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リオクロス HIRAKATA

一語一会⑩

2018.11.09 23:53

「あきらめる理由を探すんじゃなくて、あきらめない理由をさがせ」

三浦 知良(1967年2月26日 - )🇯🇵

ニックネームは“カズ”、または“キング・カズ”である。

プロサッカー選手。Jリーグ・横浜FC所属。ポジションは左ウイング(ブラジル時代)、センターフォワード(日本帰国後)。2017年1月現在、プロフェッショナルリーグでプレーする世界最年長のプロサッカー選手である。

日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。

ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。

釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。 2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場。

ブラジル時代

1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退し、ブラジルに単身で渡航してCAジュベントスに所属した。

当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた。

1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した。

1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが、最終的に翻意しブラジルでの下積みを継続した。

後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。

三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである。

同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていたディフェンダーの中山雅史、フォワードの武田修宏らと試合を行った。

1986年1月には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。

1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約を結んだ。

5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たした。

しかしサントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍。

翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。

このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。

1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍した。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。

このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、三浦知良という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。

同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた。

クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。

1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した。

1990年2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍した。

移籍後にレギュラーの地位を確保すると、同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利した。

翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った。

Wikipediaより参照