していた。

 あたしは墓石の前に立って、タンクトップを胸の下まで捲り上げた。しゃがんでいた光はあたしを見上げて一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに呆気に取られたようにぽかんと口を開けた。

「すげーなそれ。がっつり入れたな」

「そぉ。さすがに銭湯行けなくなっちゃった」

 腹の左側、臍の横あたり。太陽と上弦の月が重なった図柄のタトゥーが、ちょっともうワンポイントシールでは誤魔化せない大きさでくっきりとあたしの肌の上にいる。

「なんつーかちょっと……ベタすぎね?」

「そう思ったんだけどさ。でもあたしって本来けっこうロマンチストだから、これくらいでもいいかなって」

「あっそ」

「朝陽に一番に見せてやろうと思って」

 タンクトップの裾を下ろして元に戻した。それからあたしはデニムのショートパンツのポケットから煙草の箱を出して一本抜き取り、線香に火を点けたのと同じライターで先端を燃やした。わざとシーシャみたいにふかして、真っ白い煙を吐き出した。

 朝陽が死ぬより何年も前に新式に建て替えられた地元の斎場で、あたしは朝陽を燃やした煙を見なかった。煙突はどこにも無くて、炉の中に閉じ込められた朝陽の身体は次に炉が開いたときには魔法のように、または嘘のようにばらばらの骨と灰に変わっていた。それであたしはあれからずっと、どこかで立ち上り消えたはずのその煙を想像している。

 それぞれビールを飲み干したあと、朝陽のぶんを光と半分ずつ飲んだ。一瞬ウェッとなるほど温かった。

「じゃあね、朝陽。また来年。たぶん」

「たぶんな」

 そう、たぶん。来年は来ると思う。再来年の夏も、その次も来ると思う。でもいつか、毎年は来なくなるだろう。あたしが覚えている朝陽の匂いはどんどん薄くなっていくし、あたしは他の女を好きになる。それを今は怖いとは思わない。そういうものなんだろうと思うだけだった。ある意味その代わりとして、何らかの碑として太陽と月を腹に彫ったのかもしれなかった。

 寺を出て、近くの中華屋でラーメンと半炒飯を食べた。光は餡掛け焼きそばを食べていた。古いテレビで甲子園のニュースが流れていた。

 夏だった。

 朝陽が死んだ夏だった。

 あたしが、朝陽が、光が、あたしたちがいつか小さな教室で、または小さな街で過ごした夏だった。なんにも考えず、愉快に踊っていた夏だった。

 今、あたしたちは大人で、欠けたものも失ったものもあるが、まあなんとか、それなりに愉快に踊っている。

 それならそれでいいかと、思いながらあたしは額に滲んだ汗を拭った。