12:主人公が全然来ない話
カウントアップはシンプルなダーツの遊び方だ。二十四回投げ、その合計が自分の点数になる。最高得点は一四四〇点で、千点を超えるあたりがプロの目安らしい。
明智は自然体で構え、台に向かってステンレスの矢を持ち上げた。ゆっくりと息を吐き、慣れた仕草で左手を振る。真ん中よりすこし上、細い赤枠に吸いこまれるようにしてそれは突き刺さった。このボードで最も得点の高いエリアだ。
けれど明智はピクリとも眉を動かさず、淡々とそれを引き抜いてため息をつく。
(……面白くない)
以前はひとりで投げるのも好きだった。上達して機械の点数が上がっていくのは楽しかったし、誰か相手がいなくても十分遊べるのがこのゲームのいいところだ。
でも、今日はどうにも興が乗らずに台からすこし離れた丸椅子に座って紙コップのラテを飲む。ダーツバーに入店したとき頼んだそれはすっかりぬるくなっていて、なんだか間が抜けた味がした。
気だるい気分で口を離し、そばに置いた春物のコートからスマホをとりだして画面を見る。
(……あいつ、まだ見てないのかよ)
明智は不機嫌に唇をとがらせた。
『吉祥寺のいつものダーツバーにいるんだけど、来る?』
一時間以上前に送ったメッセージは未読のまま、明智はもう二十本近くを投げ終えていた。もういい時間だ。相手がこれから来ることもないだろう。
つまらない気分でスマホをしまい、けっきょく全部を投げぬまま明智は料金を払って店を出た。
夜風はやわらかく頬を撫で、向こうの飲み屋街では酔っ払いの陽気な声がしている。週末の夜はにぎやかだ。このごろは日が暮れても暖かくなってきたからよけいだろう。
ひとりの明智は目を渋く細め、JLの吉祥寺駅へ革靴を向ける。脳裏には返事をしない男の顔が浮かんで、明智は苛立ちを覚えながらアスファルトを蹴った。
四月に入って大学の二年に上がってからというもの、彼はとたんに忙しくなった。以前なら週に二、三度は明智の家に来て好き勝手をしていたのに気づけばもう二週間近くは顔を見ていない。
『生きてるのか』
数日前明智が一応そう送ると、ヨレヨレになった犬のスタンプがひとつだけ返された。そうしてそれぎりだ。今日だってプライドとなんとか折り合いをつけてダーツに誘ってやったのに既読すらもつかない。
駅のホームでどこか浮ついた春の風を受けながら、明智はブスッとブサイクな顔をした。どれだけブスになってもその写真を撮る男も今日はとなりにいないのだ、なんだっていいやとコートの胸を張ってみせるけれどそれもバカらしくなってやっぱりやめた。電車を待つ人々はみな楽しげになにかを話していて、よけいにみじめな気持ちにさせられた。
(……全部、あいつが悪いんだ)
あれだけ好きだ好きだと勝手に押しかけておいて、いきなりプツッと来なくなる方が悪い。彼の作る料理に慣れてしまったおかげで自炊もめんどうだし、なんとか自分で作っても全然おいしく思えなくて食欲がなくなった。
仕事を終えてしまうとやることがなくてつまらなくて、かといって彼の他にプライベートで会うような相手も明智にはない。彼以上に気を遣わずに済む相手がいるとも思えないから探す気もない。
仕方がないからやけに広い気がするベッドで眠ると夢では彼がいて思わず嬉しくて、朝起きてそんな自分を自分で殴る。
ひとりでいるのが以前は好きだったはずなのに、今はなぜか時間が余って仕方がなかった。本を読んでも感想を話す相手はなく、勉強しているといつもみたいにちょっかいを出してくる男がいないので逆に調子が狂って集中できない。今日みたいにダーツでどれだけいい点をとったところで、彼と競えないのでは感動もない。
この広い東京で、まるで明智は迷子の子犬になったような気分だ。彼がいきなり手を離したりするから途方に暮れている。
ホームには電車が来たのに明るすぎる車両になぜか乗る気になれなくて、明智はそれを見送ってハア、としゃがみこんだ。
革靴を見つめてしばらく考え、踵を返して反対のホームに来た電車に乗る。ここから四軒茶屋へは渋谷で乗り換えて三十分ほどだ。
「お前の返事がないからとうとう死んだかと思って来てやった」
そう言って冗談でごまかせばさほど恥ずかしい思いもしないで済むだろう。財布にはルブランのスタンプカードも入っている。いざとなったらそれをつきつけてスタンプを貯めにきたと言えばいい、そう思って見慣れた喫茶店のドアを押して、明智はぽかんと口を開けた。
「……あれ? ……あー、あいつの」
カウンターの向こうの店主、惣治郎は明智の顔を見るとそう言ってうなずいて、ごめんなと頬をかいた。
「ごめんな、あいつ、今日はまだ帰ってきてないのよ」
「え……あ、そ、そうなんですか」
「最近ほら、アレ、通ってるじゃない」
「……アレ?」
「いや、教習所だよ」
明智はほとんど、探偵にはあるまじき顔をしていただろう。数呼吸おいてそれに気づき、はたと慌てて己の口をとじる。
「えっ、あの、きょ、教習所?」
「あ? 聞いてなかった?」
「……そうですね」
「あー、忙しかったから。言ってなかったのかもね」
お詫びに一杯奢るから座ってよ、そう言ってカウンター席を指でさされ、店内に客もないので明智はよろよろと腰を下ろす。
(……あいつ、会ったら絶対ボコボコにしよう)
生意気に隠しごとなんてしていた男の顔を浮かべてそう思いながら、差し出されたコーヒーのカップににこりとほほえむ。手袋の左手で持ち上げてかたむけ、あれ、と明智はまばたきした。
(いつものと、ちょっと違うな)
香りは慣れたそれだから、豆はきっとおんなじものだろう。上手く言えないが彼のそれよりはなんだかすこし苦いような気がして、明智は黒茶色の水面を見つめてみる。シンクの向こうで惣治郎は苦笑した。
「……ごめんね、あいつの味の方がうまかったかな」
「えっ!! や、そ、そんなことは……だって、マスターと同じやり方ですよね?」
「教えたのは俺だけど、あいつなりにアレンジしてるから。……あっさりめが好きだって聞いてたんで、今日はそうなるように作ってみたんだけどね」
いやぁ、違いがわかるんだねぇ。しみじみ言われて明智はなぜだか恥ずかしくてたまらなかった。舌先から耳まで熱くてジンジンする。明智はうつむいてギリッと唇を噛んだ。なんだかこれでは明智の方が、彼のことを大好きで仕方がないみたいではないか。
(……ッくそ、あの、ゴミ野郎……! ぼっ、ボコボコにして、めちゃくちゃに泣かせてやる……)
明智はほとんど味もわからぬままコーヒーをあおった。グビグビと飲み干し、立ち上がって惣治郎に頭を下げる。
「す、すみません、ごちそうさまです。……僕、帰ります」
「え? もうちょっとしたら、帰ってくるころだと思うけど」
「か、帰ります……!」
アタッシュケースを両手で抱え、明智は逃げるようにして店を出た。
わたわたと地下鉄に乗って電車を乗り換え、自宅のマンションに帰ってようやくひと息つく。なんだかひどく疲れた気分でストールをほどいてコートを脱ぎ、リビングのソファに座りこんだときだ。ピンポンとインターフォンが鳴った。
(え?)
こんな時間に誰がと見やって明智はまた飛び上がった。
(な、なん、……なん……ッ!?!?)
オートロックのモニターに彼が映っている。ルブランに帰ったんじゃなかったのかと思って明智がうろたえていると、伊達メガネの男はカメラをのぞきこんでパクパクと口を動かした。開けろと言っているらしい。
明智はためらった。今顔を合わせるのはどうにも気まずい。今日はダーツバーに行ったと言ってあるし、通話ボタンもまだ押していなかった。なんなら居留守を使えば彼はあきらめて帰るかもしれない。悩んでいるうち規定の時間を過ぎたモニターは暗くなって、明智はほっと息を吐いた。その瞬間だ。
ピンポーン!!
(~~~~~!!!!)
男はめげずにやっぱり立っていて、今度はさっきとちがう言葉を口にしているようだった。明智は目を細めてその口の動きを見つめて、それから真っ赤に頬を染めて解錠のボタンを押した。誰が通るかもわからない場所でよくそんな恥ずかしい告白ができたものだ。こんなことマンションの住人に聞かれたら明智はもう一生外に出られなくなるだろう。
(クソ……ッ!アイツ、ほ、ホントにサイテーだろ……ッ!?)
明智は悔しさで歯ぎしりして、それからドスドスと廊下を歩いた。追い返そうとしたって玄関先でもどうせまた同じことをやられるのだ、いっそのこと自分から開けてやった方がマシだと思って玄関のドアを開けて、あ、とつぶやく。
「……ッッ! ぁげぢ……いだい……」
「ご、ごめん、……いると思わなくて、」
座りこむ彼に手を伸ばしかけて、自分は怒っていたのに気づいて明智はハッとそれを引っ込めた。廊下に尻もちをついた彼が恨めしげに見上げてくる。
「……なんか、恨みでもあるのか?」
いや、恨みと怒りしかないが。それでもさすがに気の毒に思って、今度は一応立つのを手伝ってやった。ドアが思いきり当たったおかげでかなり痛そうに鼻をおさえている。男はうめきながら明智の家に上がった。
「てか、なんで来たんだよ」
ソファに座り直して明智はたずねた。となりでようやく鼻から手を離した男はああ、とうなずく。
「明智が来たって、惣治郎から携帯に連絡きてて。家に帰ったって聞いたから」
「……べつに、追いかけてくる必要なんかなかったのに」
彼はきょとんと首をかしげた。
「寂しがると思って」
明智は深々とため息をつく。
「お前……ほんと、どんだけ自意識過剰なんだよ」
「最近忙しくて来られなかったから」
明智はそうだと思い出した。
「教習所、行ってるんだって?」
「え! ……惣治郎、言ってた?」
「ああ」
彼はハァ〜〜〜と天を仰いだ。
「……おどろかせようと思って秘密にしてたのに」
「はぁ?」
彼はくしゃりと癖っ毛をかく。
「明智のこと、色んなとこに連れてきたくて、春休みから通い始めて、……免許とれたら、言おうと思ってて」
(……そういうことだったんだ)
いつもはうざったいくらいの連絡がパタリと止んだ理由にようやく明智は合点がいった。モヤモヤしていた気分がすこしだけおさまって、なんだかほっとした思いがする。
もうすこしで本免とれるところなんだと彼が言った。
「ふうん、そうなんだ」
「ああ、座学は全部終わって、あと、ちょっとだけ実習入れてる」
「へえ」
明智は通ったことがない場所だが、彼のことだから要領よく受講しているのだろう。
「うん、それで、明日は大学も教習所も休みにした。明智を甘やかそうと思ってたから」
「はあ?????」
明智はできるかぎり不愉快な声を出した。
「お前、ホントに何様だよ??」
「寂しかっただろ、ごめん」
明智は今すぐこの男をブチ殺したいと思ったし、過去にそうできなかった自分を深く悔いた。無神経な男は来いと言ってセーターの両腕を広げてくる。明智はわずかに身を引いて距離をとった。
「明智、ブルドッグみたいな顔になってるぞ」
「うるさい、お前のせいだ」
深くシワのきざまれた渋い顔で明智は彼をにらんだ。彼は両手を広げたまま、一歩も引く気がない顔をしている。
むう、とうなってしばらく粘り、それから肩の力が抜けて、明智は仕方なくその胸にぽすんともたれた。途端にむぎゅうと抱かれて思わず胸がドキリとして、それからハッと悔しくて彼の腹に一発入れる。
「ぅぐッ……い、痛い……」
「うるさい、一発で済ましてやっただけありがたく思え」
ホントはボコボコに泣かせてやる気でいたが、免許をとりたい理由を聞いたらなんだか気が削がれてしまったのだ。仕方なくそのまま彼の好きにさせる。
彼は大好きな飼い犬にそうするような手つきでワシャワシャと明智の髪や背を撫でた。ひとしきりそうして、それから明智の脇の下に両手を入れる。
「え? ねえ、なに、」
不意に体がソファを離れ、宙に浮いたところで明智は反射的につま先をばたつかせた。明智を持ち上げた男はさっさととなりの寝室に足を向けてぬけぬけと言う。
「二週間してないから溜まってる」
「ッッ……! おま、クソ、ホントに最悪なんだけど!? 今!?!?」
最悪だ、ほだされたのがバカみたいだ。明智はあわてて両手と両足で抵抗したが、明智が暴れるのに慣れた男はかんたんにその体をベッドに押し倒してしまった。
(こっ、こ、こいつ……!)
便利なデリヘルかなにかと勘違いしてるんじゃないのか。明智は羞恥にべそをかきながら思ったが、それにしてはすぐそばの男は切羽詰まった顔をしていた。今すぐ欲しいと言わんばかりの瞳にどきっとして、明智も思わず彼の手首をつかんでしまう。
会いたかったと低い声が言って、明智はぎゅう、と指先に力をこめた。これだからこの男が嫌いだというのだ。こんなふうに切なげに言われたら怒れなくなる。明智はそっと目をつむって、緊張に震える唇をよせた。