ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて
ハンニバル、というと猟奇的な博士が主役のリドリー•スコット監督の映画(2001年製作)を連想する人もいるかも知れませんが、このブログで紹介する「ハンニバル」(著者/長谷川 博隆さん)は、紀元前200年頃、地中海で活躍したカルタゴの将軍、ハンニバル・バルカです。
ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca, 紀元前247年 - 紀元前183年/紀元前182年)は、カルタゴの名将。ハミルカル・バルカの長子。第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられてきた。カンナエの戦いにおける包囲殲滅(せんめつ)は戦史上の金字塔として名高い。2000年以上経た現在でも、各国の軍隊組織が戦術家の能力を研究対象とし、参照するなど評価は非常に高い。(Wikipediaより)
このハンニバルという人は、当時の地中海の新興国カルタゴの将軍。当時のカルタゴ同様、イタリア半島で勢いを増していた新興国・共和制ローマに決然と対峙し、天敵・ローマを脅かしました。地中海の地図(下)をみてもらえばわかりますが、この人は、少年時代に父ハミカルと共にカルタゴから北アフリカ西方へ出発。そして九歳の時、北アフリカ西方の対岸からヨーロッパ・スペインにわたります。(ヨーロッパへ渡る直前、父・ハミルカルから生涯帝政ローマを敵とすることを誓わされたハンニバル。)父ハミルカルと姉婿・ハスドルバルの死後、彼は挙兵し、アルプス山脈越えを決行、ローマを目指します。( 表紙 ↑ の絵は、ハンニバルの軍隊がアルプス越えに成功し、イタリア平野を一望できる峠から、ローマの方角を皆で見つめている場面です。この時の彼らハンニバルの軍隊は、困難を極めた冬のアルプス行軍を終え、彼らの眼前に、イタリアの平野広がっているのを一望したのでした。難関である冬場のアルプス越えを制覇した彼らにとっては、ローマまでの行程を脅かすものはなく、この時はまさに、ローマを我が物にする、という野心で皆の胸は燃え盛っていたのだと想像します。この後、行く先々で兵を補充しながら行軍し、ローマを脅かし続けます。
一方のローマはイタリア半島北方にあるハンニバル軍を粉砕すべく軍隊を送り出しますが、行く先々で兵の補充を行い戦闘志気の低い軍隊とハンニバル軍を甘く見ていたローマ軍はことごこく粉砕されます。やがて都市ローマを囲む門の前まで軍を進めたハンニバルにローマ市民は打ち震えます。ここでローマを一気に攻めることができたハンニバルですが、後方支援や、軍隊兵の補充など、ローマを仮に占拠したとしてもそのあとが続かないと悟ったハンニバルは兵を自ら撤退させ、その後、イタリア半島の南部の都市を同盟にしながら、イタリア半島内を移動しながら、進軍の活路を見出す機会を伺います。対するローマは、イベリア半島他に存在するハンニバルの同名国を抑え込み、若き将軍スキピオのもと攻勢へ転じ、カルタゴへ兵を送りこみます。この動きに対し、ハンニバルは祖国カルタゴのために帰還、若き将軍スキピオを中心とするローマ軍と戦いますが(ザマの戦い)、当時の新興国同士の雌雄を決める戦に敗れたカルタゴは、地中海における優位性を失い、ローマから膨大な賠償金を課せられます。
この母国の経済的危機にあって、ハンニバルは政治的な手腕を発揮。ローマへ賠償金を返済しますが、このカルタゴの早急な経済的回復にローマの反カルタゴ勢力は危機感を強め、また、カルタゴでは、ハンニバルの強引な政策に対し反ハンニバル勢力が台頭、このため、ハンニバルは、シリアへ逃亡します。しかし、ハンニバルを執拗に追うローマ。ハンニバルはシリアからクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと落ち延びます。しかし、このピティニアにもローマの追っ手が迫ります。ピテュニア王にハンニバルの身柄の拘束を強く要求するローマに、ついにここまでとハンニバルは観念し、自害します。父の遺志を受け継ぎ、生涯、定住の場所を持たず、常に祖国カルタゴを想い、戦いに明け暮れる、という波乱万丈の一生を送った将軍でした。
共和制ローマでは、小さい子供が泣き止まない時、親は「ハンニバルが来てあなたを連れてってしまうよ。」と子供に言ったそうです。それだけ、ハンニバルは、当時の共和制ローマの市民を震え上がらせたということなのでしょう。このブロブの冒頭でも記述したように、猟奇的な映画の主人公の名前は、観客に怖さを連想づけるためこのカルタゴの将軍から拝借したのかもしれません。しかし、本書の著者/長谷川 博隆さんによると、ハンニバルに関する現存の歴史的な第一級史料や文献というのは、すべてローマ側に残っているもので、ハンニバル出身のカルタゴ(現・チュニジア近辺)で見つけられたものは全くないのです。当時のカルタゴとの戦いで勝利したローマは、カルタゴ憎しの思いで、カルタゴという都市を徹底的に破壊し、その廃墟も一掃。その都市があった土地には今後永年、植物が育たないようにと徹底的に塩を撒いたと伝えられ、そのため当然のことながら当時のカルタゴの文献を保管する文書庫などもローマ軍により破壊し尽くされ、当時のハンニバル•バルカの活躍を今に伝える史料は何も残っていないからです。
チュニジアでは、紙幣の肖像にまでなったほどの英雄、ハンニバルですが、日本においては、彼の歴史書は数えるほどしか出版されていない、と長谷川さんは語ります。うーん。。日本においてもこのカルタゴの勇将はもっと語られて然るべきと思う自分としては、せめて海外の彼に関する書籍をもっと日本で出版して欲しい、と感じました。実際、私もハンニバルに関する書籍をAmazon などで探してみたのですが、確かに彼に関する書籍は少ないように思えます。そんな中にあってハンニバルについて公平に評価しようとする本書は正に貴重であると感じます。
そいうった事情もあり、現存するハンニバルに関する資料は、(敵国ローマ側が残したものなので、)当然ローマ側の偏見を持って脚色されていると考えるのが自然で、彼を残酷・非道、そして猟奇的な人物として多少誇張して描かれているのでしょう。そういった資料がどこまで客観的なのものかはかわかりません。
当時の新強国ローマと堂々と戦い、それも最初からイタリア半島という完全アウエイの地でローマ軍と対峙し、都市ローマの門前まで攻め込み、その後もすぐにはカルタゴに帰還せず、イタリア半島内にとどまりローマと戦う機会を模索し続けた勇敢な武将として、歴史はもっと彼に正当な評価を与えるべき、、と思うのは自分だけでしょうか、、、 さらに長谷川さんは、ローマとの戦い(ザマの戦い)後、海外で亡命生活を送っていた時期でも、ハンニバルは政治家として祖国の存亡のために心労惜しまず祖国関係者と常に連絡を取り合い、祖国の独立自尊と平和を願っていた、と話します。
どこかに書いてありましたが、彼はアルプス越えの進軍中、決して贅沢で暖かいテントでは就寝せず、一介の兵士同様、粗末な寝床を使っていたと云います。そうやって他の兵士と共に苦難を共有しながら、ローマ兵との闘いに闘志を燃やし続けていたのでしょう。そして真冬のアルプス越え、、兵士や戦闘用の象も狭い谷道から谷へ滑り落ち、死んでいった犠牲も多かったと言います。そういった行軍での辛さ、苦行を共にする兵士への思いやり、、そして、それまで誰も考えつかなかった軍隊による真冬のアルプス越え、、、という当時の戦略的ブルーオーシャン(革新的イノベーション)を開拓した策略家であり、また、アレクサンドロス大王、カエサルと比較しても全く遜色のない、とても尊敬できる指導者であったと思います。。生涯、どこか一定の地に定住することなく、戦いに明け暮れ、最後まで祖国を思いながら一生を終える、という人生。一介のサラリーマンにはとても想像もできない一生ですが、それでも男子なら誰でも男心を揺さぶられ、ロマンを掻き立てられる、、そんな人物だと思いました。