生者の傲慢な寡頭政治
まず、ここではdemocracyデモクラシーの訳語として、民主主義ではなく、民主政を用いる。デモクラシーは、Ideologieイデオロギーではなく、デモス民衆のクラシー支配を意味する政治体制だからだ。
現代国家の民主政のモデルは、英国だ。英国議会には、我々から見ると、不思議な伝統や慣習が多く残っていている。
例えば、みなさんもご記憶に新しいと思われるが、State Opening of Parliamentステート・オープニング・オブ・パーラメント議会開会式だ。君主がウェストミンスター宮殿(議事堂)の貴族院で演説を行う際、与党の院内副総務クラスのベテラン議員一人が人質としてバッキンガム宮殿に送られ、君主が無事に帰宅するまで拘束される。この伝統は、数世紀前、君主と議会の関係が非友好的な時代、君主の身の安全を守るために取られた予防措置として始まったもので、現在は、儀式として行われている。
以前にもご紹介したBBCの動画には、他にも英国議会の面白い伝統や慣習等が紹介されている。いずれの伝統・慣習も、条文の形には成っていないが、法であると確信されているが故に、慣習法なのだ。
英国の民主政は、貴族、有産者階級、無産者階級、女性への参政権の拡大という形で水平的に拡大し、明治以来、我が国の民主政も、ほぼ同様の軌跡を辿っている。
しかし、英国の民主政を水平的拡大のみで理解することは、間違っている。
国家は、未来永劫(えいごう)存続することが前提になっている。それ故、国民は、現在の国民だけでなく、過去や未来の国民も含む概念であって、現在の国民だけでなく、未来の国民のために、過去の国民(死者)の意見や叡智、すなわち伝統や慣習に敬意を払って政治を行う必要があるのだ。そのため、英国議会では、不思議な儀式等が行われているわけだ。
この意味において、英国の民主政は、垂直的拡大を大切にしているといえる。英国において、史上初めて保守主義(自由主義を騙る平等主義であるliberalismリベラリズムではなく、真の自由主義。)が誕生したのは、かかる土壌があったからなのだ。
上記の英国議会の伝統や慣習等は、由来がはっきりしているものもあるが、伝統や慣習の中には、由来がはっきりせず、誰が始めたのかが不明なものの方が多い。
ハイエクは、このような自生的に発生した伝統や慣習を「自生的秩序」と呼んでいる。この自生的秩序には、マイケル・ポランニーのいう「暗黙知」(言語化できない知識・知恵)が含まれている。長い年月をかけて先人が試行錯誤しながら実践したことによって有効性が経験的に確かめられた叡智が含まれているのだ。
人間は無知であるが故に、伝統や慣習等の自生的秩序に敬意をもってこれを保守し、後世へと継承しながら、漸進的(ぜんしんてき。物事を徐々に進めるという意味。)に現状に合わせて改めていくことが何よりも大事なのだ。国民の自由にとって国家からの強制が最も重大な脅威であるが、伝統や慣習等の自生的秩序には国家も国民も自発的に従うので、国民の自由は危殆に瀕することなく保障されるからだ。
伝統や慣習を傲慢に無視して急進的に行われる抜本的な改革・革新は、なによりも避けねばならない愚行であって、多大な犠牲を伴って失敗に終わる可能性が高いことは、ソ連崩壊を持ち出すまでもなく、歴史が証明している。
この点、我が国では一般に『ブラウン神父の童心』(創元推理文庫)等の推理小説の著者として知られているにすぎないが、英国を代表する偉大な思想家の一人であるG・K・チェスタトンは、「伝統」を「選挙権の時間的拡大」・「祖先に投票権を与えること」・「死者の民主主義」と呼んでいる。
少し長いがG・K・チェスタトン著作集1・安西徹雄訳『正統とは何か』(春秋社)から引用する(原書は1908年)。
「要するに民主主義の信条とは、もっとも重要な物事は是非とも平凡人自身に任せろというにつきる。たとえば結婚、子供の養育、そして国家の法律といったことがらだ。これが民主主義である。そして私はその信条をいつでも信じつづけてきたのである。
けれども、若いころから私には一度も理解できないことが一つある。民主主義は、どういうわけか伝統と対立すると人は言う。どこからこんな考えが出てきたのか、それが私にはどうしても理解できぬのだ。伝統とは、民主主義を時間の軸にそって昔に押し広げたものにほかならぬではないか。それはどう見ても明らかなはずである。何か孤立した記録、偶然に選ばれた記録を信用するのではなく、過去の平凡な人間共通の輿論を信用する-それが伝統のはずである。・・・
・・・伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、我らが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」(75〜76頁)
これに対して、我が国では、文部省が作成した『あたらしい憲法のはなし』を見れば明らかなように、英国における民主政のcommon senseコモンセンス常識である「伝統」すなわち「選挙権の時間的拡大」・「祖先に投票権を与えること」・「死者の民主主義」が教えられることが一切ない。
進歩史観(歴史は進歩するという史観。マルクスは、歴史は段階的に進歩し、最終的には共産主義に至ると主張した。いずれにせよ、進歩史観によれば、過去は暗黒時代であり、悪だということになる。)に立脚した人権教の司祭たる教授たちは、伝統や慣習を因習と捉えるため、法学部においても、「伝統」すなわち「選挙権の時間的拡大」・「祖先に投票権を与えること」・「死者の民主主義」が教えられることがない。
そのため、学生たちは、英国の民主政を正しく理解することができないので、大日本帝国憲法も日本国憲法も正しく解釈することができない。毎年、人権教に洗脳され、浅薄な知識しかない学生が大量生産され、人権教の使徒として社会へ送り込まれることになる。
その結果、今の政治は、伝統や慣習を顧みることなくこれを無視ないし蔑視し、今を生きる国民向けのパフォーマンスになっているわけだ。進歩史観が間違っており、歴史が進歩しないことは、このような退化した現代日本の民主政を見れば明らかだ。
祖先に顔向できない恥知らずな劇場型パフォーマンスと化した現代日本の民主政こそがまさにチェスタトンのいう「生者の傲慢な寡頭政治」なのだ。