「バレンタインの天使たち」: / 本編沿い / クリスとニールに見守られてるふたり
ふと、甘いチョコレートの香りに視線を奪われる。
コロニー内の商業施設。ひときわ人が多い食料フロアーの一画に、その店はあった。
「バレンタインのチョコレート催事です」
よかったらどうぞと差し出されたのは、小さなカップに入ったホットチョコレート。ひとりで買い出しに来ていたフェルトは少しだけ悩む。今日ここに来たのはトレミーの食料調達のためで、半分非番で半分任務のようなものだ。こんなところで横道に逸れるわけにはいかない——そう思ってやんわり断ろうとして、だがしかし、うっかり固まってしまった。
目の前に立っていた女性店員の髪と瞳の色が、懐かしい友人、クリスティナ・シエラと同じだったから。
「……どうも」
つい引き込まれてしまって、足を止めてホットチョコレートを受け取った。フェルトがカップに口をつけるのを見ると、女性店員は嬉しそうに笑った。——似てない。当たり前だけど、クリスとは似ても似つかない別人だ。けれど愛嬌のある雰囲気は共通していて、ついためつすがめつ眺めてしまう。
甘いホットチョコレートを賞味しながら、期間限定らしい小さなブースを見渡した。粒揃いのチョコレートが、うっとりするほど端正な大小さまざまな箱の中に並んでいる。もうすぐバレンタイン——、フェルトの知識では、一年間頑張った自分自身へのご褒美に美味しいチョコレートを買う行事だったはずで、主に女性を中心に人気がある。
「女性同士でプレゼントし合うことも多いんですよ」
空になったカップを受け取った女性店員がそう教えてくれた。ミレイナやスメラギさんに買って帰ったら喜ぶかな、となどと考えていると、所狭しと並んだ箱のひとつに目が止まった。
目が冴えるような爽やかなブルー。幾何学模様の繊細な装飾に、上品に縁取る箔押しの金。
(きれい……)
思わず近づいて、うっとりと見惚れてしまった。そばに置かれた見本によると、ピスタチオやキャラメルを使ったチョコレートが入っているらしい。箱も美しいが、中のチョコレートの一粒一粒の美麗さもそれに引けを取らない。
なぜこんなにも心が惹きつけられるのだろうかと思ったときに、フェルトの脳裏に浮かぶ顔があった。そうだ、箱の意匠を見て思い出したのだ。どことなく中東を感じさせるデザインに、冴え渡る空のような青色……。
その二つから導き出されるものは、フェルトにとってはただひとりの存在だった。
「恋、してるんですね」
突然そう問いかけられて、初めは言葉がうまく飲み込めなかった。
「——えっ?」
顔を上げると、黄色がかったグリーンの瞳が優しくこちらを見つめていた。フェルトにとっては懐かしく、居心地の良い色の瞳だ。
「こ、恋、ですか」
思わず声がうわずる。クリスと同じ栗色の髪を揺らして、女性がうなずく。
「見たら分かります。誰かを思い出してるんだなって」
「……そう、ですか?」
「はい」
女性店員はそう言ってにっこりと笑った。
心臓がどくどくと打っている。見知らぬ人にそんなことを見透かされてしまったことにも動揺するし、いまだに脳裏から彼——刹那・F・セイエイの横顔が消えないのだった。
実は、と女性店員がチョコレートのパッケージを整えながら口を開く。
「バレンタインチョコって、今でこそ『自分へのご褒美』としてご購入される方が多いんですが、数百年前はまったく違った意味の行事だったらしいですよ」
「……?」
「なんと二十一世紀の頃には、好きな男性にチョコレートを贈ることが、愛の告白になっていたそうなんです」
「あ、愛っ?!」
思わず大きな声を出してしまったフェルトに、女性店員はやや驚きながらも、嬉しそうに肩を揺らした。
「うふふ。だから、意中の方にこっそりチョコレートを贈って、秘めた想いを伝えることもできるんです」
「そ、そんなこと……」
顔を真っ赤にしたフェルトに、女性店員は茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。その顔は明るく輝いて——どことなくかつてのクリスティナ・シエラが重なった。
「ささやかなプレゼントとして、おひとついかがですか?」
*
バレンタイン当日。その日の仕事をあらかた終え、展望室でひとり休んでいたフェルトは、いまになって気弱になっていた。
手にはコーヒー、膝には結局買って帰ってしまった例のチョコレートの真新しい箱が、室内照明を受けてきらきらと輝いている。
ため息をつく。いまさら怖気付いてどうするのか、と情けなくなるが、正直あのクリスに似た女性店員のセールストークに乗せられた感は否めない。
こっそりチョコレートを贈って、秘めた想いを伝える——。
つまり、自分ではその含まれた意味を知っておきながら、何も知らない刹那にさりげなくチョコレートを渡す、ということだ。
正直、あまり褒められたことではないと思う。それでも買ってしまったのは、下心が半分と、純粋にこのチョコレートを刹那に贈りたいという気持ちがあったからだ。それほど彼によく似合っていると思ったし、ここのところミッション続きの彼の心に、少しでも安らいだ時間を贈ることができたら、と思っていた。
「でも、ただの自己満足、かも……」
「フェルト」
「はい……って、えっ?!」
ため息混じりに独り言をついたところに声をかけられて、思わず飛び上がる。見れば、コーヒーカップを片手に持った刹那が、展望室の入り口に立っていた。
「せ、刹那」
「……どうした」
いつもの無表情に少しだけ怪訝な色を加えた刹那が、じっとフェルトを見下ろしている。どうやら彼も今日予定されていた仕事を終えて、コーヒーでも飲もうと展望室を訪れたところらしい、
「あ、えっと、その」
思ってもみなかったチャンスに心が追いつかず、フェルトは目を泳がせる。クリスに似たあの女性店員の瞳を思い出す。そうだ、コーヒーによく合うチョコレートなのだと、会計をした時に彼女が話していたっけ……。
「お疲れさま。これ、……よかったら、食べて」
声が震えるのを必死でおさえながら、フェルトはおずおずとチョコレートの箱を刹那に手渡した。
趣向を凝らした美しい外箱にはほとんど目を向けることもなく、刹那が蓋を開ける。
「……チョコレート?」
「う、うん」
刹那はさっそく整然と並んだチョコレートのひとつを手に取り、もぐもぐと食べ始めた。確かにコーヒーと合うようで、宙に遊ばせていたコーヒーのボトルに口をつけている。夕食前の時間だし、お腹が空いていたのかな、とフェルトはその様子を眺めながら思う。
「美味しい?」
「ああ」
よかった、とフェルトは安堵した。チョコレートの甘い香りと、温かなコーヒーの匂いが部屋に広がる。散々悩んでいたけれど、やっぱり刹那にプレゼントできてよかった、と柔らかい気持ちで彼を見上げると。
赤みがかった茶色の瞳が、いままでになく真っ直ぐに、フェルトを見下ろしていた。
「……」
「刹那?」
「……いや、その」
不思議に思って彼の名前を呼ぶと、めずらしく言葉を濁し、その瞳がわずかに揺らぐ。どこか感じ入ったような表情で、刹那は口を開いた。
「ありがとう、フェルト」
「……ううん?」
変だ。刹那が動揺している。フェルトの目から見てもそうとれるのだから、間違いないだろう。
チョコレートをもうひとつ口に含みながら、刹那はボソボソと話し始めた。
「昔、ニールが、」
「……ニール?」
「……バレンタインは、女性が男性にチョコレートを贈る日、だと……」
「……う……」
フェルトの顔がこれ以上ないほど赤く染まったことは、言うまでもない。刹那は慎重に言葉を選んではいたが、バレンタインの古い意味を知っていることは、様子から見て間違いないだろう。
よりによって。なんでニールが。刹那にそんな古い情報を植え付けていたのか——。
「……違う、のか?」
「ち、違わない! 違わない、けど、あの……」
思わず涙目になったフェルトを見て、刹那が手の中のチョコレートの箱を見下ろす。空色のチョコレートを一粒、指先でつまんで、それをフェルトの口に近づけた。一粒分けてくれるつもりらしい。
「……ん」
彼に促されるまま、フェルトはおずおずと口を開く。このうえなく甘い極上のチョコレートの味が、口の中いっぱいに広がって、温かい気持ちが胸に広がっていく。
どこかで二人の天使が、かすかに笑ったような気がした。