言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から (二)
標高七百五十メートルに位置する我が家では、春の足音の最たるものはなんと言っても雪崩の轟音に止めを刺すでしょう。
鋭く切り立って西に聳える高峰がまばゆい旭光に照らされてバラ色に輝き始め、そのしばらく後にあちこちの急斜面から雷鳴に似た重低音が発生し、南国育ちのタイハクオウムのバロン君はただもう恐怖に駆られて慌てふためくのですが、しかし、地元民にとっては待ちに待った季節の到来の証以外の何ものでもありません。
花火大会の始まりを告げる最初の一発と同じで、わくわく感を禁じ得ず、ひいては今年もまだ生きられそうだという能天気な実感を、けっして大袈裟ではなく、ひしひしと覚えてしまうのです。
山々が冬眠から目覚めると、残雪に覆われた大地もまたそれに倣って起き上がる準備を始めます。すると、身も心も強張らせて冬を耐え忍んだ人間と野生の動物たちもまた、死んだふりを止めにして、躍動のための生の爆発にときめきを感じないではいられません。
私好みの集結である、さまざまな種類から成り立つ植物群はというと、相も変わらずの沈黙を頑なに守ってはいるのですが、それでもしかし、蕾を膨らませる力の波を無視することなどはできません。
気早なサンゴカエデなどは居ても立ってもいられないのか、すでにしてその枝の赤色を一段と濃くしています。まあ、野生種のツツジの仲間で最も早咲きのアカヤシオツツジは、自分のほうから開花の時を引き寄せつつあるのです。
そうはいっても春一番の到来はまだまだ先のことで、真冬並みの寒風のひと吹きによって季節が逆行するといった日を幾度か繰り返さねばなりません。
その焦れったさが一層期待感を煽り、生きとし生けるものが落ち着きを失って、ただもうむやみやたらとそわそわし、「命さえあればきっと何かいいことがある」という毎度お馴染みの、根拠なき期待感へといざなわれます。
そしてこの冬もまた、厳寒に閉ざされたがために発生した御神渡りよろしく、魂の湖面を人間的にして文学的な言葉が突き破って飛び出しました。創作活動を止められない所以が、きっとここにあるのでしょう。
死については死んでから考えようと、そう遠ざかりつつある冬が呟きました。
どっこい 死んでたまるかと、そう雪囲いを解かれたシャクナゲがうそぶきました。