虎の剣
大学生の頃、一度だけ死のうとしたことがある。
原因がなんだったのか、今でもはっきりしないけれどその頃俺はとにかく生きるのが苦しかった。上京して学生街に安アパートの一室を借り、毎日の授業の後に居酒屋でバイトをしていた。
故郷の親からある程度は援助を受けていたし、食うに困るほどの苦学生というわけでもなかった。そんなに活発なほうではないから友達は多くなかったけれど、ひとりぼっちというわけでもなかった。
なのにある時期、急に世界が薄暗くなった。朝目が覚めて、身支度をして家を出なければと思うのに身体が重くて動かなかった。それで何度も授業を欠席した。
それでも午後にはなんとか布団から這い出て、夕方からはバイトに行った。俺の働いていた居酒屋は街の大通りから道を逸れて目立たない路地裏に入ったところの、小ぢんまりとした隠れ家的な店で、いつも少ない人数で回していたから、俺が休んだら店長や同僚に迷惑がかかると思ったのだ。
その頃、俺がシフトに入るとほぼ毎回見る常連客がいた。若い男だった。彼のことは今も鮮明に覚えている。死のうとした話はどうなったんだって? まあ聞いてほしい、彼の話のほうが大事なんだから。
初めてその男を見たとき、俺は正直ちょっとビビった。一八〇センチくらいはある長身と筋骨隆々な体格。Tシャツの袖から覗く腕の、手首までを覆うトライバル模様の黒い入墨。ツーブロックに刈り上げた髪はやたらきれいな金色だった。顔立ちは端正ではあるものの眼光は鋭く、対峙した相手を威圧するには充分だった。しがない店員の俺は別に威嚇されていたわけではないけれど、それでも「いらっしゃいませ」という声が震えてワントーン高くなった。人を見た目で判断するのは良くないとは今でも思う。
夜七時過ぎ頃、男はカウンター席の端に座り、言葉少なにハイボールとエイヒレの炙りを注文した。一時間ほどでエイヒレをつまみにハイボールを二杯飲んだあと、軽く片手を挙げて俺を呼んだ。
「はい、お伺いします」
きわめて行儀よくただ黙々と酒を飲んでいるこの男に、俺は最初顔を合わせたときほど怯えてはいなかった。エイヒレやお代わりのハイボールを出すとき、男は必ずこちらの顔を見て会釈をした。ただのバイトとはいえ客商売をしていると、良い客か嫌な客かということは簡単に見分けがつく。
「……この店の、おすすめはありますか」
遠慮がちと言ってもいいほど静かな低い声で、彼は俺に尋ねた。
「お酒ですか? お料理?」
「料理で」
俺は一瞬考えた。
「当店は海鮮居酒屋なので、お刺身がおすすめです。でも本当は、僕の個人的なおすすめはチキン南蛮です。うちのタルタルソース、めちゃくちゃ美味いんです」
男は「へえ」という顔をして、ちょっとだけ迷うようにメニューに目を遣ったあと、「じゃあチキン南蛮をください」と言った。そのあとは特に何も言わずにチキン南蛮と三杯目のハイボールを空にして静かに会計をして帰った。彼がチキン南蛮を気に入ったらしいことは後でわかった。そのあと来店するたび、彼が注文するのは必ずエイヒレの炙りとチキン南蛮で、飲み物はハイボールだった。
ところで話を戻すと、俺が死のうとしたのはある日のバイト帰りの深夜だった。電車を待っていた。ホームにはほとんど人がいなかった。一人か二人くらいはいたかもしれないが、俺が覚えている範囲には見当たらなかった。
「列車が通過します」という放送が聞こえて、通過するんだな、と思った。遠くからがたたん、と電車の音が聞こえてきた。そのとき不意に、「この電車が来るのに合わせて飛び込めば死ねるんじゃないか」という考えが俺の脳内をワッと埋め尽くしたのだ。
生きていくことは徒労だと思った。たとえひととき楽しいことや幸せなことがあったとしてもほんの一瞬の幻想に過ぎない。そんな幻想のために苦しみと疲れを繰り返すことに何の意味があるんだろう? とっとと終わらせてしまえばいいじゃないか。
電車がホームに滑り込んで来るのが、スローモーション映像のようにゆっくりとして見えた。俺の足はよたよたと黄色い点字ブロックのほうへ歩を進めた。そのとき線路の中に、黒い影を見た。影は人の形をしていて、顔の造作はわからないけれど何か笑っているように見えた。こちらに向かっておいでおいでと俺を招いているようだった。
まさに線路に向かって踏み込もうとした瞬間、その線路の向こう側、黒い影のさらに奥に人が立っていることに気が付いた。それは影ではなく、正しく人だった。むしろ光っているようにすら見えた。その人は蛍光灯の光を受けて白銀にきらめく長い刀を構えたと思うと、こちらへ向かってひゅっと跳びながら、黒い影を斬った。そして次の瞬間には、ガーーーーッと音を立てて電車が通り過ぎた。
気が付くと俺は尻もちをついて座り込み、呆然としていた。ホームには再び静寂が訪れた。線路の上にはもう誰もいなかった。何事もなかったかのようだった。
すぐそばで気配がして見上げると、人が俺を見下ろして手を差し伸べていた。それは、その日も数時間前にバイト先の居酒屋で見たあの金髪の男だった。
「立てるか?」
彼はそう言って、がっしりとした大きな手をずいと俺の鼻先に近づけた。反対の手にはまだ、あの大きな刀を持っていた。刀は太刀魚のように滑らかで、ゆるく弧を描くように湾曲していた。時代劇で見るような日本刀ではなく、西洋風の刀のようだった。俺は声もろくに出ないまま、彼の手を掴んだ。彼は俺をぐいと強い力で引っ張って立たせた。
「あんた、あれが見えたのか?」
「か、かたな」俺はそれを指差した。
「ん、ああ、これも見えるのか」
男はちょっと刀を持ち上げると、ぱっと手を振った。と思うと、その美しくて大きな刀は影もかたちもなく消えてしまった。
「で、あれを見たのか」
「あれ、って」
「黒い影だ。線路の上にいた」
「見た」
男は「そうか」と表情を変えずに頷いた。
「普通は見えないんだが、まれに見えることがある。でも、もう見えないはずだ。安心していい」
安心していいと言われても、男の言う「あれ」が何なのか、普通は見えないというならなぜあのとき俺に影が見えたのか、そしてなぜ「もう見えないはず」なのか、刀はどこへ消えたのか、何ひとつわからなかった。男に訊こうにも、何をどう訊けばよいのかもわからなかった。男はいつの間にか背中を向けて立ち去ろうとしていた。
「ああ、そうだ」
男は振り返って、もう一度俺を見た。
「あの店のチキン南蛮、美味いよ。いつもありがとうな」
それだけ言って、彼はコンコースに降りる階段のほうへ歩いて行った。俺はその背中に向かって「またのご来店をお待ちしております」と声を掛けた。
しかし、男はそれから二度と店に現れなかった。店長に「あの人、最近来ました? ほら金髪で入墨の、ムキムキないかつい人」と訊いてみたが、「いや、見てないよ。そういえば来なくなっちゃったなあ」と首を傾げていた。
あのホームでの一件を境に、俺の希死念慮は憑き物が落ちたように無くなった。朝も普通に起きられるようになり、落とした単位は二つだけで済んだ。世界の色合いは死にたくなる前の平凡なトーンに戻った。
今になって思い返せばあの頃の俺の症状は鬱病の兆候だったと思うのだが、だとすればなぜあの影を見て、そして金髪の男がそれを斬ったことで治ったのか、説明がつかない。あの影は、そしてあの男はなんだったんだろう。俺は今、死にたいと思うことはほとんどないけれど、駅で人身事故のアナウンスを聞くとあのときのことを思い出す。