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杉並区 07 (02/02/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 (4) 新宿

2024.02.03 15:51

旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 (4) 新宿 [小字 新町、現 上井草五丁目、上井草四丁目の一部、今川四丁目の一部、善福寺二/三/四丁目の一部]



今回の東京滞在の最後の訪問地の新宿を見て行く。


旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 (4) 新宿 [小字 新町、現 上井草五丁目、上井草四丁目の一部、今川四丁目の一部、善福寺二/三/四丁目の一部]

小名新宿は三家の西、現在の杉並区の北西端に当る地域で、千川用水が東流して、妙正寺川の上流をなしている。江戸時代から明治時代にかけて上井草村の一部だった。1889年 (明治22年) に小字谷頭、遅の井、新町及び善福寺の各一部を合せて井荻村 (後に井荻町) の大字上井草小字新町となった。1932年 (昭和7年) に杉並区新町となり、昭和38年から昭和39年にかけて住居名変更がされ現在に至っている。この地域内には、井草式土器が出土した縄文時代の住居跡が発見されており、古代から人が住んでいた。

新宿の民家は青梅街道沿い (六ヶ村分水) と北部の谷頭の千川上水から井草川への分水路沿いに集中しており、水場近くだった。戦前までは、民家はさほど拡張しておらず、人口が増え始まるのは大正期の区画整理で戦後に徐々に民家が増えている。1960年代には公共機関や神社敷地以外はほぼ民家で埋め尽くされている。


小名 新宿内の寺社仏閣や民間信仰の塔は旧青梅街道沿いに集まっており、以下の通り。



西山家穀櫃

井草川遊歩道を遊歩道が途切れる三谷公園まで行き、そこから細い歩道を北に進む。この細い道は千川上水からの分水路で井草川に流れ込んでいた。分水路は暗渠となり、細い道に変わっている。この分水路の西側に広大な敷地の邸宅があった。屋敷林も残っている。江戸時代、豪農だった西山家の屋敷になる。この敷地内に、杉並区の有形文化財に指定された穀櫃が現存している。この穀櫃は飢饉に備えて穀物を貯えたもので、1844年 (天保5

年) に西山家の祖先である上井草村字谷頭の 西山助右衛門が作ったという。天明の飢饉以後、幕府は各地方の事情に応じて数箇村から一箇村、組などを単位に穀櫃や穀倉を作らせ、主に稗を貯えさせる政策をとっており、西山家穀櫃もそうした状況のもとで作られたものと考えられている。現の穀櫃は屋根がのせられているが、本来は屋根はなく納屋内または軒下に置き、三箇所に仕切られた内部に半分が上げぶたになっている天井から穀物を入れるようになっており、取り出し口は土台上部にあって、板を押して取り出す構造だった。


井草遺跡

西山家穀櫃から南にある井草川源流の切り通し公園に向かう。縄文坂 (写真上) を下ると、杉並工業高等学校グラウンドのネットに案内板が置かれていた。井草遺跡とある。旧石器時代から江戸時代までの複合遺跡で、井草川(現在は暗渠)流域の台地上に位置し、この辺りに広がっていた。1940年 (昭和15年) に発掘調査が行われ、後に井草式土器と命名された縄文時代早期前半 (約9千年前) の縄文土器群や石鏃・石斧が発見されている。井草式土器は、口縁部が外に反った丸底の深鉢土器です。撚った紐を巻き付けた棒状の道具を使い、転がし押し付けた撚糸文を土器の縁から全面に付けるのが大きな特徴。


井草川分水路

井草川本流は切り通し公園から杉並工業高等学校敷地内を突っ切り三谷公園付近に流れていた。三谷公園付近から井草川からの分水路が南側に流れており、現在では暗渠になっている。その暗渠の一部が高校敷地の南沿いにある。この分水路暗渠も高校敷地内を流れており、暗渠道は途中で途切れていた。


切り通し公園

杉並工業高等学校の西側に切り通し公園がある。ここが井草川の源流だった所で、井草川はここから妙正寺公園まで約3.5kmを流れ妙正寺川に合流していた。公園は切り通しの形にはなっていないのだが、 1955年 (昭和30年) 代までは、地形が切通しになっていたそうだが、管渠埋没工事で切通しの地形は失われてしる。公園ととして名だけが残っている。この公園の場所も井草遺跡の一部で、その説明板が置かれていた。園山俊二の「はじめ人間ギャートルズ」が描かれている。園山俊二は杉並区内に住んでおり、「はじめ人間ギャートルズ」を創作の為に区内の発掘現場へ何度か足を運び、この場所にも来ていたそうだ。この縁で、子供達のために遺跡のイラストを描いたという。

この切通し公園にも太田道灌の石神井城攻めの伝承がある。この切通し付近で、石神井城城主の豊島泰経を、農民に扮した道灌の足軽が待伏せの騙し討ちで殺害したというもの。この伝承を元に様々な推測がある。この待ち伏せで豊島泰経が暗殺されたか重傷を負い、平塚城 (または練馬城) 城主で泰経の弟の豊島泰明が急遽石神井城に向かった。これを道灌は予想して、江古田で待ち伏せをして討ち取った。そして道灌は石神井城攻めの為、荻窪八幡宮で必勝祈願をし、第1陣を愛宕山、第2陣を観音山(上石神井1丁目、井草高校付近)、第3陣を道灌山、本陣を現在の道灌公園付近に置き、石神井城を落とした。というもので練馬区での伝承とはかなり異なっている。


庚申塔 (76番)

青梅街道の井草八幡前交差点に庚申塔 (76番) が置かれている。1738年 (元文3年) に遅野井村講中20人によって造立された笠付角柱で正面上部に月日とニ鶏、その下に邪鬼 (シュケラ) を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。


青梅街道、六村分水路 (半兵衛・相澤堀)

庚申塔 (76番) は青梅街道 (都道4号) 沿いにあるのだが、明治時代の地図を見ると当時の青梅街道は少し北側を走っている。都道4号が新しい青梅街道となった際に旧青梅街道は無くなっているようだ。この旧青梅街道沿いには千川上水の出店 (でだな) 橋または伊勢 (殿) 橋と呼ばれた橋から農地に水を引くために灌漑用水の六村分水路が通っていた。6カ所の取水口が設けられており、その一つが切り通し口で井草川に合流していた。この分水路は下井草村と阿佐ヶ谷村の名主であった井口半兵衛と相澤喜兵衛から半兵衛・相澤堀と呼ばれていた。この両人が近隣の上井草、天沼、鷺の宮、下荻窪などの村々と協議して幕府に申請し、1707年 (宝永4年) に許可を得て、関町から阿佐ヶ谷村まで堀を設置している。この堀の切り通し口から井草川へ、清水口から清水田圃に分水され、井草川流域や妙正寺南に水田が造成されている。


井草八幡宮

井草八幡前交差点を渡った所が井草八幡宮の北参道の朱塗の大鳥居が置かれている。井草八幡宮は上井草村と下井草村の鎮守として、明治時代までは遅野井八幡宮とも称せられ、祭神として八幡大神 (やはたのおおかみ 応神天皇) を祀っている。創建時期については定かではないのだが、鎌倉時代、建久年間 (1190 ~ 98年) と考えられている。この近くには井草遺跡が発見されており、この神社境内でも縄文時代の土器を伴う住居跡が見つかっている。江戸時代の1649年 (慶安2年) には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領の給付、また寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬され保護されていた。


北鳥居、大灯篭、北参道

井草八幡前交差点側の北参道入り口には朱色の大鳥居と高さ9mの大灯篭が置かれている。この鳥居は、東日本大震災で破損した石鳥居 (昭和33年建立) に代わって、2013年 (平成25年) に建立されたもので、大灯篭は、昭和42年、別表神社に列せられた記念に造られている。新編武蔵風土記稿 (昌平坂学問所地誌調所

 1830 年 文政13年) によれば木造鳥居 (1810年 文化7年に再建されたもの) は二基あったとされている。また、江戸時代初期に青梅街道が開通した際にかつての鎌倉方面に面していた参道を青梅街道方向に移している。この二基の鳥居とは北参道と東参道と思われる。


大鳥居、東参道

参道はもう一つある。北参道から青梅街道を善福寺一丁目交差点方面に進んだところ、街道沿いに東参道の入口がある。1931年 (昭和6年) に青梅街道の道幅が拡張された際に、境内地が削減され、1932年 (昭和7年) に東参道は西寄りに移されている。青梅街道から東参道への入り口には1957年 (昭和32年) に建立された朱塗の大鳥居が置かれている。この東参道は直線距離200mもあり、5年に一度の流鏑馬神事の馬場としても使われている。


楼門

東参道と北参道は合流して、その先にある随神門の楼門に続いている。ここには南の道路からの道も合流しており、その道の入り口にも朱塗に鳥居 (写真上) が置かれている。案内板には名前はつけられてはいないのだが、境内南側なので、南鳥居とでもいうのだろうか。参道の合流地点、東参道側に2基の灯籠が置かれている。現在残っている2基の灯籠は1818年 (文政元年) に再建されたもので、元々は1694年 (元禄7年)に富士講の丸を講により奉納されていた。竿三面に「正八幡宮 富士浅間宮 食行身録的同行」、台石には「上下氏子中」、上井草村、下井草村、上荻窪村、上石神井村、下石神井村等101名の奉納者名が刻まれている。

昭和46年建立の、鉄筋コンクリート造り楼門がある。楼門には随神の赤衣に黒弓、銀矢を持っ豊磐間戸神 (右下) と黒衣に朱の弓、金矢を持った櫛磐間御戸神 (左下) が収められている。

楼門の左右には幾つもの神輿倉が伸び、北側には神戸町、善福寺町、今川町、上井草町、正保・八成・住吉町の五つ、南側には新町、中通町、三谷町、宿町、井荻町の五つと各町会の神輿が収められている。その奥には黒いシャッターの神輿庫 (写真右下) が置かれている。こちらは井草八幡宮の神輿が納められているのだろう。


神楽殿

楼門を入った左手には神楽殿がある。1995年 (平成7年) に源頼朝公祈請800年記念・皇太子殿下御結婚奉祝事業として従来の舞台だけのものから橋掛かりのあるものへと改築されている。この神楽殿では里神楽や井草囃子、狂言、薪能などが行われている。


力石

神楽殿の裏手には奉納された楕円形の力石が置かれている。力石はその年の豊作を占う石占いとして始まり、その後は若者達による力自慢を競う石担ぎとなっていった。この井草八幡宮ではかつては例祭で若者たちの石担ぎが行なわれ、その力石を奉納する習わしがあった。ここにある力石は幕末期の1849年 (嘉永2年)と1918年 (大正7年) に奉納された16個がまとめて置かれ、石には村名、重量や奉納者などが刻まれ、軽いもので二十七貫目 (約101kg)、重いもので六十〆目 (約225kg) と刻まれている。中に石に名が付けられているものもある。紀硫石、青龍石と刻まれたものは、幕末期に小美野豊次郎方において、紀州家に出入りしていた頃、豊次郎が珍しい力持ちで殿様御前でこの石を担ぎ上げ、下賜せられ、それを神社に奉納したので、こに名称をつけたという。


境内社 (祓戸神社、三宮神社)

楼門の右手に1857年 (安政4年) に奉納された三ツ巴紋の手水舎があり、その奥に境内社が二つ置かれている。右手が祓戸神社で1900年 (明治33年) に境内末社だった八雲神社が合祀されている。左手に置かれているのが三宮神社で天照大御神、春日大神、天満天神を合祀している。


頼朝公お手植えの松

境内の中に一本松が聳え立っている。頼朝公お手植えの松という。源頼朝が1186年 (文治2年) に奥州藤原泰衡征伐の際にここに立ち寄り戦勝祈願を行った。奥州平定後、1189年 (文治5年) に報賽のため、雌雄二本の松を手植えしたと伝わっている。雌松 (赤松) は明治初年に枯れ、雄松 (黒松) は1973年 (昭和47年) に強風で大枝が折れ、翌年に枯れてしまい、その後、二代目の松が植えられて現在に至っている。枯れた黒松の根の一部は衝立 (左下) になって回廊内に展示されていた。


祖霊舎招魂殿

境内の南側には祖霊舎招魂殿が建っている。この建物は1813年 (文化10年) に建立されたもので、昔は拝殿だった


文華殿

祖霊舎招魂殿の北、頼朝公お手植えの松の東には、昔からあったものではなく1952年 (昭和27年) に造られた鉄筋コンクリート製舟肘木形式の文華殿がある。これは宝物殿で、この辺りで出土した土器や武具、奉納額などが収められている。

所蔵されている奉納額の中に1829年 (文政12年) に井草村の榛名講中により奉納された板絵着色榛名山社頭図が保管されており、榛名神社の社殿、社頭の図および参拝する人々の姿が描かれている。

1840年 (天保11年) に奉納された板絵着色遅の井伝説図一面には源頼朝がこの地に宿陣した際、水を得るため自ら弓で七か所も掘ってみたものの水がなかなか湧き出てこず、軍勢が「水の湧くのが遅い、遅い」と嘆いていたら、忽然と水が湧き出てきたという伝説から付いた地名が「遅の井」になる。弓で井戸を掘る源頼朝と傍らで見守る二人の武将が描かれている。

室町時代の1477年 (文明9年) には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられている。



境内社 (三谷稲荷神社、三峯神社、新町稲荷神社)

文華殿の右、社務所 (右上) の左手奥に境内社が3社ある。左から三谷稲荷神社 (左上、左中)、真ん中が1823年 (文政6年) に勧請された三峯神社 (中中)で 1909年 (明治42年) に相殿として新町御嶽神社と三谷御嶽神社が合祀されている。その右は1824年 (文政7年) に境内末社となった新町稲荷神社 (右中、右下) が置かれている。この他に江戸時代には瘡守神社が境内末社があったと記録にはあるが現在していない。


正守庚申、石尊大権現

境内社の前の木の根元には、1895年 (明治28年) に造立された庚申塔で「正守庚申」と刻まれている。その隣には、烏天狗と刀を振るう武士像の「石尊大権現」が祀られている。この場所は井草八幡宮の北側にある駐車場の奥に移設 (1975年 昭和50年) された富士塚が1815年 (文化12年) に造られた場所になる。


神門

境内から拝殿へは回廊形式の神門を潜り入る。神門の前には1853年 (嘉永6年) に奉納された狛犬が置かれている。


拝殿、幣殿、本殿

神門を潜ると、入り母屋造りの立派な拝殿がある。創建は不詳だが、平安時代末期に造られたと考えられている。この地を含めた旧上井草・旧下井草は高家今川氏の領地で、1664年 (寛文4年) に今川氏堯 (うじなり) により改築された本殿 (朱雀の本殿) は杉並区最古の木造建築物となり、現在でも本殿として拝殿奥の覆殿に納められている。


西鳥居、豊明殿、斎館、民族資料館

文華殿の横の道から境内からの出口にも西の鳥居が置かれている。昔からあった鳥居かどうかは不明だが、鳥居横に手水鉢が置かれているので、ここもお参りへの入り口になるのだろう。ここは神社事務所への裏口の様だ。

西鳥居の前には古い建物がある。宮司の住居だった建物で、その奥には案内板では斎館とあり、民族資料館になっている。不定期の開館の様で、今日は閉館で次回公開日は5月4日と書かれていた。民族資料館の横は豊明殿で社務所になっている。


不動明王像 (赤ちやり不動 二基) [未訪問]

民族資料館の前にはニ基の不動明王像が置かれているのだが、今日は民族資料館が閉館中で、そこには行けず、見る事が出来なかった。開館日は不定期で次は5月だそうだ。下は資料にあった不動明王像の写真。

この二つの不動明王共に造立時期不明の舟型石塔に不動明王坐像が浮き彫りされ、その両脇には傍侍の制吒迦童子と矜羯羅童子も浮き彫りされている。共に「赤ちゃり不動」と呼ばれ、元々は妙正寺川の寺前橋に置かれていたものをここに移設したもの。


富士塚

井草八幡宮の北側にある駐車場の奥に上権現とも称される木花開耶姫命を祀る浅間信仰の富士塚が置かれている。この富士塚は、以前は本殿西南側にあったもので、1975年 (昭和50年) に塚前の浅間神社より丁度富士山を仰 ぐことが出来る位置に移築されている。富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創始され、18世紀半ばから各地で富士講が組織され流行した。ここの富士講は昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いていた。富士塚は富士登山が出来ない人 たち (体が悪い・老人・婦女子) のために造られたといわれ、都内に約50ヶ所が確認されており、これは杉並区内では唯一現存しているもので規模も大きい。


椿の庚申塔 (89番)

井草八幡宮の東参道の北側の玉垣沿いの遊歩道の井草八幡宮風致の森に椿の庚申塔がある。1686年 (貞享3年) に小字三谷の唯一北への入口の場所に造立された笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。その当時、敷地内には椿の大樹が生繁っていたので集落では「椿庚申様」と呼んでいた。1922年 (大正12年) の関東大震災後の土地区画整理事業が始められ青梅街道拡幅に伴い、桃井4丁目5-1に移設され、更にそこにマンションが建設されることになり、この地に移設されている。


旧東参道石鳥居

玉垣沿いの遊歩道を西に進んだところに解体された石鳥居が展示されていた。この石鳥居は、1931年 (昭和6年) に青梅街道の道幅が拡張された際に、境内地が削減され、東参道とその入り口にあった石鳥居を撤去し、1932年 (昭和7年) に西寄りに新たな東参道を設けられた。その際に、その入り口に新たな石鳥居を建立している。その後、1957年 (昭和32年) に東参道拡幅整備で、現在の大鳥居が建立され、石鳥居は北参道に移設されていた。東日本大震災の際にこの地でも震度五強の揺れで貫石が落下するなどの被害を受け、復旧して安全を保つことが 困難となり、この東参道石鳥居を解体しこの場所に移設し置かれている。


井荻町土地区画整理碑

東参道大鳥居の隣、林の中に大きな石碑が建っている。柵で囲まれ施錠されているので、中には入れないのだが、柵に案内板が置かれている。それによれば、石碑は、1940年 (昭和15年) に区画整理事業の完成を記念して、井荻町土地区画整理組合によって建てられた井荻町土地区画整理碑とある。井荻村全域を大正にした土地区画整理事業は1925年 (大正14年) に設立された井荻村土地区画整理組合により、10年を費やして1935年 (昭和10年) に完了している。碑の正面にはこの区画整理事業の経過を、裏面には組合役員132人の名が刻まれている。この事業によって東京近郊農村であった井荻地区が都内でも有数の郊外住宅地として発展することになる。当時の地図を見ると、井荻村 (井荻町) 各地は碁盤目状の道路が整備されている。この住宅地整備後、住宅が建ち始め住宅街が拡大していったのは戦後になる。


江戸向地蔵 (94番)、三山百番供養塔 (95番)、地蔵菩薩尊立像 (93番)

井草八幡宮から青梅街道を北西に進んだ上井草四丁目交差点の場所に地蔵尊が立っている。地番は善福寺4丁目だが、昔は字新宿だった。大きく江戸向き地蔵と書かれている。確かに、江戸の方を向いている。丸彫の江戸向き地蔵 (94番) は1729年 (享保14年) に武列多摩郡遅野井村の16人によって造立されている。以前は「開運地蔵尊」と呼ばれていた様だが、いつからか江戸向き地蔵と呼ばれている。江戸向き地蔵の横には駒形角柱の三山百番供養塔 (95番) が置かれている。1826年 (文政9年) に造立され、三山の「月山 湯殿山 羽黒山」「西國 秩父 坂東」と刻まれている。この他に小さな新しい地蔵菩薩像が二基置かれている。

江戸向地蔵が開運地蔵と呼ばれていた時の写真には別の地蔵菩薩立像 (93番) が写っている。こちらは1734年 (享保19年) に造立され、十八夜念仏供養と刻まれていたのだが、どこかに移設されたのだろうか?



これで今回の東京滞在中の史跡巡りは終了。明日成田から沖縄に帰る。今度、東京に来るのは定期検診が予定されている4月になる。



上井草村 小名 新宿 訪問ログ


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)