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土台

2024.02.03 02:33

Facebook田中 宏明さん投稿記事

例えばあなたが人の家に招かれたとします 家に入ると様々な家具や照明 色とりどりの調度品が目に入ります^ ^ それぞれが個性的で デザインも美しく魅力的です

ただ当たり前ですが大理石でも敷き詰められていない限りそれらの調度品が置かれている床を

まじまじと見る人はほとんどいないでしょう 床は当たり前にそこにあって当然だからです

誰もその存在に気づく事はありません

いつも僕が言っている「愛」というのはこの床と同じです^ ^

たくさんの家具や調度品がどんなに素晴らしいものでも床がなければそこに置くことは出来ません

でも仮に自分が床だったとしたらどうでしょう?

誰もあなたの存在に気づくこともなく足で踏まれたくさんのものを置かれてもとくに感謝されるわけでもありません だから出来るなら デザイナーのつくった 美しいラインのソファー

になりたいそう思うかもしれません^ ^

ただいつかそのソファーも新しいデザイナーのつくったもっと魅力的なものにとって変わられるでしょう 他のあらゆる調度品も時代とともに移り変わっていくでしょう

床はただその移り変わりを見つめています 愛もまさに同じように人のあらゆる営みを見つめています いつも 僕があなたは 愛ですよという時は あなたは床ですよと言っているのと

同じなのです^ ^

移り変わっていく家具や調度品や来客はあなたがそれを所持していることでまたはそんな人と

知り合いということで自分はひとかどの人間になったように思わせるエゴそのものです

あなたのエゴが落ちた時床の広がりに気づきます

地味で何の魅力も感じなかったその存在こそがあらゆるものを成り立たせていたことに気づきます

ブッダやキリストは温かく広大な床です たくさんの人がその上でくつろぐことが出来ます

反対にエゴにとらわれた人はそのソファが置けるだけと同じ大きさの床を持っているだけです

自分自身も客もどこにも自由に動く事が出来ません

床があってはじめての調度品だと気づかないかぎりエゴの人はその狭い世界の中を生き続けます 自分と相手に与えるのは限界と窮屈さです 愛は人をどこまでも自由にしてくれます

無限に途切れることのない広大な広がりの中で無限の可能性に出合わせてくれます

あらゆる美しさにいたる広がりに出会わせてくれます

さて^ ^土台とは価値のないものでしょうか?

床ならぬ愛は地味で価値のないものでしょうか?そうではありませんよね^ ^

自分自身や自分の大切な人にあらゆる可能性や美しさの広がりを感じさせてくれる喜びこそ

僕たちが本当に求めているものです

それこそが 無条件の愛そのものです^ ^ 愛はいつも僕たちの 足元に広がっています

人生をかけて探していたものが足元にあったと 気づいた時人は爆笑します^ ^

今日があなたのそんな爆笑の日になりますように😁✨では良い一日を🌈らぶ💓


http://100nenhaiku.marukobo.com/?eid=1293895 【俳句を愛するということ】より

俳句を愛する私たちは、お互いの作品を信頼することを土台としています。

俳句には「類想類句」という言葉があります。

文字通り、同類の発想・同類の句という意味です。似たような発想の元に、似たような句ができるのは、短詩系文学の宿命です。ましてや俳句はたった十七音。俳句を作るということは「類想類句」との闘いなのです。

しかし「類想類句」を恐れていては、俳句は作れません。日本中いや世界中で作られている俳句、詩歌すべてを網羅するデータベースを作ることは不可能。そんなことに奔走するのは、本末転倒。

俳句を愛する私たちは、自分の心を表現したくて俳句を作る。

あくまでもそれが第一義です。

「類想類句」は当然生まれます。

だから、俳句を愛する私たちは、他の人とは違った表現、多彩なオリジナリティと究極のリアリティを求めて研鑽し合うのです。数日前の本ブログ記事への書き込み。福岡の理酔くんが書いてくれてました。ニックの音楽に対する姿勢に触れたコメントです。

「ニックさんの音楽に対する姿勢に圧倒されます、変化させようもない名曲のスコアにどう己の音をぶちこむのかを問い実行する。スコアの忠実な再現者ではない表現者の闘いに感銘します。

俳句も同じだ、昔からある季語に対峙して如何に新しい表現をぶつけるか。古い革袋には新しい酒ではなくて、誰も知らない酒を注ぎ込まなくてはと思いを新たにしました。」

そう、これが俳句を愛する私たちが求めるものです。

とはいえ、たった十七音しかない俳句ですから、自分が創った句が誰かの句に類似していた!ということはよくあります。あるいは、その句がいつかどこかの段階で自分の脳に刷り込まれていて、自分の句のような顔をして後日現れるということもあります。私も経験したこと、何度もあります。

最初に経験したのは三十年前。まだ初心の頃です。

先輩方と吟行に行きました。気持ちのよい秋の日でした。座り心地のよい石を見つけてそこに座り、句帳を開いていると、頭上から大きな葉が降ってくるのに気づきました。大きな葉でした。秋のひかりを受けながら、きらりきらりと落ちてくるのです。なんて美しい葉なんだろうと感嘆しつつ眺めていると、心の奥底から一片の詩句が浮かび上がりました。

「日当たりながら落ちにけり」

うん、これはまさにこの葉の描写だ!と自分なりに納得しました。あとはこの葉がなんという植物の葉なのか、誰かに聞けばいいだけです。近くを通りかかった、句会の先輩に「これはなんという木の葉っぱですか。」すると先輩は、笑いながら「いつきさん、この葉の名前を知らないのか。桐だよ、桐一葉だよ」と教えて下さいました。へえ、これが桐か。そういえば「桐一葉」って季語が歳時記に載ってたなあ。

「桐一葉日当たりながら落ちにけり」

うん、佳い句を授かった!と思った瞬間、脳内に妙な波長が起こりました。ん?……これは。次の瞬間、私は唖然としました。これは高浜虚子の句だったことに気づいたからです。この葉の名前が分からない状態で、中七下五の詩句が浮かぶ! これぞ、虚子の言葉の力なんだ!と、ひれ伏す思いでした。

俳句を続けていれば、誰にでもこんな経験はあります。

俳句を愛する私たちは、お互いの作品を信頼することを土台としています。

そのような人は、俳句を愛している人ではなく、誉められることを愛している人です。

そのような人たちは、いずれ俳句に捨てられます。

実に傷ましいことです。痛々しいことです。俳句を愛する私たちは、俳句に捨てられたくない。だから、真摯に俳句と立ち向かう。だから、真剣に俳句と遊ぶのです。

俳句を愛する私たちは、信頼のもとにつながっていなくてはいけません。

清らかな思いで、俳句のある人生を共に歩いてまいりましょう。

- by 夏井いつき

コメント

組長様、ワタクシの戯れ言を引っ張り出していただきましてありがとうございます。個人的には未だに先行句の件にぶつかったことはありませんが「その時は、先人のレベルまで辿り着いた事を喜び、真摯な態度で己の句を取り下げる」で、よいのではないでしょうか。

その人はもっと良い句が幾らでも出来るレベルでしょうから、その句はあっさりと棄てて次に向った方がよろしいと考えます。

理酔拝

そうなんですよね。誰かの作品が別の誰かの作品に、似ていたら、それをネタに、楽しそうに、面白そうに、批判してくる人いるんですよね。何か、上手く言えませんが、結局、彼らが詠んでいるのは、俳句ではなくて、自分への愛。自己愛を詠んでいるという気がすると言いますか。とにかく、彼らが詠んでいるのは、俳句ではない。私も、そんな人にならないように、俳句を愛しながら、この人生を歩んで行きたいです。

大津美

もう何年も前の話ですが、所属結社の句会に出た時のこと、入会間もない方(俳歴はおありの方)が、少し俳句をやっているものなら誰もが知っていておかしくない名句の上五に字余りの文言を足して出句されてました。選者の講評が始まり、当然そこは指摘されるだろうと思って聞いておりましたが、一向にその気配がありません。あまつさえ、点が入る有様。仕方なく作者のそばまで行って、こっそり歳時記を示して、その旨を伝えると、すごい顔でにらまれてしまいました。以後、句会でその方と一緒になるのは憂鬱の種のままです。

こんなこともありました。主宰の選とは別に、同人誌の切磋琢磨のシステムとして、互選のページが設けられていました。小さい結社ながら毎月千を超える句を、当時、選が面白くて仕方がなかった私は、舐めるようにして全句を拝見して、これ!という一句を見出して自己満足に浸っていたものです。ある月のこと、その一句に関して、少し珍しい季語だったので、季語の本意を知ろうとして季語辞典を紐解きました。そして、川端茅舎の句に一字一句違わない名句があることを知りました。主宰選と互選には一か月のずれがありましたので、もし主宰がご存じないならこの句は当然選ばれていることだろう。もしご存じであったならば、誌の片隅欄に類句が見つかったから取り下げますという文言がひっそりと記されているだろうに、その文字はどこを探してもありませんでした。要するに、茅舎の名句は見落とされたのです。仕方ないのでその旨をしたためて、編集社に報告しました。結局、作者より取り下げの文言が載ったのは、二、三か月遅れてからのことでした。それ以後、自分の選句熱が急速に冷めていき今に至ります。

ここでこんなことを書き込むのが適当とは思いませんが、楽しい俳句の集まだからこそ、類想類句の軋轢は、自らを含め、避けて通れない頭の痛い問題です。

ただ、そんな嫌な思いや失望を味わいつつも、俳句は、それ以上の人生の充実を約束してくれる、素晴らしい世界最短詩であるという思いは変わりません。

思わず長々と書き込んでしまい、失礼いたしました。

チィープ 

私も同意見です。「盗作された!」と騒ぐ人もいますが、盗作で誉められたって意味ないでしょう。

盗作するような人は進歩もないし、人に信頼されないでしょう。自分自身でも恥ずかしくなるのではないでしょうか?ならない人は、もはや人間失格です。

いつき組リスナー班 たあさん 

だからさ「歳時記を捨てよ、町に出よう」なのさ

ねこ端石 

(以下略)